12 新枕
陣山の丘から帰ると少し早めの夕餉を摂り、湯殿の用意がされた。
此の屋敷で重郷が湯殿を使うのは、初めてであった。
夜具の用意も滞る事無く行われ、若橘は胸を撫で下ろした。
紅梅姫が名実共に、重郷の側室に成るのである。
此の日の為に、どれ程の時間と労力を要したことか、姫の喜びは察するに余りあった。
「姫様、殿の申されるよう、成されますように、決して、逆らわれては成りません」
「……まあ若橘、貴女は殿方と枕を共にした事があるのですか?」
紅梅姫は恥ずかしそうに尋ねた。
「……いえ……」
その問いに若橘は口ごもった。若橘まで恥ずかしくなる。
「そう、橘の入れ知恵ですね?……もう恥ずかしい事は言わなくても良いですから……今夜は二人だけにして下さい」
そう言った紅梅姫が、若橘はとても可燐で愛おしいものに感じた。
恋をした女とはこの様に華やいで美しいものかと、若橘は紅梅姫の変化が羨ましかった。
紅梅姫の待つ寝所へと重郷を案内し、若橘は障子を閉め自分の部屋へと下がった。
此れで一先ず安心だった、そして、そのような夜に近くに侍るほど、若橘は男女の秘め事に慣れていなかった。
自分の部屋の前まで来た時、若橘は己の気配を消す。
障子をすっと、音も無く開け、直ぐに閉めた。
「沢村様、此処はわたくしの部屋でございます」
闇に向かって若橘は言葉を発し、短刀の柄に手を掛けた。
「ほう、やはり貴女は普通の女性では無いようだ」
闇の中から沢村の声が聞こえる。
闇の中でも若橘の目は効く、沢村は彼女の背後から襲おうとしていた。
カチャリと短刀を抜く音がし、若橘は軽々と身を翻した、そして構える。
「もう止さぬか、男と女の間で其のような遣り取りは面白くない、貴女は大内の間者かな?」
「わたくしは、大内の間者でも無ければ、何処の間者でも有りません、紅梅姫様の侍女です」
「……だが、誰が其れを信じるかな? 此れほど世が乱れては誰も信じることは出来ん、殿とて同じよ」
「貴方が信じぬのなら、其れでも良い」
「そうはいかん、姫様が疑われるぞ。若橘殿、其の剣、鞘に納めなさい。今夜の件は一切口外せぬ故……」
「だが、其れではわたくしが貴方を信じられませぬ」
若橘は構えたままだ。
「そうか、ならば、こうするしかない……」
沢村は若橘の両手首を掴んだ、流石の若橘も男の力には敵わなかった。
若橘は短刀をポトリと落とした。
沢村はそのまま若橘を押し倒す、沢村の顔が近付いてくる。
そして沢村の唇は、若橘の口を塞いだ。
若橘から「うっ」という声が漏れる。
「わたしは貴女を愛しいと言っているではないか、如何して其れを信じられぬ……」
静かではあったが、その顔は男の顔だった。
そしてもう一度、沢村は若橘の唇を奪った。
そのまま沢村は若橘の両手を一つにし左手で押さえ、右手で帯を解き、引き抜いた。
すっと衣擦れの音が響く。
若橘の体がぴくりとし、小袖の下の襦袢が見える。
「……離して下さい……如何なさるおつもりですか……」
若橘の体から力が抜け、頬を涙が伝う。
涙を見たとき、沢村は若橘を押さえた手を緩めた。
「……悪かった、無理にとは謂わぬ、貴女がわたしを信じてくれてからで良い、待つことにする」
「……沢村様……」
「其のように気の抜けた声を出されては、また貴女を求めてしまう……」
若橘は顔を背けた。
「冗談だ、もう止そう……今宵は殿と姫様の初めての夜だ、控えの間にて休むとする」
沢村は乱れた着物を整え、部屋を出て行った。
其の顔には何か寂しい影があった、其れは闇の中でも若橘にはよく分かった。
若橘は解かれた自分の帯を拾い、抱きしめる。
「まだ、其処に誰か居るのか?」
「ああ」
闇が答えた。
「……隼人? 隼人だな……全部、見ていたのか!?」
「ああ、見ていた」
「如何して助けてくれなかった? 隼人……」
「おまえには悪いがあいつは本気だ、あれ以上何かすれば出て行くつもりだったが……俺で良かった、翔太だったら、奴がおまえを掴んだところで、殺っちまってるだろうな」
「如何いうことだ、わたしに何をしろというのだ、沢村に抱かれろというのか? そして情報を得ろというのか……」
若橘は泣き崩れた。
「……馬鹿なことを言うな! 俺達が調べれば、大体のことくらい分かる。おまえに体を張らせるほど、俺達は落ちちゃ居ない。だが、沢村の気持ちは本物だ」
「如何して隼人にそんな事がわかる? 本気だ、などと……」
「分かるのさ、俺も本気で恋をしているからな……おまえは如何なんだ?」
「……」
「沢村は待つと言った。おまえは如何なのだ、考えろ。紅梅姫様も殿が自分を信じてくれるまで、じっと待ったのではないのか? 心が開かねば体も開かれぬ。信じぬ相手とは体が繋がっても、心が満たされぬ」
「……隼人?」
「俺達のような草は人を信じることの無いよう、育てられる。だから、簡単に仲間以外は信じることは出来ないだろうがな」
「隼人、わたしはこの筑前へ一体、何をしに来たのだ? 教えてくれ……」
「さあな、俺には分からん。だが、もしかしたら恋を知り、男を知り、人を思う為に遥々やって来たのかもしれないな」
隼人は泣き崩れる若橘を、幼い頃のようにその腕の中に収め、ゆくっりと頭を撫でた。
「姫様の様子を見てこよう……」
「……隼人?」
「何かあっては大変だ、間者や刺客は初夜も何も関係は無い。寧ろ、そういう時のほうが危ない」
隼人が消えた闇の中で若橘は一人、苦しい気持ちを抱え、光明を探していた。




