11 陣山の風
翌日、重郷は夕餉の時刻にやって来て食事をすると、また城へと戻って行った。
其れが三日ほど続いた。
其れは重郷が柏井の方に気を遣っていることの証でもあった。
だが紅梅姫は取り乱す事無く、落ち着いていた。
しかし、其処には焦燥感を抱く若橘が居た。
「姫様、此れでは御興し入れした意味がございません、殿にわたくしから申し上げます」
若橘の其の言葉に紅梅姫は苦笑した。
「……焦りは禁物ですよ、若橘、殿は安らぎを求めておられるのです、あまり殿を責めたくはありません、もう暫く此のままではいけませんか?」
「ですが……」
「御正室様のご気性を考えると、殿のお気持ちも分かります」
「……」
紅梅姫の姿はじっと堪えているというよりは、何か待っているようにみえた。
其のような日が幾日か過ぎ、重郷は昼間に来て、馬で出かけようと言い出した。
「何処へ行かれるのですか?」
姫はまるで童のように楽しそうにはしゃいだ。
先日の皇后の岬へ行ったのが余程、楽しかったのだろう。
其れを見た重郷は、満足したように笑った。
「ああ、此処からも見えるが……あの丘だ」
庭の向こうに見える小高い丘を指した。
其の端整な顔は歓びに満ちていた、城での顔が嘘のようだった。
紅梅姫は重郷が指す方を見ると、微笑んだ。
「まあ、あの丘ですの?」
「近いが、なかなかの眺めだ。平安の昔、藤原純友の乱の際、追っ手の源経基の軍が布陣した処と謂われ、我々は陣山と呼んでおる……今日は時がある」
何時もは夕刻現れては夕餉だけを摂り、直ぐに城へと戻って行くのだが、今日はまだ日が高い。
「……其れは、明日の朝までですか?」
「……」
重郷は答えず、顔を曇らせた。
紅梅姫は重郷の其の表情を見逃しはしなかった。
「殿、早く行きましょう、どのような眺めか見てみたいのです」
と言って重郷の手を取った。
「分かったが、そう急がれるな、其れより良き物を持参致した」
供の者が持って来たのは、美しい組紐に取り付けられた鈴だった。
「姫の馬に如何かな?」
「まあ、何と美しい紐と鈴の音ですこと、月毛の馬に映えることでしょう」
紅梅姫は直ぐに支度を整え、馬に乗る。
すると重郷は自ら馬にその鈴を着けてやった。
「本当に嬉しゅうございます、馬も喜んでいるようです」
「良かった、そんなに喜んでくれるとは思わなかった」
紅梅姫の喜びように、重郷は驚いたようだった。
「此のくらいなら、何時でも……」
「……いえ、此の前も申し上げました通り、何も要りません、殿の笑顔だけで十分でございます」
馬上で姫は頬をぽっと赤く染めた。
屋敷からは少しの距離だった。
小高い丘の上は初夏の風が心地よく、午後の日差しにかいた汗を乾かした。
「気持ちがようございます」
「さあ、馬を降りられよ」
丘の頂上へ着いたとき、重郷は自然に紅梅姫を馬から下ろし、供の者から離れ木陰へと連れて行く。
「皿倉山があんなに大きく見えます……お城も見えます、城下の町が……」
「ああ、やはり眺めが良いだろう? 此処からもっと東へ行くと、秋は薄の野原が広がる、其れがまた美しい、金色に輝く……」
「本当ですか! ぜひ、其の時にまた此処へ来たいものです」
「……姫、貴女は如何して輿入れされた?」
「……?」
紅梅姫は不思議そうに重郷を見つめた。
「貴女は大内殿に命じられて、来られたのではないのか?」
「……わたくしには、最初から大内も大友もございません、大内の養女では有りますが、大内に義理立てすることは有りません……そのような理由では京から輿入れは出来ません、わたくしには背負う程の家はありません」
「……貴女の言葉を信じても良いか?」
「……殿……わたくしは殿をお慕い申し上げております、故に遥々やって来たのです……」
漆黒の瞳は涙で潤んで言葉に詰まり、風が紅梅姫の髪を揺らした。
重郷は紅梅姫の髪を撫で、抱き寄せた。
城下には他国の間者が入り、家臣の中にも他家と通ずる者が居る、重郷が疑うのは当たり前の事だった。
「……殿、わたくしを信じられぬのなら、今直ぐにとは申しません、ゆっくりで構いません……」
重郷の腕の中で紅梅姫は重郷を見上げ、噛み締めるように言葉を発する、重郷は指で紅梅姫の唇を撫で、其処へ自分の唇をそっと重ねた。
紅梅姫は重郷の腕の中でぴくりとはねる。
紅梅姫の柔らかな香の香りが重郷を包み込む。
「……姫、今宵は貴女の屋敷に泊まろう、貴女と二人きりで過ごしたい」
「……良いのですか?」
「ああ、誰に遠慮するのだ? 柏井に遠慮など要らぬ、大友の影にびくびくするのはもう沢山だ……」
紅梅姫の潤んだ目から涙が溢れ出す、重郷は流れる涙に口づけをし、そしてもう一度唇を重ねた。
供は先日の皇后の岬へと行った時の面々だった。
当然、沢村も居た、若橘は重郷の供と少し離れて待っていた。
だが沢村は堂々と若橘に近付いて来る、若橘は顔を背けた。
「そんなに嫌わないで下さい、殿と姫は仲良くしておられる、貴女と私も仲良くしたいものです」
「……他の供の方も見ておいでです、近付かないで下さい!」
だが沢村は怯むことはない。
「私も嫌われたものだ、貴女は何故そのように拒むのですか? やはり他に思いを寄せる方でもおありなのですか?」
「居りません、もうわたくしの事は放っておいて下さい」
「……今までの女と貴女は違う、何かが違う……何故なのか、簡単に諦めきれないんですよ」
「もう、お止しになって下さい、貴方との取引きに応じるつもりはありませんから」
若橘は、冷たく言い放った自分に嫌気がさしていた。
空は青く、静かな初夏の午後だった。




