「勇者を、辞めたいんです」
「世界を救う勇者だって、辞めたくなることがあるのでは?」
そんな発想から生まれた、異世界×退職代行の短編です。
どうぞ最後までお付き合いください。
「勇者を……辞めたいんです」
少女は、そう言って泣いた。
年は十七。金色の髪は泥と血で固まり、王国中の子供が憧れるはずの白銀の鎧には、黒い爪痕が三本走っている。
彼女の名はアリシア・レイン。
神託によって選ばれた、この国でただ一人の勇者だった。
「では、辞めましょう」
私が答えると、アリシアは泣くのを忘れた。
「……え?」
「辞めたいのでしょう?」
「で、でも、私が辞めたら世界が……」
「あなた一人が辞めただけで滅びる世界なら、それは王様の経営責任です」
アリシアの口がぽかんと開いた。
ここは王都の裏通りにある、小さな相談所。
看板にはまだ『クロフォード相談事務所』としか書いていない。
私はリーナ・クロフォード、二十六歳。
元・王都冒険者ギルド職員。
剣術はからきし。魔力も人並み。神託を受けたこともなければ、伝説の血筋でもない。
得意なのは、十年間の窓口勤務で身につけた苦情処理と、誰も読みたがらない契約書を最後まで読むことだけだ。
「まず確認します。アリシアさん。勇者を辞めたい理由を聞いても?」
少女はしばらく黙ったあと、震える手で一枚の紙を差し出した。
勇者任命契約書。
王国民なら誰でも知っている神聖な契約だ。
私はお茶を置き、最初の行から読み始めた。
「魔王領への遠征は何日目です?」
「百二十七日……です」
「休暇は?」
「三日ありました。でも、そのうち二日は王都で凱旋式典があって……」
「それは休暇とは呼びません」
私は紙の余白に書き込んだ。
「給与は月額金貨二十枚」
「はい。でも装備の修理代と馬の餌代を引かれるので……先月は銀貨六枚でした」
ペンが止まった。
「銀貨六枚?」
「はい」
「王都の宿屋で三泊したら消えますよ」
「だから野宿しています」
十七歳の少女が、世界を救うために百二十七日働き、野宿している。
私はもう一枚紙を出した。
「治療費は?」
「自己負担です」
「蘇生費用は?」
「死んだら遺族に請求されます」
「死亡補償は?」
「……ありません」
「魔物の討伐素材は?」
「王国に納めます」
「魔王を倒した場合の成功報酬は?」
「名誉を賜る、と」
私は眼鏡を外した。
「アリシアさん」
「はい」
「よく百二十七日も続けましたね」
その一言で、彼女はまた泣いた。
勇者なのだから当然。
選ばれたのだから当然。
世界のためなのだから当然。
きっと誰も、彼女にそう言わなかったのだ。
「でも、辞められません。逃げたら国家反逆罪だって……」
「それを決める前に、契約を確認しましょう」
私は任命契約書を机いっぱいに広げた。
全四十七条。
勇者本人はまともに読ませてもらっていないらしい。
第八条、勇者は王命に従い魔王討伐に従事する。
第十二条、正当な理由なく任務を放棄した場合、王国は勇者資格を剥奪できる。
第十九条、勇者の死亡または能力喪失により契約は終了する。
そして。
「あった」
第三十一条。
私は指先でその一文を叩いた。
「『本契約は、王国及び勇者本人の双方の合意により、いつでも解除できるものとする』」
アリシアが瞬きをする。
「……それって」
「王国が同意すれば辞められます」
「でも、絶対に同意なんて……」
「でしょうね」
私は契約書を閉じた。
「ですから、同意させます」
「どうやって?」
「交渉です」
彼女は、たぶん剣でドラゴンを倒すより難しいことを聞いたような顔をした。
翌朝。
私は王城の謁見室にいた。
「勇者本人を連れてこい!」
玉座から怒鳴ったのは、国王エドガー三世。
「できません」
「なぜだ!」
「アリシア・レイン様より、退任に関する交渉権限を委任されております。今後、勇者様へのご連絡はすべて私を通してください」
謁見室が静まり返った。
宰相が額を押さえた。
「……貴様、何者だ」
「退職代行人です」
自分で言ってから、なかなかいい名称だと思った。
「そのような職業は聞いたことがない!」
「昨日できましたので」
「ふざけるな!」
「ふざけているのは、十七歳の少女を百二十七日働かせて銀貨六枚しか残らない制度の方では?」
近衛騎士たちが一斉にこちらを見る。
国王の顔が赤くなった。
「勇者は特別なのだ! 金のために戦っているのではない!」
「では陛下も無給で国王をなさいますか?」
「なっ……」
「名誉だけでよろしいのでしょう?」
宰相が咳き込んだ。
私は持参した書類を開いた。
「要求は単純です。第三十一条に基づく双方合意での契約解除。アリシア様は勇者資格、聖剣及び王国貸与品を返却します」
「認めん!」
「理由を伺っても?」
「勇者がいなければ誰が魔王を倒す!」
「それは王国が考えることです」
「世界が滅びるのだぞ!」
「でしたら、なおさら一人の少女に依存している現状を改善なさるべきです」
王は玉座の肘掛けを叩いた。
「衛兵! この女を――」
「その前に、こちらをご覧ください」
私は二枚目の書類を出した。
「勇者任命契約書、第十二条。正当な理由なき任務放棄については勇者資格を剥奪できる、とあります」
「それがどうした」
「つまり契約上、任務放棄に対する最大の処分は『勇者資格の剥奪』です」
宰相の顔色が変わった。
「そしてアリシア様は、その勇者資格を自主的に返上すると申し出ています」
「……」
「国家反逆罪については契約書のどこにもありません。王国法典も確認しましたが、勇者の辞職を反逆罪とする条文は存在しませんでした」
国王が宰相を見る。
宰相は目を逸らした。
やっぱり。
国家反逆罪というのは、辞めさせないための脅しだったらしい。
「それでも認めん!」
「承知しました」
私は書類をしまった。
王が勝ち誇った顔をした。
「では、双方合意による円満な解除交渉は終了します」
「……何?」
「次の手続きへ移ります」
私は三枚目を出した。
「王国法典労務編、第百四十二条。契約当事者の生命に重大かつ継続的な危険があり、契約相手が安全確保義務を果たしていない場合、当事者は司法院に契約無効の申し立てを行える」
今度こそ、宰相の顔から血の気が引いた。
「百二十七日間で重傷十一回。毒四回。呪詛二回。休暇は実質一日。治療費自己負担。死亡補償なし。十分でしょう」
「待て」
「司法院で争いますか?」
「待てと言っている!」
「もちろん構いません。その場合、審理は公開です」
私はにっこり笑った。
「王国中の民が、勇者様の給与明細を見ることになりますね」
沈黙。
近衛騎士の一人が、ほんの少しだけ国王から目を逸らした。
王都では勇者アリシアの肖像画が売られ、子供向けの人形が売られ、彼女の名を冠した酒まで売られている。
その本人が銀貨六枚で野宿している。
知られたらどうなるか。
私より国王の方がよく分かっているだろう。
「……条件は」
王が低い声で言った。
「はい?」
「契約解除の条件だ」
「先ほど申し上げました。勇者資格、聖剣、貸与品の返却。それだけです」
「金銭は要求しないのか」
「未払い相当の遠征手当については別件で請求します」
「要求するではないか!」
「それはそれ、これはこれです」
宰相が吹き出した。
すぐに真顔へ戻ったが、私は見逃さなかった。
こうして、神託歴六百二十一年。
世界で初めて勇者が退職した。
* * *
「……本当に?」
事務所に戻って結果を伝えると、アリシアは椅子から立てなかった。
「本当に、辞めていいんですか?」
「もう辞めています」
「魔王を倒さなくても?」
「はい」
「聖剣を持たなくても?」
「返却手続きは明日の午前十時です」
「誰にも怒られない?」
「国王陛下はかなり怒っていましたが、もうあなたの上司ではありません」
アリシアは両手で顔を覆った。
肩が震えた。
泣いているのだと思った。
でも違った。
笑っていた。
「私……パンを焼いてみたいです」
「パン?」
「小さい頃、村のパン屋のおばさんが朝になるとパンを焼いていて。すごくいい匂いで。勇者に選ばれる前は、そこで働かせてもらう約束だったんです」
「では、働けばいいでしょう」
「勇者だった私が、パン屋で?」
「元勇者が焼いたパンなら売れそうですね」
「それ、勇者だったことを利用してません?」
「商売ですから」
彼女は声を上げて笑った。
私はその日初めて、勇者ではない十七歳のアリシアを見た気がした。
それから三日後。
私は、アリシアが働き始めたパン屋を訪ねた。
王都の南門近くにある、小さな店だった。朝だというのに店先には妙な人だかりができている。
「焼きたてでーす!」
白い前掛けをつけたアリシアが、籠いっぱいの丸パンを運んできた。
鎧も聖剣もない。髪は後ろで適当に結ばれ、頬には小麦粉がついている。
どう見ても勇者ではなかった。
「リーナさん!」
「繁盛していますね」
「大変なんです。みんな『元勇者が焼いたパンをくれ』って」
「予想どおりです」
「やっぱり狙ってましたね?」
店主らしい恰幅のいい女性が奥から笑った。
「この子、筋がいいよ。力もあるから粉袋を三つまとめて運んじまう」
「それは勇者の使い方として正しいのでしょうか」
「本人が楽しけりゃ正解だろ」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
店の隅には、新聞が置かれていた。
大見出しはもちろん、勇者退任。
だが、世間の反応は私が思っていたより複雑だった。
勇者を責める声。
王国を責める声。
世界を見捨てた臆病者だという投書。
十七歳の少女に世界を背負わせていた方がおかしいという反論。
そして一番多かったのが、別の疑問だった。
――勇者が辞められるなら、自分たちは?
鉱山で二十年働くことを条件に借金を免除された男。
親同士の契約で望まない婚約を結ばれた娘。
十歳で神殿へ預けられ、一生奉仕するものだと教えられた神官。
領主との契約で村から出ることを禁じられた農民。
この世界には、契約が多すぎる。
そして皆、契約とは守るものだと教えられている。
もちろん、それ自体は間違っていない。
約束を好き勝手に破っていい世界など、まともに回らない。
でも。
契約を守ることと、死ぬまで逃げられないことは同じではない。
「リーナさん」
アリシアが焼きたてのパンを一つ差し出した。
「これ、私が最初から最後まで作ったんです」
少し歪んでいた。
「形はいまいちですね」
「そこは褒めてくださいよ!」
一口かじる。
外は少し固い。でも中は温かく、バターの香りがした。
「味は悪くありません」
「やった!」
魔王を倒したときより嬉しそうな顔をする。
私はその顔を見て、自分の選択は間違っていなかったと思った。
その瞬間。
通りの向こうから鐘が鳴った。
王城の布告を知らせる鐘だ。
役人が広場で羊皮紙を広げる。
「国王陛下より告ぐ! 新たなる勇者を広く募集する!」
周囲がざわめいた。
「応募資格、十五歳以上二十五歳以下! 身分不問! 剣術または魔法に秀でた者! 月額報酬、金貨二十五枚!」
私は眉を上げた。
「五枚増えましたね」
「そこなんですか?」
「改善は改善です」
役人は続けた。
「魔王討伐の暁には、男爵位ならびに金貨千枚を下賜する!」
おお、と群衆から声が上がる。
私は少し感心した。
少なくとも、名誉だけよりはずっといい。
「新しい勇者、見つかるでしょうか」
「条件を理解した上で、それでもやりたい人が応募するなら問題ありません」
「怒らないんですか?」
「なぜ?」
「だって、私の代わりを募集してるんですよ」
「あなたは辞めたかった。向こうは勇者が必要。やりたい人を募集する。正常な状態になっただけです」
アリシアは少し考えてから頷いた。
「……そっか」
「ただし」
私は役人が配っていた募集要項を一枚受け取った。
裏面まで読む。
「治療費自己負担のままですね」
「うわあ」
「あとで新聞社に匿名で送っておきます」
「リーナさん、王様に嫌われてません?」
「すでに嫌われています」
問題ない。
私は残りのパンを食べ、代金を机に置いた。
「では仕事に戻ります」
「また来てください!」
「次はもう少し丸いパンを期待しています」
「絶対もっと上手くなりますから!」
店を出る。
そのときはまだ、勇者を一人辞めさせたことで、王都中の人間が自分の働き方を見直し始めるなど想像していなかった。
ましてや、それが人間だけでは済まなくなることも。
私は少し後悔していた。
「番号札十二番の方!」
「はい!」
「十三番の方は申込書を書いてお待ちください!」
「先生! 俺、冒険者パーティーを抜けたいんですけど!」
「私は聖堂を辞めたいのですが……」
「騎士団の場合もお願いできますか?」
「夫との婚姻契約も対象でしょうか?」
「それは専門外です!」
狭い事務所に人が溢れていた。
原因はもちろんアリシアだ。
勇者退任のニュースは一日で王都中へ広まった。
『勇者が辞めた』。
最初は誰も信じなかった。
しかし翌朝、聖剣が王城へ返却されたことで事実だと判明した。
そして新聞が私のことを面白おかしく書いた。
――勇者を国王から救った謎の女。
――契約書一枚で聖剣に勝利。
――新職業『退職代行人』現る。
最後の見出しを書いた記者とは一度話をしたい。
「リーナさん!」
扉が開いた。
入ってきたのは、勇者パーティーの宮廷魔術師だった。
「私も辞めたい!」
「理由は?」
「勇者が辞めたのに、なぜか私たちだけ魔王討伐を続けろと言われました!」
「でしょうね」
「しかも新しい勇者が決まるまで私が臨時勇者です!」
「そんな制度あるんですか?」
「昨日できたそうです!」
国王陛下。
やることが雑すぎる。
「分かりました。契約書を持ってきてください」
「ここに!」
私は受け取った。
その後ろから僧侶が顔を出した。
「私もお願いします」
さらに騎士。
「俺も」
「三人ともですか?」
三人は同時に頷いた。
私は天井を見上げた。
勇者一人を辞めさせただけなのに、勇者パーティーそのものが消滅しそうである。
まあ、それも王様の経営責任だろう。
「分かりました。順番に対応します」
私は新しい紙を取り出した。
「ただし料金を決めます」
「お金取るんですか!?」
「私も生活があります!」
こうして私は、正式に仕事を始めることになった。
看板屋に頼んで、事務所の看板も書き換えた。
《勇者専門 退職代行 クロフォード》
専門と言いつつ、勇者以外の依頼もかなり来る。
その日の営業が終わったのは、日付が変わる少し前だった。
「疲れた……」
机に突っ伏す。
人を辞めさせる仕事で自分が過労死したら笑えない。
明日は休みにしよう。
そう決めたとき。
コン、コン。
扉が鳴った。
「本日の受付は終了しましたー」
コン、コン。
「緊急でしたら明日の朝に……」
コン。
妙に遠慮がちなノックだった。
仕方なく扉を開ける。
外に立っていたのは、黒いローブを頭まで被った大男だった。
「ご相談ですか?」
男は頷いた。
「では中へどうぞ」
椅子に座らせ、お茶を出す。
男は巨大だった。
座っていても私と目線がほとんど変わらない。
「まず、お名前を伺っても?」
「……名は、今は言えぬ」
「匿名相談ですね。構いません」
「本当に?」
「事情は人それぞれですから」
男は少し安心したようだった。
「では、ご相談内容を」
沈黙。
長い。
私は急かさず待った。
十年間窓口にいれば分かる。
本当に困っている人ほど、最初の一言を口にするのに時間がかかる。
「……辞めたい」
「はい」
「もう、限界なのだ」
「はい」
「父も祖父もそうだった。生まれた時から、お前が次だと言われた。逃げることなど許されぬと」
どこかで聞いた話だと思った。
「部下は私を恐れている。敵は私を憎んでいる。毎日誰かが死ぬ。もう何百年も同じことを繰り返している」
「大変でしたね」
男の肩がわずかに震えた。
「本当は……」
「はい」
「パン屋になりたかった」
最近、パン屋志望が多い。
「いいと思いますよ」
「……よいのか?」
「もちろん。まず現在のお仕事と契約形態を確認しましょう」
「仕事……」
「職業名だけでも結構です」
男はしばらく黙っていた。
そして、覚悟を決めたようにローブを外した。
二本の巨大な角。
黒い肌。
赤く光る瞳。
新聞で何度も見た顔だった。
私の手からペンが落ちた。
男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「……魔王を辞めたい」
私は床のペンを拾った。
深呼吸する。
それから、新しい相談票を一枚取り出した。
「承知しました」
どうやら明日も、休めそうになかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「勇者だって、辞めたくなることがあるのでは?」
そんな発想から生まれた短編です。
今回は勇者の退職までのお話でしたが、この世界にはまだ、聖女、騎士、宮廷魔術師――そして「辞めたくても辞められない」人たちが大勢います。
そして最後にやってきた、あの人物も。
もし「この先も読んでみたい」と思っていただけましたら、評価やブックマークで反応をいただけると、とても参考になります。
反響を見ながら、続きを書くことも考えています。
空席あり




