間章
「対岸は総崩れか?」
「モリス様は敵の攻勢を支え切れず、陣地を放棄して後退。その後、援軍と合流しましたが、混乱が援軍にも伝播し態勢を整えられず、河上側の河岸付近の陣地まで押し込まれている模様です。また河下側の矢倉は、突如出現した巨大な竜巻で吹き飛ばされ……」
パリシーナは家宰のバートンの報告を聞きながら、大天幕のそびえる丘陵から戦況の趨勢を眺めていた。眼下に右往左往する人の群れは、戦況報告を裏付けるように動いていた。
「モリスの陣地よりさらに河上側にダラッド隊二百を送りなさい。敵の側面を突かせて勢いを殺します。河下側は弩弓を集め、こちら側に敵が渡河してこないよう河岸の陣地を固めなさい」
矢継ぎ早なパリシーナの指示を受け、控えていた数名の伝令兵が騎馬に跨り左右へ走る。それらを見送り、再び戦況へと目を向けようとした彼女に、大天幕の内側から声がかけられた。
「……パリシーナ様、ユーカス様の容体が少し安定いたしました。混濁していますが意識もお戻りになられています」
声の主はユーカスの治療に当たっていたランカー家の侍医である。パリシーナは頷くと、傍らのバートンに告げる。
「バートン。代わりに指揮を執りなさい」
「はっ」
恭しく頭を垂れて立礼する家宰に一瞥も与えず、パリシーナは赤毛を翻し、侍医に続いて大天幕内のユーカスの寝所へと足を進めると、薄暗い幕内を照らす燭台の下に、寝台に臥せるユーカスの姿があった。
「ユーカス様!」
枕元へ駆け寄るパリシーナ。すると蒼白な顔のユーカスが、虚ろな目でうわ言を繰り返しているのが聞こえてきた。
「……ああ……ああ……どこだ」
「ああ、ユーカス様、あなたのパリシーナはここにおります」
ユーカスの手を取り、彼女がそう答えると、虚空を彷徨っていた男の青い瞳が目の前のパリシーナの顔に像を結んだ。
「……違う……」
そして落胆の色を浮かべる。
「違う……違う……あの、美しき黄金の女神は……私の女神は……」
再びふらふらと視線を彷徨わせ始めたユーカスの顔に、分厚い布地が押し付けられた。
「――幸せな男――」
寝台に置かれていた豪華な四色錦繍のクッションを押し付けられ、ユーカスは息ができずに苦しみ出す。手足を動かしてもがくが毒で弱った身体での抵抗は弱くわずかであり――やがて静かになった。
「――あなた」
パリシーナの声が、後ろで一部始終を目撃していた侍医に飛ぶ。戦慄に動けない彼にパリシーナは前を向いたまま、とても悲しげな声音で告げた。
「……残念ながらユーカス様は息を引き取られました。平和を願ったユーカス様の厚情を利用し、講和の席での毒による暗殺という手段に訴えたフォルクネの卑劣漢どもの手によって――」
そこで彼女は振り返り、侍医の目を射るように見た。
「――いいですね?」
寝台の側に灯された燭台の明かりが、彼女の乱れない鮮やかな赤毛を燃えるような朱色に照らしている。
侍医はその灯火が天幕に映す影の暗闇を覗いて、ただうなずきを返すことしかできなかった。
遠く聞こえる戦いの音を背に、カザルは脇目も振らずに馬を疾走させていた。
「これからどういたしますか、カザル様?」
馬首を並べるウルバンの質問に、カザルは苦々しい舌打ちを返した。
「手柄もなしに今さら王都へなど戻れるか。ワザンに嘲笑されるなど想像しただけで虫唾が走る」
フォルクネの謀略で、偽王子ジャミル引き渡しの場に、突如として出現した金色の魔女。この危機を逆に好機と捉えたカザルは、即座に必殺の蟲毒“キーネ”を塗った毒針を放ち、あの魔女を仕留めるはずだった。
(よもや、あのような結果になろうとはな……!)
毒針は魔女に防がれた。それは仕方がない。だが、まさか弾かれた毒針が、魔女の足元で何を血迷ったか跪いていた愚かな小僧――ユーカスに当たるとは思ってもみなかった。
このままでは故意ではなくても、ランカー家当主殺害の嫌疑は免れまい。それを許すようなパリシーナではないからだ。そう判断したカザルはユーカスが倒れるのを見た瞬間、身を翻して混乱に陥る大天幕を脱して外に出ると、すぐさま風の術具である指揮棒で煙玉を打ち上げ、自陣で騎兵を揃えて有事に備えていたウルバンを呼び出していた。
(愚者にはふさわしい末路だが、巻き込まれる側になってはたまったものではないな)
丁寧に準備した謀略がすべてご破算になった。それもすべてフォルクネの謀略に嵌まって敵の使節を罵倒するために直接接見する場を設けたユーカスの浅慮と、金色の魔女の出現を前にその足元に跪くという意図不明の行動が招いた結果だった。
(腹立たしいが、死人に憤っても仕方がない。次善は常に拙速を尊ぶ)
カザルはウルバンの騎兵と合流すると、自陣に残る歩兵を見捨て、速やかにランカー家の陣地から離脱した。次はその向かう先を決めねばならない。
「それではいかがいたしましょうか?」
カザルが道を戻って王都へ向かう意思がないことを示すと、ウルバンが続けて訊ねた。これに数瞬思案するカザルの耳に、その轟音は届いた。
「あれは……」
ドンと響く空気の振動に振り向くと、カザル達が逃げてきた方向――ランカー家の本営が置かれた丘の向こう側に立ち上がる、二つの巨大な竜巻の姿が見えた。
「……あっちか!」
その光景にすぐさまカザルは馬首の向きを変える。
「あの方向はカラール河の河下だ。あの魔女どもは河を下っていったに違いない」
竜巻に吹き上げられ、丸太や木材の破片がバラバラとオモチャのように空を舞っている。あのような芸当、あの魔女以外にできるものではない。
「となれば、北ですか」
「そうだ。カラール河はバーゼル河に結する。合流点のデュレ辺境伯領まで行けば、バーゼル河を下ってクラツネフ都市同盟、遡ればサガン山脈を迂回して南方諸国、もしくは対岸の金羊騎士団領にも逃げ込める」
そこまで計算したカザルは抜剣して後ろを振り返り、追随する部下達にむけて剣を掲げて大声で叫んだ。
「お前達! 偽王子ジャミルはまんまとこの場を脱したようだ! 我々はこのまま奴を追跡し、必ずや国王陛下にその首を捧げようぞ!」
掲げられた剣に、部下達が拳を突き上げて応える。剣を収めたカザルは、強いまなざしで消えゆく竜巻を睨み、
「こうなれば地の果てまで追いかけて、あの偽王子の首をかっ裂いてくれるわ」
そして口だけを歪めて笑い、馬に強く鞭を打った。
日が没した。
宵闇の広がる空に星の瞬きが灯り、静けさが辺りを覆い始める。
戦いの喧騒はすでに去っていた。包囲を破られたランカー家の軍勢は戦線の回復を諦め、撤退の準備を始め、フォルクネの街は城壁に明々と掲げられた篝火でその光景を照らしながら、じっと様子を窺っている。
この緊張の静寂の夜を、一羽の梟が蒼い軌跡を引いて飛んでいく。
――闇夜を渡る蒼き梟。
死者の魂を連れていくという蒼き梟は、戦場の跡地に昨日までの生者を探し出し、その骸から七色に明滅する光玉を誘い集め、夜空に幻想的な虹色の幻燈の円舞を描く。
「ふむ。思いの外に、人死には少ないようですね」
この蒼き梟を、フォルクネの街から離れた森の陰に潜んで眺めているものがあった。
「あの尊大な竜が蘇れば、もっと派手な事態になると思ったのですがね……」
それは一匹の狼であった。今、夜空を染めている藍緑の宵色のように美しい毛並みの狼。どこか神々しく異質の存在感を漂わせるこの狼は、人語を喋るその口端を人が笑うように――不敵な笑みを浮かべるように動かして呟いた。
「まあ、何事も思惑通りでは面白くないですからね。そういうことですよ、エパミノンダスさん」
その声が聞こえなくなると同時に、宵色の狼の姿も森の陰に溶けるようにして消える。
あとに残された静寂の宵空を、蒼き梟が光玉を引き連れ飛んでいく――。