「己を知らずに生きるもの」5
現実というものが予測だけでは決して動かないものであることを、ジャミルはこのときほど痛感したことはなかった。ユーカスの奇行も、カザルの攻撃も、アシュリーの防御も、すべてがジャミルはおろか、おそらく誰しもの予測の外側にある動きであった。
「――ふははっ! 私は油断はせんのだよ!」
その高笑いとともにアシュリーが展開した演算が何かを弾き、それが彼女の足元に跪く男――ユーカスへと飛んで、その顔を掠めたのをジャミルは見た。
変化は急激だった。「うっ」と小さく呻き、ユーカスの身体が傾く。立て続けに起きる不測の事態に対応できず、誰もが動けないでいる一瞬の間。そこにユーカスの地面に倒れる音が響いた。
「ユーカス!」
「ユーカス様!」
それを合図としたように、男女の声が同時に叫ばれた。ユーカスを捕えるために前に飛び出していたモルガンと、ユーカスの後ろに控えていた軍装をした赤毛の女だった。
モルガンの手がユーカスに伸びるのを遮って、赤毛の女の抜き放った剣が突き出された。女が一歩退いたモルガンを剣先で追いながら叫ぶ。
「ユーカス様をお守りするのです!」
この号令に我を取り戻したかのように、ユーカス配下の騎士や兵士達が一斉に動き出した。抜刀の音が続き、地面に倒れたユーカスの身体が騎士達の手によって素早く確保される。
「縄を!」
ここでジャミルは後ろにいる三人――義父ロベルト、妹のサラ、この二人の世話役であったエルナンの従騎士ベルナルド――にそう短く告げながら手の縄を外した。もともといつでも解けるように結んであったのだ。三人がそれぞれに縄を解き終えたとき、モルガンが味方にむかって叫ぶ声が聞こえた。
「耳を塞げ!」
ジャミル達を始めとしたフォルクネ側の人間が一斉に耳を手で塞いだ。それと同時にモルガンの左手に高速で展開された演算が発動する。
――金属同士が激しくぶつかり擦れ合うかのような、人の生理に逆らう強烈な不快音。
モルガンの“破術”の演算である。この神経を逆なでに抉る不快音に、多くの敵が耳を押さえて動きを止める。しかしユーカスはすでに数人の騎士に囲まれた場所にいた。モルガンが抜刀しユーカスを守る騎士を斬り伏して進む。一人、二人――そこで、横合いから跳び込んだ老齢の男の剣が、モルガンの剣を防ぎ止めた。
「くっ!」
「よくやりました、バートン!」
耳を押さえて動きを止めていた赤毛の女が叫ぶ。ここでジャミルの前の床に跪いていたマルティンが大きな肩を動かして立ち上がり、大声を上げた。
「次手だ! 退くぞ!」
マルティンが身を翻し、その横にいたローエンが続く。フォルクネ側の兵士達は、先ほどのモルガンの“破術”の演算が生んだ隙を使って、すでに天幕の入口側にいたランカー家の兵士達を斬り伏せていた。そこへむかって駆け出す。ここでジャミルも動いた。
「アシュリー!」
「わ、私は悪くないぞ」
空中に浮かぶアシュリーは目を合わせた瞬間、言い逃れをする子供のような顔をした。だがジャミルはそんな彼女の様子を気にする余裕もなく早口に言った。
「俺達も逃げるぞ! 親父、サラ! あとベルナルドさんとシムスさん!」
ロベルトとサラとベルナルドがジャミルの顔を見てうなずく。応じるようにしてジャミルが駆け出す。
「走れ!」
そのジャミルの声とともに三人も天幕の外へと走り出す。「あっ」と動きの遅れたシムスの後頭部をアシュリーの足が蹴り飛ばした。
「とろい下僕が! さっさと走れ!」
アシュリーを最後尾にして六人が天幕の外へ出ると同時に、ジャミルは空高く打ち上がる二本の白い煙の帯を見た。
「お前達は逃げた敵を追いなさい! あなたは侍医を連れてくるのです! 急ぎなさい!」
天幕の内は大混乱であった。パリシーナは兵士や騎士達に指示を矢継ぎ早に出し、混乱を正しながら、侍女に介抱される夫――ユーカスの元へと近寄った。
ユーカスの顔は蒼白に色を失い、目は白眼を剥いていた。口からは泡まで噴き、手足はがくがくと痙攣している。
「いったいどうしたと……?」
「パリシーナ様」
手にした剣を鞘に収めながらパリシーナの元に駆け寄ってきたのは、先ほど倒れたユーカスへと斬り迫った敵の剣を受け止めた初老の男――家宰のバートンだった。彼はユーカスの側に膝を突くとその症状を診て言った。
「……頬に何かが触れた痕があります。ここです。黒く変色している。そしてこのご様子は……おそらく何かしらの毒がここに触れたためのものと思われます」
確かにユーカスの頬に痣のように黒く色の変わった点がある。どうやら小さな傷になっているようである。しかしこの程度の傷で? パリシーナがそう訝しんだ瞬間、背後から悲鳴が上がった。
「なにごとです!」
振り返ると、そこに手を押さえて悶える一人の兵士の姿があった。その指先の色は黒く変色し、苦痛に顔を歪める兵士はパリシーナの言葉に答える余裕もないようだった。代わりに傍らにいた侍女が震える声で答える。
「そ、そこに落ちている針を拾った途端に苦しみ出して……」
侍女の指差す先の地面に細長い針が落ちていた。針の表面はぬらりとした光沢を放っている。パリシーナはこの光沢を見た記憶があった。この針はどこから飛んだ? その答えに当たると、パリシーナは周囲にむかい叫んだ。
「カザル殿はどこへ行きました!」
「み、見当たりません」
「天幕の外です! すぐに追いなさい!」
そう指示を出し、数人の兵士が外へと駆け出したのと入れ違いに、天幕に兵士が慌てた様子で飛び込んできた。
「パリシーナ様、この外で狼煙が……!」
兵士の報告に眉根を寄せたパリシーナは、すぐさま天幕の外へ出る。するとこの天幕の上空に二本の煙の帯が高く打ち上げられていた。
「なぜ二本も上がるのです?」
パリシーナに続いて外に出てきたバートンが、近くの兵士を捕まえて彼女のその疑問を問い質す。
「一本は入口から飛び出てきたフォルクネの使節団が、もう一本は天幕の横を這い出てきた小男が上げた、との証言です」
その答えに目を細めたパリシーナは、この天幕のある丘から眼下三百ムルーナほど先を走る騎馬の一隊を見ていた。その内の一騎に人が二人乗っている。この騎馬隊は追いすがる歩兵を振り切って遠ざかっていく。その先にはカザルの部隊が野営している陣地がある。
「用意のいいこと……」
カザルのこの鮮やかな逃げぶりに、パリシーナは唇を微かに歪めて笑った。
「いかがいたしましょう?」
「この混乱で逃げる準備をしていた二兎を、一気に捕らえるのは至難です。あの男はひとまずは捨て置いて、今はフォルクネの使節団を捕らえることに注力を……」
バートンの問いにそうパリシーナが答えているところに、一人の騎士が息を切らして駆け込んできた。この騎士は確か、河岸の陣地に配していた騎士である。何故持ち場を離れてここに? パリシーナの疑念をバートンが問い質す。
「どうしたのだ!?」
騎士はパリシーナの前に跪くと、彼女の顔を仰ぎ見て悲愴な形相で訊いた。
「パリシーナ様! ユーカス様がお討ち死になされたとは、本当のことでございますか!」
「誰がそのようなことを言っているのですか!」
驚きにパリシーナの血相が変わる。騎士が答える。
「敵が逃げながら口々にそう叫んでいます。こちらも必死に否定しているのですが、混乱に味方の動きが鈍くなっています。ユーカス様がご無事であれば、すぐにでもそのお姿を皆にお見せくだされば――」
「伝令! 伝令!」
そこに丘の下から伝令旗を背に負った騎兵が、そう叫びながら走り込んできた。
「馬上より失礼致します、パリシーナ様! 対岸の陣のモリス様より緊急の手旗の信号でございます!」
対岸から、という言葉にパリシーナの背にひやりとしたものが走った。そしてその悪い予感は伝令の口からすぐさまに肯定される。
「フォルクネ市内から敵が打って出ているようです! 対岸の陣の包囲線が完成していない部分を襲っています! 敵は口々にユーカス様が戦死し、あの狼煙はその証拠であると叫んでいるとの情報でございます! 土塁工事中の農兵がこれで崩れ、味方の傭兵隊と押し合いの混乱になっている模様です! モリス様はユーカス様のご健在をお示しするために後詰めの援軍を要望しておいでです!」
パリシーナが対岸に目を走らせると、フォルクネ市の城壁の陰にある陣地のあたりで、味方の兵が右に左に慌ただしく動いているのが見て取れた。
パリシーナの口から細く息が漏れる。
「……愚か者は誰の手の上でも踊るということね」
息に混じって吐き出された言葉は、誰の耳にも届くことなく混乱の渦中に消えていった。