「ジャミルの抵抗」6
「――なんてな」
その声を聞いた瞬間、モルガンの背筋に全身の毛が逆立つほどの悪寒が走った。
(――な)
モルガンの振るう剣は違うことなく女術士に向けて走る。だがその声は、溶け流れる蜂蜜のようにやわらかく甘い音色で耳に染み込みながら、同時にサガンの山々の頂きを白く冠する千年不溶の氷塊よりも固く冷たい響きでモルガンの耳を打ち、その悪寒は肝胆から彼の身体を走り抜けた。
それは本能が発した恐怖だった。そしてその恐怖は次の一瞬にモルガンの顔色を蒼白に塗り潰した。
伏せていた顔を上げ、女が笑ったのだ。
剣は止まらない。この剣が次の瞬間には女の身体を切り裂いて、女をただの血肉に変えるのは不可避の結果であるはずだ。モルガンの理性がそう叫んでいる。しかしこの女は笑ったのだ。暗夜に浮かぶ月のように白いその顔に、金色の双眸が緩やかな弧を描く。そしてその目は、まるで牙を剥いて象に立ち向かう蟻を見るのにも似た哀れみと蔑みを浮かべ、モルガンを嘲ったのだ。
(――馬鹿な)
剣の軌道が変わった。直角に跳ね上がる。その軌跡に演算の帯。術で弾かれたという認識が追いつく間もなく、モルガンの目の前に女の顔があった。
波を打つ金色の髪。その間隙に浮かぶ白面の美貌。金色の目が笑みを湛えながらモルガンの目を覗く。
一瞬の交錯。
そして視線が途切れ、女の横顔がモルガンの視界の端をよぎる。そこでその声が耳元に囁かれた。
「惜しかったな――」
女の唇が漏らした甘い吐息。耳朶に触れたその熱が意識に届く前に、脳を直接に揺さぶるような強烈な振動がモルガンの頭部を襲った。
視界が傾ぎ、身体が支えを失う。手から落ちた剣が石畳の床に乾いた音を鳴らした。その音をモルガンは、自らの背中が地面に跳ねる衝撃とともに聴いていた。
仰向けに倒れた自分を女が見下ろしている。痙攣する身体は言うことを聞かず、モルガンは目だけを動かして女の目を睨み返した。
「――ほう」
その目に微かな驚きが浮かぶ。
「まだ動けるとはたいしたものだ」
女はその目に愉悦を湛え、モルガンに称賛の言葉を与える。モルガンは苦痛に顔を歪めながら、女に向けて手を伸ばす。
「……ま……て」
行かせるわけにはいかなかった。モルガンの脳裏にはこの女が現れる前に、ここを通った要人の顔が浮かんでいた。この女を行かせてはならない。朦朧とする意識の中で、その義務感がモルガンの手を動かした。しかし震える手は虚しく空を掴むばかりで、決して女の身体には届かない。
「そう言われても、こちらにも事情があってな。牢はこの奥かな? 悪いが通させてもらうぞ」
女はモルガンの無力を嘲笑うようにそう言うと、牢の入口へ向かい踵を返した。揺れる金の髪が遠ざかっていく。その姿をモルガンは見送ることしかできない。
(負け、た――)
その言葉が浮かんだ瞬間、モルガンの視界は急激に狭く絞られ、ついには溶けるように闇へと沈んだ。
「惜しかったな――」
その台詞とともに男の側頭部に振動の演算を叩きつけたアシュリーは、崩れ落ちるその身体を勝者の微笑で見送った。
(……まったく、本当に惜しかったぞ)
しかし、その心中には“ある事実”がしこりとして残っていた。
結果から見ればアシュリーはこの男に勝利した。完勝だった。だが、偶然に生じた“ある事実”がなければ、その立場は完全に逆転していたことであろう。
(苦々しい話だ)
アシュリーは内心に苦虫を噛んだ。
(あやつの言葉に助けられるとは)
強烈な不快音を鳴らし、相手の演算を妨害して無力化すると同時に身体の動きも止め、その隙に攻撃をする。男の戦術はとても理に適い、強力なものだった。しかし結論から言えば、この男の演算はアシュリーに対して効果を発揮しなかったのである。何故か?
(“穏便に”とは言ったものだな)
アシュリーの口端が皮肉に歪む。この言葉がアシュリーを救った。ジャミルの伝言に強調されたこの言葉が脳裏にあったアシュリーは、騒ぎを最小限に抑えて相手を倒すために、男に対して展開した術式に遮音の演算を織り交ぜていたのである。
男が左手に発動した演算の効果をアシュリーは一目に理解していた。そしてそれがジャミルの忠告に従って“穏便に”相手を倒そうと、先に遮音の演算を使用していなければ防げないほどの速さで発動されたものであったことも瞬時に理解していた。
もしジャミルの言葉を意識して遮音の演算を使用していなければ、地面に倒れ伏していたのはアシュリーの方であった。まったくの屈辱である。ジャミルの言葉に助けられたことも屈辱であるし、自らの油断がただの人間相手にこのような遅れを取らせたことも屈辱であった。
地面に仰向けに倒れている男を見やる。苦痛に顔を歪める男を見下ろしてアシュリーはその溜飲を多少なりとも下げた。
(まあ、これで少しは気が済んだか)
男の演算を見て、自らの失態と悪運にすぐさま気づいたアシュリーは、その屈辱の腹いせに男の演算の発した不快音に耳をやられた振りをすることに決めた。そしてその攻撃を誘い込み、相手が勝利を確信した瞬間にそれをひっくり返してやったのである。
男の顔色は蒼白だった。アシュリーの狙い通り、男はあまりにも唐突な状況の逆転に驚き、呆然としている様子である。その姿を満足げに見下ろしていたアシュリーは、しかし同時に苦い教訓を心の中で刻んでいた。
(……やはり人間の身体は脆い。今回といい、この前の毒使いといい、こちらの油断に先手を奪われては不覚を取ることもあり得るということか。こんな屈辱、二度と覚えんぞ)
そこで思わず脳裏に浮かんだのは、こちらを小馬鹿にするような冷たい目で自分を見下ろすジャミルの顔だった。そしてその口がゆっくりと動く様子が、アシュリーにははっきりと見えたのである。
――りゅ・う・の・く・せ・に。
(二度とだ!)
拳が固く握り締められる。アシュリーはもうこのような油断はしまいと固く誓った。
「ん?」
そんな誓いを立てていたところで、アシュリーは男の目が身じろぎとともに、こちらを向いたことに気づいた。
「――ほう。まだ動けるとはたいしたものだ」
それは正直な感想だった。男の頭部には一瞬で意識を失ってもおかしくないほどの、かなり強力な振動を与えた。しかし男は身体をゆすってこちらを睨み、さらに手まで伸ばしてきていた。
「……ま……て」
男の喉から制止の声がか細く漏れる。伸びた手はアシュリーを掴もうと、その指先を何度も動かす。しかしそこまでだった。その手はアシュリーのもとにまで届くことは決してなかった。無力に空を掴み続ける男の姿を見下ろして、アシュリーは笑う。
「そう言われても、こちらにも事情があってな。牢はこの奥かな? 悪いが通させてもらうぞ」
そう言って男に勝者の笑みを浴びせたアシュリーは、背を返して先へ進んだ。だが数歩進んだところですぐに立ち止まる。
「どれだ?」
扉が三つ並んでいた。どれも牢への入口であるようで、鉄枠で補強された厚木の頑丈な扉である。ジャミルがどれかの扉の奥にいるのは間違いないだろう。しかし片端から探すのはアシュリーには少し面倒に感じられた。そこでアシュリーはシムスの存在を思い出す。
「おい、シムス。ジャミルのいる地下牢はどの扉だ?」
だが返事がない。振り返ると、そこでシムスがのびていた。どうやら男の放った演算の音で失神してしまっていたらしい。
「ええい、本当に使えん下僕だな!」
悪態を吐くアシュリーの背後で、扉の開け放たれる音がした。
「なんの音だ!」
そして声。男の演算の音はシムスが失神してしまうほどに強力であったのだ。その音に人が集まってきてもなんら不思議なものではない。そのことに思い至ったアシュリーは内心に舌を打つ。
(ええい、ままよ!)
ジャミルのもとまであと少し。“穏便に”とは言われていたが、ここまで来たら強行突破もやむなしかと腹を決め、アシュリーは素早く演算を両手にまといつつ身体を振り戻した。
しかし、そこでアシュリーは信じられないものを見る。
「なっ!」
開かれた扉のむこうに四人の男。その中ほどに見慣れた男の顔があった。
「なんだ。遅かったじゃないか、アシュリー」
その男が軽く片手を上げてアシュリーに笑いかける。アシュリーは男の顔に指を差し、思わず大声を上げた。
「ジャミル!」
その反応に気をよくしたか、ジャミルは笑いながらうなずいた。