「ジャミルの抵抗」3
コツコツと石畳に鳴る足音が、ひどく大きく耳に聞こえた。
シムスは市庁舎の裏口へ向かい歩いていた。嫌な汗が首筋に冷たく走っている。路地の暗がりから出て、篝火に明るく囲まれた市庁舎へと歩くわずか二十ムルーナほどの道のりが、今のシムスにはとても遠く感じられた。
「……心配するな。バレやせんよ……」
緊張にぎこちなく歩くシムスの耳元にその声はささやかれた。しかしシムスの近くに声の主の姿はない。どこからとなく聞こえてきたその声は、優しく甘く、それでいて有無を言わせない冷たい響きを持っていた。その声に押されるようにシムスの足が速まる。
近づく裏口には警備の兵が立っている。シムスは自分の唾を飲む音を聞いた。
「おや、シムスさん。宿舎に戻られたのではないのですか?」
警備の兵がシムスに気づき声を掛ける。シムスとは顔知りになっていたこの兵は怪しむ表情も見せず、むしろ親しみのあるやわらかい口調でシムスに訊ねた。しかし問われたシムスは緊張に返事が出来ず一瞬押し黙った。
「あ……」
言葉を探して目が泳ぐ。そのとき背中を何かに押され、シムスは弾かれるように口を開いた。
「い、いえ! ちょ、ちょっと忘れ物がありまして」
声が上擦る。シムスは心臓がキュッと締まるのを感じた。しかし警備の兵は声の大きさに少し驚いた顔をしただけで、特別に訝る様子もなく丁寧にシムスに応対した。
「そうでしたか。では使用人に取りに行かせましょう。何をお忘れに……」
「あ、いえ、どこに忘れたかうろ覚えなので、自分で探した方が早いと思いますので!」
シムスはその提案を慌てて遮り、裏口の扉に手を掛ける。
「そうですか。ですが今夜は慌ただしい様子なので、あまり目立たないようにしてくださいよ。怒鳴られますから」
シムスは親切な兵士の言葉にうなずくと、扉を開けて中に入った。
そして扉を閉じる。
「ヒヤヒヤさせおるな、この下僕は」
そこで再び耳元で声がした。しかしやはりその声の主の姿はない。だが、高く震える六弦琴の琴線のように細く澄んだ女の声は、確かにシムスの耳に聞こえていた。そしてその声とともに頬を這う指の感触が肌に伝わる。細くやわらかな女の指の感触が。
「す、すみません、アシュリーさん」
その指の感触に赤く顔をこわばらせながらシムスが謝罪する。しかし声の主はその頬をつねり、この謝罪に訂正を求めた。
「アシュリー様だ。僭越だぞ、下僕」
指が離れると耳に吐息がかけられた。甘く耳をくすぐる息に身体の力が抜けた瞬間、シムスの尻は思い切りに蹴飛ばされた。
「ほれ、地下牢だ。早く案内せい」
「は、はい」
姿なき声の主――アシュリーに蹴られた尻の痛みに顔を歪めながら、シムスは市庁舎の廊下を歩き出した。燭台の明かりが点々と灯るだけの廊下はかなり薄暗い。一ムルーナ強ほどの幅しかない狭い廊下には足音が響き、一歩進むごとに心臓を驚かせる。
だが、それ以上にこの鼻先をくすぐる陽の香りにも似た芳しい髪の匂いや、この右腕に絡む女性特有のやわらかい手の感触の方が、強くシムスの身体をこわばらせていた。
痛みに歪んだ顔もいつの間にか弛んでいる。その口元に広がる弛みは、疑いなく幸せを噛み締めているものの表情であった。
(あのアシュリーさんがこんな側にいるなんて――)
その実感がこみ上げてくると、左手が自然に唇をさすった。そこに触れた感触を思い返すたびに、シムスの口元はさらに弛みを増していくのだった。
(ああ、こんな幸福に浸れるなら、初めて出会ったあのときに願い出ていればよかった――)
それはまったく予想外な出来事であり、同時にシムスが最も望んだ状況であった。
「ちょっといいかな?」
シムスが市庁舎から出て路地に入った直後のことだった。突然、何者かに背後から頭を鷲掴みにされ、壁に押さえつけられたのだ。そしてその瞬間に街の音が消え、月の光が絞られるように弱くなる。すべてが急すぎて、何が起きているのかも把握できない。しかしこの状況に怯えるよりも強くシムスの身体を震わせたのは、耳元で囁かれたこの声だった。
「ふふふ、そう怯えるな。命までは取りはせんよ。少し聞きたいことがあってね……」
優しく、甘く、それでいて残酷なまでに冷え切った響きを持つその声。
「――アシュリーさん!」
「うん?」
頭で考えるよりも先にその名前を叫んでいた。自分の頭を押さえる手が緩む。シムスはその隙に首をねじり、背後の人物に顔を向けた。
それは夢にまで見た尊顔だった。漆黒の闇を背に立ち、直上から射す月光に金冠の如くその髪を輝かせ、その陰影に白銀に浮かぶ、何ものをも寄せつけない無機質な彫像にも似た完璧とも呼べる顔を持つ女性。彼女――アシュリーがその目に驚きを浮かべ、シムスを見ている。
「わ――」
そしてシムスはその秀麗なるフリュネもかくやと云うべき神々しい美貌を前に跪き、自然と次の言葉を発していた。
「わ、私を従者にしてください!」