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黄金の竜  作者: ラーさん
第二章「竜との旅」
58/73

「包囲」7

「お帰りなさいませ、カザル様」

 ユーカスの本営から戻ったカザルを出迎えたのはウルバンの恭しい立礼だった。

「戻っていたか、ウルバン。それで首尾は?」

「上々かと」

 腰に帯びた剣を外して手渡すカザルの問いに、ウルバンは目だけを上げて薄い笑みとともにそう答えた。

「カザル様の読み通り、現在フォルクネ市はジャミル捜索に躍起になっております」

「だろうな。他に頼る手立てもあるまいに」

 マントを脱ぎながら天幕へと歩くカザルをウルバンが追従する。カザルは近くにいた歩哨に人払いを命じ、ウルバンとともに天幕の中へと入った。

「まあ、飲め。ユーカスの“でき過ぎた”妻からの差し入れだ」

 マントを椅子の背もたれに投げ掛けたカザルは、卓上のワイン瓶を掴んでコルクを引き抜くと、隣に置かれた銅杯に注ぎウルバンに差し出した。

「お心遣い、ありがたく存じます」

 自分の杯にもワインを注ぎながら、カザルは目でウルバンに酒を勧める。目礼したウルバンがワインに口を近づけると、熟した果実が漂わせる頽廃(たいはい)にも似た甘く芳醇な香りが鼻腔に満ちた。驚きに一度顔を引いたウルバンをカザルが笑った。

「……これは?」

「まあ、飲みたまえ」

 ワインを恐る恐る口に含む。すると口当たりのよい酸味とともに蜜飴でも溶かしたかのようなえもいわれぬ甘い香りがウルバンの舌を一瞬にしてとろけさせた。

「……ほ」

 ウルバンが思わず漏らしたため息に、カザルは満足げな表情を見せる。そして卓に置いたワイン瓶の口を軽く指で弾いた。

「この金羊(きんよう)の紋章。かの有名なカルーク産の『金羊の血』だそうだ。一本でフェルネール金貨三枚はくだらんという銘品だ。ふふん、ランカー家の金満がいかほどのものかよくわかるな」

 瓶の胴には切り硝子で金色の羊が象眼されていた。前足を振り上げ高く角を掲げたこの金色の羊は、七賢者の一人、博愛のクラウディアを信奉する金羊騎士修道会の紋章であった。

「これが……。騎士団のワインはどれも高い品質であると評判ですが、カルーク産となると最高級のものですね。私には恐れ多い味です」

 クレルモン王国の西の境界、バーゼル河の対岸には金羊騎士修道会の所領が広がっている。彼らの信奉する博愛のクラウディアは一般に『慈母』として崇められている。クラウディアが示す精神は『博愛』であり、その体現と武力による護持を目指す組織が金羊騎士修道会である。彼らは『博愛』の精神に基づき、各地で広範な慈善活動を行っていた。その活動の中には農民の生活水準の向上を目的とした作物の品種改良や農地開墾といった農業技術の指導も含まれ、結果として修道会の所領は品質のよい農産物を生産する豊かな土地となっていた。特に商品作物として栽培が推進されたブドウは近隣諸国でも有数のワイン産地を生み出し、『金羊の血』という通称を高級ワインの代名詞とするまでに至っていた。その中でも騎士団領カルークで醸造されるワインは最高級とされ、王侯貴族の贈答にも用いられるほどの一品であった。

「感謝は侯爵夫人にするとしよう。まったくあの小僧っ子には過ぎた女だ……。で、ウルバン。この大貴族ランカー家が“成り上がり”の子爵風情にこのようなものを送ることの意味、わかるな?」

 カザルはそう問い、杯に口を含みながらウルバンを見た。ウルバンがうなずく。

「国王陛下にはよしなに……ということでしょうか。王権の介入こそランカー家にとっては最も恐れるべき事態でありますから」

 ウルバンの答えにカザルは目を細める。貴族間の抗争の中から王位に即いた今王ベルトランは貴族の越権的な専横を嫌った。そのため多少の瑕疵(かし)でも王法に照らして厳正に処する姿勢を示していた。フェルラン派の貴族を除けばまだ家領の没収などの厳罰を受けた貴族はいなかったが、法に認められた以上の徴税権や裁判権の行使、貴族間の私闘などをとがめられて罰金刑を科せられた貴族は数多い。これらの貴族に対する態度から、巷間ではそのうち王が本格的に貴族の諸権利の抑圧を行い、王権強化の政策を取るのではないかと噂されていた。

「その通りだ、ウルバン。……と、考えればランカー家は今かなり危ない橋を渡っているということだ。まあ、ユーカスの小僧はそれをよくわかっていないようだがな……」

「なるほど。それを“妻”の方はわかっていると」

 エルナンの反乱軍のフォルクネ侵攻に対し、ランカー家は領主権に基づく防衛義務を放棄した。瑕疵どころではない。醜聞である。この領主側の契約の不履行を理由にフォルクネがランカー家の領主権を否定するという動きに出たのも、ベルトランのこの姿勢を読んでのことと推測された。ランカー家のような大貴族からフォルクネほどの大都市の領主権を剥奪できれば、それは相対的に王権の強化につながるからである。フォルクネの訴状は必ず受け入れられるだろう。現状においてランカー家が最も注意を払わなければならない相手はフォルクネではなく王なのである。

「そういうことだ。最初はユーカスの小僧なんぞに恩を売っても無意味な上に不愉快であるからフォルクネ側に有利な証言でもしてやろうかと思ったが……気が変わった。あの女、確かサガンのウォルゲン伯の娘だったな、あの傭兵貴族の。黒牛の旗を見た。ユーカスはだいぶ妻の実家から兵を借りているようだな」

 椅子に腰を下ろしたカザルは、ワインを舌に転がしながら思い返すように銅杯を眺めた。

「そのようです。傭兵隊の主力でしょう」

 ウルバンがうなずく。雑多な兵の集まりである傭兵隊の中で、一際目立つ黒揃えの装備をした一団があった。サガン傭兵である。彼らは七賢者の一人、不屈のクレオンの化身である黒き雄牛の旗を掲げ、その象徴色である黒一式の武装に身を包み、他の傭兵たちと比べても特別にその異様を示していた。

「サガン傭兵か……たいした後ろ盾だな」

 フォルクネのあるナザ盆地から南に望むサガン山脈は強兵の地であり傭兵の一大供給地として知られていた。この地が傭兵の産地となったのには理由がある。寒山峨々(かんざんがが)たる山岳地であるサガンでは耕作に適した土地が少なく、傾斜地に設けられた放牧地での酪農が主たる生活の手段であった。これは男手を多くは必要としない生活様式であり、そうなればこの余剰労働力は外に稼ぎに出るしかない。この山間での生活で足腰を鍛えられた屈強な男たちに働く場所を提供したのが戦争である。こうして彼らは傭兵となるのである。そしてこの傭兵となった男たちを集め、戦場を斡旋したのがサガンの有力貴族たちであった。このサガンの貴族たちの中心にいるのがウォルゲン伯であり、ランカー侯爵夫人パリシーナの生家であった。

「あの女、息子がいたな?」

「はい。まだ二歳ですが、正統なる嫡男です」

 カザルの目配せにウルバンが答える。銅杯に鈍く映るカザルの顔が愉快気に頬を弛めた。

「盤石だな。手付を置かないには惜し過ぎる」

 ユーカスは高慢で気位が高い。そして吝嗇(りんしょく)である。カザルを見る目は常に軽侮の色を帯びていた。あの男はどれだけの協力を与えても、カザルにいくらの感謝の念も抱かないであろう。カザルは一見にユーカスの人物に見切りをつけ、むしろフォルクネ側に利するような讒言(ざんげん)を王に吹きこむことを考えていた。その方が王の意に沿い、また独立したフォルクネ市と特別なつながりを持つことができて自らの利益になるからだ。しかし。

「あの女はいずれランカー家を取り仕切るだろうよ。恩を売るには十分な相手だ」

 カザルはパリシーナを高く買った。堂々たる立ち居振る舞い。優雅なる弁舌。きらめく才知。女であることが惜しいと思えるほどに、その才気は隠すべくもなく溢れていた。そして野心も。カザルは苦笑する。それは自分と同類の人間が持つ匂いであった。そしてそれはおそらくあの女も同様に感じたものだったのだろう。カザルは手の中の杯に揺れる金羊の血ワインを見ながらそう思った。

「ウルバン、あの女はいずれやるぞ。そのときのユーカスの泡を吹く顔……ぜひ拝見したいものだな」

「そのような女性と巡り合う機会に恵まれなかった、自分の幸福を思います」

 ウルバンの冗談にカザルが大笑する。

「お前は普段は鉄面のようにおもしろくなさそうな顔ばかりしているのに、こう思い出したかのように冗談を言うな」

「お褒めにあずかり光栄と存じます」

 ウルバンが丁重に頭を下げるとカザルは再び笑った。

「ふふふ……さて、ここでいつまでも皮算用をしていてもしようがないな。恩を売るにも元手が必要だ。それでジャミルはどうなった? 騒動が聞こえておらんところからすると、まだ見つかっていないのか?」

 ようやくに笑いを抑え表情を引き締めたカザルは、本題に戻りウルバンに報告を促した。

「そのようです。しかし昨夜の連絡によれば一昨日にあの金髪の女らしき人物が歓楽街にて騒動を起こし、現在その事件の捜査を行っているとの報告です」

 カザルはフォルクネ市に三人の兵士を送り込んだ。ジャミル捜索の協力のためである。さらに彼らとは別に仲介の連絡員として市内の人間を雇い入れていた。この連絡員は兵士たちが収集した情報をまとめた手紙を矢にくくりつけ、深夜に城壁の上から放つのである。これを回収したものが、今のウルバンの報告だった。

「ほう、あの派手な女が騒動を? それなら火柱のひとつぐらいはここからでも見えそうなものだが?」

「理由は不明ですがそこまでの事件には至っていない様子です。しかしこの事件を足掛かりに早晩にもジャミルの所在は判明するでしょう」

「ふむ。事態はだいたいこちらの筋書き通りに進んでいるな。これでジャミルがフォルクネの連中と戦闘になり、魔女に連れられて城外へ飛び出してくるのも時間の問題だな……そしてユーカスの包囲陣と衝突する」

 ジャミルの側には金色の魔女がいる。それが最大の障壁だった。あの言語に絶する力を持つ術士が近くにいては、ジャミルを捕縛するどころか返り討ちに全滅することも容易に想像できた。そこでカザルが考えたのが第三者に手を出させるということである。これにフォルクネとランカー家の対立、さらにラーダの侵攻という諸々の状況が実に都合よく利用できた。

「やはり都合のよい話には誰しも耳が傾きます。うまくいくものです」

 カザルは自らがワザンの命令を帯びた王使であると名乗り、フォルクネとランカー家にそれぞれワザンの命令としてジャミルの捜索と捕縛を要請したのである。そして両者ともにこのカザルの動きに喰い付いた。フォルクネは王権を介した講和の材料とするため、ランカー家はフォルクネを屈服させるための戦争の口実としてである。しかしカザルが王使であるというのは完全な偽りである。カザルにはいかなる権限もなかった。そもそもジャミルの追跡を行っている現在の状況はワザンの撤収指示を無視した完全なる独断専行である。しかしカザルの発言の真偽は、王とワザンがラーダへの対応のため遠く東へと向かった状況にあってすぐに確認の取れるものではなかった。この実権の空白がカザルに虚偽の権力を行使する時間を与えたのである。そしてこの間に功績を上げれば、この独断専行を正当化できるだけの弁舌の自信がカザルにはあった。

「まったくだ。ふふふ、しかしあの魔女の力を見たら……あのパリシーナも驚きに言葉を失うであろうな。さぞかし大混乱に陥ろう」

 椅子の背もたれに身を預けてカザルが微笑む。カザルは両者ともに金色の魔女の恐るべき力について伝えていなかった。理由は警戒心を与えず、ジャミルに手を出してもらうためである。そうすれば確実にあの魔女が動き、混乱を生みながら街の外へと脱してくるだろう。そこでユーカスの軍と接触し、そこでも混乱を誘発する。

「その混乱に乗じてジャミルを……。しかし、うまくいきますでしょうか?」

「あの魔女に不意打ちは効く。それは先の戦いで証明済みだ。あと必要なのは不意を生む状況だけだ。なんのためにこれほど大掛かりな“おとり”を用意したと思っている。私の腕を侮るなよ?」

 ウルバンの懸念にカザルは眉をひそめ、腰に提げた朱塗りの指揮棒を叩いた。

 カザルにとってフォルクネもランカー家も金色の魔女を牽制するために用意した道具だった。特にランカー家の陣営には優秀な術士が何人もいる。予想通りに戦闘になれば彼らが魔女と戦うことになるだろう。そのとき一瞬といえども必ず隙ができる。この一瞬の隙にジャミルをそして魔女さえも確実に仕留める手段がカザルの手にはあった。

「過ぎた言葉でございました。申し訳ございません」

 ウルバンの謝罪にカザルはうなずく。そして再び杯にワインを注いでそれを口に運んだ。

 息を吐く。

「今度の毒はバズのような生易しい毒ではないぞ」

 甘い香りとともに吐き出されたその言葉には、しかし一片の情味も含まれていなかった。

「ジャミルとともにあの魔女をも仕留めれば……ワザンはさぞかし驚くであろうな」

 そしてカザルはその想像に頬を弛め、杯に残るワインを一息に飲み干した。

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