「包囲」3
サラの話によるとベルナルドはエルナンの従騎士で、人質であるジャミルの家族の世話を任されていたらしい。
「街のあちこちから煙が上がったのを見て、ベルナルドさんはすぐにあたしたちを逃がしてくれたの」
市民の蜂起に駐留部隊は各所の宿営を襲撃され、すぐさま四分五裂の敗走を始めたが、その混乱に巻き込まれる前に、ベルナルドは自分と義父を安全な場所へ避難させてくれたのだとサラは話した。
「でもね、ベルナルドさんが怪我をしちゃって」
サラの表情が曇る。混乱の中、二人を避難させている最中に武装した市民に襲われたベルナルドは、二人を守ることこそできたものの、かなりの深手を負ったのだった。
「だからね、周りが落ち着いてからも、ベルナルドさんの看病のために街に残っていたの」
サラと義父はベルナルドをかくまうために家を借りた。人があまり寄り付かない屠殺業者や革なめし職人が軒を連ねる皮剥ぎ地区と呼ばれる街区の付近である。この地区は屠殺された獣畜の血や、革なめしに用いる溶液の放つ悪臭が絶えず漂っている場所であった。また同時にこの場所はフォルクネ市街で最も土地の低い地区で、市街で発生する生活廃水をカラール河へと排出する水路が集まっているところでもあり、生活環境としては最低の場所であった。
この環境劣悪な皮剥ぎ地区の周囲には、出稼ぎ者や日雇い者、孤児に孤老に病人などの貧者、ならず者や犯罪者など訳ありの者が多く住む。見慣れない老人と娘の二人組でも、深い穿鑿を受けずに簡単に部屋を借りられたという。
「動けるのはあたしだけだったから。お金もないし。それで淑女通りのお店で給仕の仕事を見つけたの」
ロベルトは長年の馬車に揺られる行商で腰を痛めていた。それが原因でジャミルに仕事を引き継がせ行商人を引退したのである。動けない二人のためにサラは生活に必要なものを手に入れるため街に働きに出たのだった。
「そこでね、あたしと同じ名前の女の子を捜してる男の人が来たって、お店の人から聞いたの」
それはジャミルがフォルクネに着いた日のことだった。その店にはジャミルも訪れていたが、サラという名前の女の子はいないと言われていた。
「知り合いのふりやうまい話をして働いてる子供をさらう悪い人も多いから、お店の人はあたしのこと話さなかったって。サラなんてよくある名前だし……」
それは子供を捜したことなど今まで一度もなかったジャミルには意外なことだった。どうりでなかなか聞き込みがうまくいかなかったわけだと、ジャミルが頬を掻いて苦笑していると、サラがジャミルの顔をまっすぐに見上げていた。
「でも、本当にお兄ちゃんだったらって……。だから同じ人がまた来てるって聞いたとき、あたし走っていったの」
サラの瞳に潤むものが見えた。そしてそれは頬を伝い、サラの顔をくしゃくしゃと歪めたのだった。
「そしたら本当にお兄ちゃんだった……」
サラがジャミルに抱きつく。その肩は小刻みに震えていた。助けを求められるものもいない場所で、彼女は不安の中に一人で戦っていたのだ。
「がんばったな……」
ジャミルはサラを抱き締めながら、落ち着くまでその頭をなで続けた。
「まったく情けない話だ」
やがてサラが眠りにつくと、ロベルトはため息とともにそう漏らした。
「この腰さえなければ、こんな気苦労をさせることもなかっただろうに」
窓から月の明かりが差している。夜に沈んだ部屋の中には、水場に近いこの街区特有のじっとりと湿った冷気が壁から染み込むように侵入していた。寒さは腰に堪える。ここに来てから腰痛が悪化しているのだろう、ロベルトは始終手を動かして腰をさすっていた。
「親父が悪いわけじゃないさ。それはサラだってわかっているよ」
ジャミルが言う。ロベルトはジャミルのひざの上で寝息を立てるサラを見た。
「物分かりのいい娘だからな。親としてはそれが心苦しいのだがな」
ロベルトの苦笑にジャミルも同意した。サラの髪をなでてやる。ジャミルのひざ枕にすっかり安心してしまったのか、サラは健やかな寝顔を見せている。しばらくその顔を見ていたロベルトだったが、不意に表情を引き締めジャミルに顔を向けた。
「ところで外はどうなってるのだ? 昨日はサラが興奮してしまっていたし、そこの御婦人の介抱に忙しくて詳しく聞く暇がなかったが」
そう言って部屋の隅に横たわるアシュリーに目をやる。昨日のことを思い出したジャミルは思わずため息をついた。
酔っ払ってふらふらのアシュリーを寝かしつけようとすると、「この私を子供扱いするなっ!」とわめきながら手足をじたばたとさせて散々に暴れた末に途中で吐き気をもよおして部屋を汚し、最後には頭痛に苦しみ出してうんうんとうめき出した。とりあえず水を与えようと外の井戸にサラが向かったところで、ジャミルを捜索する一団が街中を歩き回っているところに遭遇したのである。それを聞いたジャミルは情報を集めるためにサラを何度も外に向かわせたため、アシュリーの介抱はもっぱらジャミルが対応することになり、今までの経緯について互いに話す時間がなかなかとれなかったのである。
しかしアシュリーもなんとか落ち着いたのか、昼間のような妙に艶めかしいうめき声も出さなくなっていた。そこでアシュリーを除く四人はようやくそれぞれの詳しい事情のやり取りを始めたのである。先ほどまではサラが中心になって三人の側の状況を話していた。今度はジャミルが話をする番だった。
「話すと長くなるが……」
ジャミルはこれまでの経緯と、ここに至るまでに集めた周辺情勢に関する情報を話した。しかしアシュリーについては本当のことは伏せた。この女性が七賢者の伝説に登場する「竜」であり、五百年前にフォルリ王国を滅ぼした伝説の「金色の魔女」であるなど、すぐに信じられる話ではないからである。ただ逃走中に偶然に出会った森の中で隠棲していた術士であり、ジャミルが追手から逃げるのを助けてここまで来てくれた恩人であるとだけ告げた。
「ジャミル様、それではエルナン様の行方は知れないのですか!」
ジャミルの話を聞き終えて最初に声を上げたのは、それまで耐えるように黙っていたベルナルドだった。
「あんな奴の末路になど興味はないわ。どこぞで野垂れ死んでくれた方がよほどに世の中のためじゃわい」
ロベルトが吐き捨てるように言う。ジャミルたちにとって今の状況は、エルナンの野心が生んだもの以外のなにものでもなかった。しかしこの純朴で真面目そうな顔をした従騎士にとっては、このエルナンこそが一番に仕えるべき主君であるのだった。
「エルナン様は立派な方です! 大貴族に利権を独占されたこの国に新たな風を吹き込もうとされているのですよ! 現に大貴族であるランカー家のこの横暴はどうですか!」
頬を紅潮させ、唾を飛ばして反論するベルナルドをロベルトが冷たく制す。
「サラが起きるぞ。声がでかい」
ベルナルドはぐっと言葉を飲み込んだ。不服そうな表情だったが、反論を続けることはなかった。この二人は仲が悪い。エルナンの部下であるベルナルドにロベルトが好意を抱いていないのはもともとであろうが、おそらくそのベルナルドを甲斐甲斐しくサラが世話するのでますますに気に入らないのだろう。ジャミルは義父のサラに対する愛情のほどを思い返した。遅く生まれた娘は妻の忘れ形見でもあるし、連れ子である自分とは愛情の質も違うのだろう。
一方でベルナルドもなにかと突っかかるロベルトに対しては反発するが、サラが関わると一歩引いた態度をとる。サラに介抱をされることにだいぶ感謝と負い目を感じているらしい。このベルナルドという男もなかなか変わった男だとジャミルは思った。本来なら二人を見捨てて他の兵士と一緒に逃走していてもおかしくないのに、二人を守って怪我まで負っているのである。おそらく二人の世話をするという命令を忠実に守ろうとしてのことだろう。しかし、ジャミルはこのことにとても感謝していた。そのためロベルトのように邪険に接する気にはならなかった。なによりエルナンの側から離れもはや敬意を表す必要もない相手であろうジャミルを「様」と尊称を付けて呼ぶことからも、その忠良な性格のほどがわかる。ロベルトに対しても反論はするが手まではあげない。信用に値する人物であるとジャミルは思った。
「わかればいい」
ロベルトが満足げに笑うと、ベルナルドは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。ただしサラが見ていないときの二人の様子は剣呑そのものである。これは頭痛の種だった。ジャミルはサラの髪を優しくなでながら、今までこの二人の世話をしてきたサラの苦労をいたわった。
「それでジャミル、何故お前が今頃にお尋ね者になぞなっているんだ? 手配をするなら最初からしているだろうに。フォルクネ市はお前を捕まえて、王に仲裁を頼むときの土産にでもするつもりか? ランカー家の軍隊はもう城壁の外にいるのだ。とても間に合うものではないぞ」
ベルナルドを黙らせたロベルトがジャミルに向き直る。当然の疑問だった。一昨日まではそのようなことはなかったのである。今更フォルクネ市がジャミルを捜し始める理由が見えてこない。
「わからない。もしかするとランカー家が王のご機嫌伺いに俺を捜し始めたのかもしれない。それでフォルクネ市がランカー家の矛先を緩めるのに俺を利用しようとしている可能性もある」
サラが集めた情報によると、今日ランカー家の軍勢が城壁の外に姿を現したらしい。一番の理由になりそうなことはこれだったが、現状では確認のしようがなかった。
「なんにしろ動きが取れない。それにランカー家の包囲が始まったらどうしようもなくなる。時間もない」
サラ以外は街を出歩くこともままならない状態である。状況の変化を待つにも、戦争が始まってしまえば街から出ること自体不可能になる。
「打つ手なしか……」
苦い顔でロベルトが呟く。そして重い沈黙が下りた。
(打つ手か……)
ジャミルはそこで部屋の隅で寝返りを打っているアシュリーに目をやった。
打つ手がない訳ではなかった。アシュリーの力を借りればおそらくどうとでもなるだろう。しかし、この大き過ぎる力がどのような結果を生むか。それを想像したジャミルは逡巡にその視線を元に戻した。
「……そうだ。ジャミル様、エルナン様の側にジスモンドという騎士がいたはずですが、どうなったかはご存知ですか?」
「ジスモンド?」
沈黙に静まる中、ベルナルドがおもむろに口を開いた。その名前に聞き覚えのあったジャミルは、ベルナルドに聞き返す。
「私の兄なのですが……」
エルナンの側近の一人であったという。そこでジャミルはその名を思い出した。王軍との戦いに敗れて逃げる途中、河原で追手の襲撃を受けたときに身を盾にしてジャミルを守った騎士の名前が確かジスモンドといった。
「あの人の弟か……」
自分を守った男の弟が、家族を守ってくれた。この奇縁にジャミルは深い感慨を覚えた。しかしその感慨も、あの戦いの光景を思い返すうちに悲痛なものに変わっていく。
脇腹の傷跡がうずき、背中を焼いたあの爆炎の衝撃がよみがえった。あのときジスモンドはジャミルの側にいた。彼はどうなった――?
唇が乾いた。ジャミルはためらいがちに顔を上げると、ベルナルドの表情をうかがうように低い声で告げた。
「……すまない。彼は……死んだと思う。俺は爆炎で焼かれたんだ。そのとき側にいて俺を守ってくれていたのがジスモンドさんだったから……おそらく」
一瞬の沈黙。ベルナルドは目を大きく開き、唇を固く結んでわずかにみじろいだが、やがて諦めたかのように目を閉じ、固い声で、弱く、けれどはっきりとした口調で言った。
「……そうですか。いえ、いいのです。兄は使命を果たそうとして死んだ。騎士たるものの宿命です。ですから……いいのです」
夜の闇が色を濃くした。月に雲がかかったのだろう、窓の明かりが薄れた。闇は沈鬱を帯びて、より深く部屋を沈黙に沈めた。
ロベルトがぼろ布をかぶって横になる。ベルナルドも静かに身を横たえた。
もう会話の時間は終わったのだろう。これ以上何かを話すには夜の闇は深くなり過ぎていた。サラの頭をゆっくりとひざから下ろし、ジャミルも自分の寝床に移ろうと立ち上がる。
そのときだった。その不意の音にジャミルの身体がピクリと震えた。
扉を叩く音。
緊張が背筋を走る。冷や汗を肌に感じながらジャミルはゆっくりと扉に振り返った。