「包囲」2
壁板の隙間から漏れるわずかな光しか差さない薄暗い室内には、鼻に濁る臭気が漂っている。
ジャミルはその部屋の入口の辺りに身を潜めるようにして座り、外の音に耳を傾けていた。
足音。
こちらにまっすぐに近づいてくる。その音は軽い。
足音は入口の木戸の向こう側で止まる。戸が叩かれた。
叩かれた回数は七回。
それを確認したジャミルは静かに戸を開いた。
「どうだった、サラ」
室内に入ってきたのは十ニ、三歳ぐらいの少女だった。背こそあるが痩せた少女で、頬にはそばかすが散り、黒髪の色は埃にくすんでいる。しかしそのくりくりと動く黒く大きな瞳には、見る者の心を明るくする快活な光が宿っていた。
ジャミルにサラと呼ばれたこの少女は首を横に振った。
「ダメ。街中に兵隊や役人が歩き回ってる」
「本当に目的はオレか?」
「うん。懸賞金も出てた。街の人も集めて捜させてるみたい。偽王子のジャミルを捜せって、役人が街中で大声を上げてたよ」
「なんだって突然……」
二日前まではそのようなことはなく、普通に街を歩くことができた。そもそもフォルクネ市はジャミルの身柄に興味などなかったはずである。それが昨日から突然変化した。不可解な事態に顔をしかめたジャミルに少女が続けた。
「それに城壁の向こうに敵が来たって。街中大騒ぎになってる」
「本当か?」
ジャミルの顔に驚きが浮かぶ。ランカー家の軍隊だ。包囲が始まれば街から出ることはできなくなる。
――また戦争に巻き込まれるのか。
ジャミルの表情に影が差す。しかし少女はジャミルのそんな様子に気付かないのか、部屋の奥を覗くように首を伸ばしていた。
「あのお姉ちゃんは起きたの?」
ジャミルの眉が上がる。そしてため息をつき、大きく首を振った。
「あいつはまだ奥でアーとかウーとか唸っているよ」
ジャミルの素っ気ない言葉遣いに少女が顔をにんまりとさせる。
「あんなキレイな女の人を“あいつ”だなんて、お兄ちゃんもなかなかスミに置けないね」
少女がジャミルの脇腹を肘で突く。ジャミルは顔を苦くして笑った。
「そんなんじゃないよ」
「ふ〜ん」
手を振りながら背を向けるジャミルの後ろを、少女が意味深な顔でうなずきながらついて来る。
まったく自分の言うことを信用していないように見える少女の態度にジャミルはため息をついたが、同時にそのため息には安堵の息も含まれていた。
――こんな会話がまたできるなんてな。
ジャミルはそこで二日前の夜の出来事を思い返した。
「――こっち!」
この声を聞いたのは、あの夜、酒場での騒動からアシュリーを抱えて店外へ逃げ出たときだった。
「え?」
聞き覚えのある声にジャミルが反応する前に、野次馬の間から割って出た小さな手がジャミルの服の裾を引いた。
少女の手。
ジャミルは前を走るその少女の手を、その後ろ姿の輪郭を知っていた。ジャミルの心に予感が生まれ、それは足を進めるにつれて次第に確信へと変わっていく。
少女は暗闇の路地を迷うことなく進んでいった。そして獣血の臭気が生ぬるく漂う、城壁に近い街の一角へと行き着いた。
「はあ、はあ」
そこは屠殺業者や革なめし職人が集住する街区だった。その闇に閉じた細い街路のさらに深い暗がりで、息を切らす胸を押さえながら少女は立ち止まった。
「……サラ?」
ジャミルは恐る恐る“妹”の名を呼んだ。すると少女はジャミルに振り返り、その身体へと抱き着いたのだった。
「お兄ちゃん!」
「サラ!」
二人の影が闇の中に交わる。妹のサラ。その温もりの確かさにジャミルの胸中に込み上げた感情は、その頬を熱く濡らした。
――はったりだった。
妹は生きていた。エルナンのあの言葉はジャミルを操るための虚言だったのだ。エルナンのこの狡猾な嘘にまんまと揺さ振られてしまった自分に怒りと悔しさを覚えたが、それ以上にジャミルはこの混沌とした状況で無事に家族と再会できた自分の幸運に感謝した。
「サラが戻ったのか?」
奥の部屋から聞こえてきたそのしわがれた声に、ジャミルの意識は回想から引き戻された。
間仕切りの布を払い奥の部屋に入る。すると暗く狭い部屋の隅でもぞもぞと動く人影が見えた。
「起きて大丈夫なのか?」
「お前が安心して儂を眠らせてくれれば、いくらでも眠っておるさ」
土間敷きの藁がじっとりと湿った部屋は、腐りかけた草の臭いと饐えた人の臭気に澱んでいる。小蝿がうるさく飛ぶこの不衛生な室内には、布団とは名ばかりのぼろ切れを被った人影が三つ、横になって並んでいた。その一番右端に横たわる人影が半身を起こしてジャミルの方を向いた。薄暗い室内でもその頭髪に混ざる白いものや、顔に走る多くの皺からその年齢を窺うことができた。しかしその炯々とした光を放つ眼の色から、その人物が決して年相応に心まで老いさせていないことがわかった。
「心配ばかりかける不孝者で悪かったな」
ジャミルが苦い顔で返事をすると、老人は口元を弛めて目を横に向けた。
「それにこんな近くでうら若い御婦人のなまめかしい喘ぎ声を聞ききながら、おちおち寝ていられる男などいやぁせん」
ジャミルは部屋の反対側に目をやった。暗がりにも凛然とした輝きを感じさせる金の髪を無造作に広げて横になる女性の姿が見えた。
「……あぁ……う…ん……あ……」
陶器のように白い額に形のよい眉を寄せ、湿り気を帯びた唇を薄く開いて眠る女性は、寝返りを打つ度にそんな艶のある息をか細く漏らしている。
アシュリーだった。
酒に潰れたアシュリーは二日酔いどころかすでに三日酔いに突入し、わずかに起きて多少の食事と用を足すとき以外は、いまだに頭痛に耐えつつ喘ぎ声と唸り声を出しながら眠っているのだった。
――本当にこいつ、伝説の竜なのか?
何度目かの疑問がまたしても脳裏をよぎる。ジャミルの方が頭の痛くなってくるような痴態だった。
「まったく、儂のような枯れたものでも男であるのを思い出すほどだ。なあ、ベルナルド殿、お主のような若い者ではますますだろう?」
老人は隣に寝ている男に同意を求めた。ぼろ布を頭から被って寝ていたその男は、老人の言葉にピクリと反応すると、慌てたように顔を出して声を上げた。
「き、騎士である私にそのようなことがある訳ないでしょう! いくらロベルト殿といえども、これは侮辱でありますよ!」
年齢はジャミルと同世代だろう。角張った顎に太い眉をした固い顔の青年だった。ベルナルドと呼ばれたその青年は、生真面目そうなその顔を真っ赤にしてロベルトと呼んだ老人に向かい、食いかかるような勢いで反論した。
「そんな大声を出すと、傷にさわるぞ」
しかし老人はそんな青年の剣幕に少しも動じず、逆に青年の腹の辺りを指差して忠告する。すると青年の額に見る見る脂汗が浮き、そのまま身を屈めてうずくまってしまった。
「痛うぅぅ……」
「ほれ、言わんこっちゃない」
哄笑する老人に叱声が飛んだ。
「お父さん! ベルナルドさんをいじめちゃダメ!」
騒ぎにサラが部屋に飛び込んできた。そして老人の頭をパシンとはたくと、うずくまった青年の介抱を始める。
「ベルナルドさんは命の恩人なんだから、いじめたりしちゃダメでしょ」
サラが老人をたしなめるが、老人は憮然として腕を組んでそっぽを向く。
「このぐらいで気を立てるようではまだまだだな」
「お父さん」
サラに睨まれ老人が首を縮める。
「おいジャミル、お前がいない間にサラがすっかり怖くなったぞ。まるで母さんみたいだ」
「なにやってんだよ、親父……」
ジャミルは呆れた顔で老人――義父ロベルトの悪びれない顔を見た。ジャミルが頭痛を覚えてこめかみを押さえたとき、あの声が耳に届いた。
「……うん……ぁ…あぁ……」
アシュリーの喘ぎ声。
ロベルトとサラがまだ言い合いをしている。
――こんな場合じゃないっていうのに。
ジャミルは現状の困難を思い返し、頭に手を当て天井を仰いだ。