「包囲」1
楽しい春の季節がやって来た
木々は芽吹き
花が野辺に咲き乱れる
歌を囀るのは
暖かさに誘われた小鳥たち
しかし、春の何が楽しいかといえば
牧の原に勢揃いした騎士を
長槍を携えた歩兵たちを見ること
天幕陣屋に
色とりどりの旌旗を見ること
よいものだ
騎士が農民どもを追い散らし
歩兵が城壁に取り付くさまは
雨降る矢に
演算の帯
雲梯が壁に架けられ
破城槌が門を打つ
味方からは「前進を、前進を!」の号令
敵からは「援軍を、援軍を!」の悲鳴
よいものだ
城壁が壊され、崩され
屍も踏み砕かれて
悲嘆にくれる街を見るのは
よいものだ
飲食も忘れ、寝るのも忘れ
略奪の喜びに
酔いしれる男たちを見るのは
嗚呼、戦争、戦争!
なんと甘やかたるか、この響き!
ボードワン・オートフィル「春の喜び」より
丘に吹く風に旒旗が翻り、揺れる影が白い野花を灰色に覆った。
影とともに風に揺られて小さく咲くこの花に、草を踏む足音が近づいてくる。
軍靴。
花は踏まれた。
「ふむ。実によい戦争日和」
額にかかった金の髪を指で払いながら声の主、ユーカス・ランカーはそう呟いた。
人馬のざわめき。
丘の上には幾十もの天幕が張られ、幾本もの旒旗がはためいている。緑地のその旒旗に縫い取られた黄色の雌獅子の意匠はランカー家の紋章だった。
風に流れる雲の影が丘を走る。瞬間に熱を下げる影がユーカスの身体の上を抜けると、太陽のまぶしい輝きが目を刺した。目を細めたユーカスは微かに笑うと、おもむろに詩を吟じ出した。
――さあ、戦いだ!
このよき戦争日和
旗を掲げて前へと進め!
これは気高き正義の戦い
それは幸運の訪れる日
あの馬鹿ものどもの腐った血が
まばゆい砂金に生まれ変わる日
どんな錬金術よりも
確実なる富を生む日
さあ、旗を掲げて前へと進め!
このよき戦争日和!
「ボードワンの詩ですか?」
「おお、パリシーナ」
ユーカスの傍らに豊かな赤い髪が揺れた。ユーカスの妻パリシーナは夫の横に並ぶとその顔に微笑みかけた。
「ボードワンの詩はあまり詳しくありませんが、勇ましい詩ですわね」
ユーカスが吟じたのは、騎士にして傭兵、傭兵にして詩人、自らを「善の敵、憐れみと慈悲の仇」と称し、百の戦場で極悪非道の悪名を轟かせた百五十年前の傭兵詩人ボードワン・オートフィルの詩だった。
「ふふふ、戦場の空気とはこう血を騒がすな。今日のような日和には特にボードワンのこの詩がよく似合う」
「よい顔をされますわね。本当に殿方というものは戦いがお好きなこと」
笑みに緩む口もとを手で覆ったパリシーナにユーカスは苦笑する。パリシーナは笑みを抑えると青く抜ける空を見上げ、ユーカスに言った。
「このような日和が続けば、包囲の作業もよりよく進むことでしょう」
うなずいたユーカスは、丘の下八〇〇ムルーナほど先にあるフォルクネの街を見下ろした。
丘と街の間には川幅五十ムルーナほどもある大きな河、カラール河が流れている。この河の西側にあるなだらかな丘陵を中心にフォルクネの市街地は広がっていた。河からは水濠が引かれ、高さ十五ムルーナにもなる巨大な城壁とともに街の全周を囲んでいた。
「今年の河の増水はそれほどでもないようだな。これぞ天恵か」
サガン山脈を水源とするカラール河は雪解けの季節である初夏になるとその水量を大幅に増す。普段の川幅は三十ムルーナほどだったが、初夏の川幅はその倍以上になることもしばしばだった。フォルクネの巨大な城壁は、このカラール河の増水から街を守る堤防の役割も果たしていた。
「ユーカス様の正しい行いを、このナザの大地も祝福しているのでしょう」
その言葉にユーカスは微笑を湛え、パリシーナの顔に振り返った。
「いや、私のなによりもの祝福は、パリシーナ、お前が私の妻であることだ」
そう言い、ユーカスはパリシーナの白い手袋に覆われた指を掴む。
「その姿、まるで夫デマデスに従って竜に戦いを挑んだ秀麗なるフリュネのようだ」
パリシーナは白いチュニックに白地のマントを羽織り、金糸を縫い込んだ白い腰帯を締めている。手足を覆うのは黒い雷紋を装飾した白なめしの革の小手に脛当て。この白揃えの軍装に肩から流れるのは、その燃え盛る火の如き赤い髪の彩りだった。この勇ましくも美しいパリシーナの出で立ちは、髪の色こそ違えど女の身で竜と戦い、華麗に戦場を駆け巡った七賢者の一人、秀麗なるフリュネを彷彿とさせるものがあった。
「夫を支え、あのような良策を献言してくれるお前は、まさに私のフリュネだ」
ユーカスの手が指をたどりパリシーナの手を握る。パリシーナはその緋色の瞳を柔らかく緩めて微笑みを返した。
「私には過ぎたお言葉ですわ、ユーカス様」
「謙遜だなパリシーナ。しかしそれがお前の美徳だ」
そこでユーカスは膝を折りパリシーナの足元にかしずいて、姫君に忠誠を誓う騎士よろしくその手の甲に口づけをした。
「お戯れを」
口を押さえて笑うカテリーナは、ユーカスの手を引いて立ち上がらせる。
「あのカザルという男、実によい情報をもたらしてくれました。私はそれを利用したに過ぎません」
王軍より派遣されたというこのカザルという小男は、戦場より逃亡した偽王子ジャミルがエダ街道を西に進み、フォルクネに向かっていることを報せてきた。そしてジャミルを捕えるための協力をランカー家に要請してきたのである。
ジャミルの狙いは反乱軍の残党との接触と想像された。この情報を聞いたパリシーナはすぐさまひとつのシナリオを作り上げた。
「フォルクネがジャミルを匿い反乱を企てているか……。ふふふ、使者の話だと奴らめ、相当の狼狽を見せたらしいぞ。この目で見れなかったことが残念だ」
ユーカスはフォルクネの街を見遣り、街の支配者のつもりでいるあの肥えた商人どもの慌てふためく顔を想像して笑みをこぼした。
事実無根の主張であった。しかし潔白を証明できる嫌疑でもなかった。フォルクネ市側から使者が送られて来て、以下のように弁明してきた。
「反乱軍の残党を排除し、この地に平和をもたらしたのは我々フォルクネ市民です。我々がジャミルを匿う理由などありません」
しかし、ユーカスはその主張を一蹴した。
「フォルクネ市がジャミルの反乱軍の前に簡単に門を開いたのは、最初からフォルクネ市が国王陛下への叛意を抱き、ジャミルを王に推戴しようと企てていたからである。しかし今、エダ山地の向こうで反乱軍は敗北し、その勢力は散り散りとなった。お前たちは情勢の変化を機敏に察知し、その残党を切り捨てることによって、犠牲者を装い反乱の罪から逃れようとしているのだ。しかし余の目はごまかせん。お前たちはジャミルを匿い、再起を図ろうと企てている。そうでなければジャミルがお前たちの街に戻る理由などないのだからな」
フォルクネ市の使者はこれに有効な反論をすることができず、悄然と街に戻った。その後ろ姿を思い返すだけでもユーカスは笑いが止まらなかった。
「順調ですかなユーカス様」
丘の下から声がした。見下ろすと背の低い男が馬から降り、こちらに向かって歩いてきていた。
「カザル殿か」
ユーカスは顔をしかめた。ユーカスにとって天佑とも呼べる情報をもたらした男であったが、ユーカス自身はこの種の男に嫌悪感があった。貴族と呼ぶよりも山賊の親分のような野卑な印象を与える男で、所詮は下級貴族の成り上がりものと内心に侮蔑していた。
「すでに矢倉は完成し河は封鎖されました。塹壕堀りも順調です。農奴七千人、休まず働かせております。あと一週間あれば包囲は完成いたしますでしょう」
口を閉じたユーカスに代わってパリシーナがカザルに答える。パリシーナは眼下の光景を指差し、その進捗状況をひとつずつ説明した。
フォルクネを降伏させるにはその補給を断たねばならない。フォルクネを支える物流の要は街の東側を流れるカラール河である。この河を船が往来できないように上流と下流、それぞれに太い鉄鎖が架けられ、その両岸に矢倉が築かれた。鉄鎖を切断しようと近付く船を射るためである。
また各門の周囲には敵の突出を防ぐための塹壕が掘られていた。掘り出した土は干した草と混ぜて突き固め、防塁に変える。要所には物見矢倉を置き、敵の動きを監視した。この工事に動員されたのがランカー家支配下の荘園で働く農奴である。
ランカー家は今回の戦争に、自家に仕える騎士五百、その従卒二千五百、傭兵二千、農兵七千の合計一万二千の兵を集めた。農兵とは農奴のことである。農奴は領主との契約により軍役の義務が課せられていた。この農奴は戦闘の訓練などまったく受けていないため、直接戦力とはなりえなかったが、このような包囲戦で必要となるのは戦闘力よりも労働力である。剣や槍の代わりに鋤や鍬を持って戦場に集められた農奴たちは塹壕堀りを命じられていた。
その作業する姿が丘の下でも見られる。丘の下の一帯は土木作業の場と化していた。盛り土は累々と並び、防塁造りの農奴たちが板を踏んで土を突き固めている。牛に挽かせた丸太を立てて物見矢倉を建てる作業も見受けられた。この土木作業に従事する農奴たちの後ろを歩兵の一隊が巡回している。敵の妨害から農奴たちの作業を守るためであるが、フォルクネは人口こそ多いものの、城壁外で戦闘ができるほど訓練された戦力はほとんどいないらしく、直接的な妨害行為はまったく仕掛けてこなかった。そのため歩兵たちは別のもうひとつの任務に従事していた。それは農奴の逃走と反乱を防ぐことである。過酷な労働は常に農奴の不満と叛意を生む。作業場の後方には有事に対応できるよう常に騎兵が待機し、農奴の動きに警戒を行っていた。
「しかし、この短期間でこれだけの人員を集めるとは。ランカー家の威勢はさすがですな」
パリシーナの説明を一通り受けたカザルは、大量の人間が動き回る眼下の光景を眺め、ユーカスに向かい笑いかけた。ユーカスはそれに答えなかったが、カザルは気にするふりもなくユーカスの横に並んだ。
「して、ユーカス様。例のお約束をお忘れなきよう」
眉を動かしたユーカスは横目にカザルを見た。黄ばんだ歯を見せ自分を見つめる男の視線にユーカスは内心に舌打ちをした。
「ジャミルの件か」
ジャミルの身柄を渡せば、この一件に関してカザルはユーカスにとって有利な内容の報告を国王ベルトランにする。それが約束だった。つまりジャミル捕縛の手柄をよこせというのである。最初、ユーカスはカザルの人品から、この提案に不快をあらわにしたが、パリシーナの説得にそのことを了承していた。
「国王陛下は貴族に厳しい態度を取ります。ランカー家の今後のためにも醜聞は入らないようにすることが肝要だと」
ユーカスはその言葉を思い返しながらパリシーナの顔を見た。その顔がうなずく。感情を抑え込んだユーカスはカザルに向き直った。
「わかっている。そのような確認など無用な心配だ」
この言葉にカザルはユーカスの前に跪き、胸に手を当て恭しく頭を下げた。
「ありがたきお言葉。ユーカス様の武功、心よりお祈りいたしております」
祝福の言葉を述べカザルが立ち去る。ユーカスはその姿を見送ることなく、すぐに踵を返した。
「卑しい男だ。世の中にはお前のような美しい人間が何故こうも少ないのであろうか」
ユーカスのその疑問にパリシーナはただ微笑を返すだけだった。