「不穏の街」7
「そいつは確かにジャミルと名乗ったのか?」
荘園からの食糧調達の任務を終えて帰還したローエンがその報告をすると、執務机に座るマルティン・マルコーの太い眉がわずかに上がった。そのぎょろりとした大きな黒目に見上げられたローエンは、自らの注意不足に恥ずかしさを覚え、つい頭を下げた。
「もっと怪しむべきでした。まさかこのような事態になるとは……」
ガラス窓から差し込む陽射しが、部屋の壁を飾る極彩色のタペストリーに白い斜光を浮かべている。ガラス窓は高価で普通の家には普及していないものだった。このガラスを商館の窓のすべてに使用できるのは、マルコー家がフォルクネの十大商家の一つに数えられるほどの富商であるからだった。この十大商家はフォルクネ市民議会を中心に市政機構のほとんどを独占しており、現在はランカー家側に付き、市を追放された三商家を除く七商家でフォルクネの市政は運営されていた。
このフォルクネ有数の大商家マルコー家の当主マルティンは、使用人ローエンの恐縮した態度に目を細めた。
「お前を責めている訳ではない。事態がこのような展開になると誰が想像できた?」
ローエンが首を振ると、マルティンはため息を漏らしながら、その大きな身体を椅子に預けた。
「まさか逃亡中の身のものが本名を名乗るとも思わんが……この状況では看過もできん。この街へ向かったことは確かなのだな?」
その太い眉と大きな目、張った頬骨に剛毅な印象と大商人の風格を漂わせるマルティンは、沈鬱を払うかのように頭を振った。そして顔を上げ、使用人ローエンの報告を再確認するように問いただした。
「はい、それは間違いなく。この街で紅沙を売ると言っておりました。積み荷が確かに紅沙であることも確認しております。紅沙の取引を調べれば、あるいはわかるはずかと」
ローエンの返答にマルティンは無言でうなずく。エダ街道の封鎖は解かれたばかりであり、カラで生産される紅沙はまだフォルクネに流通してはいなかった。つまり、もし紅沙が市場に出れば、それはローエンの会った男がフォルクネに訪れた可能性が高いということになる。
「……しかし、本当にジャミルがこの街に潜入しているとマルティン様はお思いなのですか?」
ジャミルは行商人の姿に変装しているとの情報だった。しかしローエンは自分の会ったあの行商人が、反乱軍の旗印となった偽王子だという考えるのには違和感があった。行商人を装っていると見るには、あまりにもその態度が商人として自然であったからである。長年マルコー家の使用人として働き、多くの人間と接してきたローエンには、人を見る目に関してそれなりの自負があった。
「それに、私が会った男はマルティン様がおっしゃるような女性を連れては……」
「昨晩、淑女通りの酒場で騒ぎが起きた。警邏の報告によると騒ぎを起こしたのはエーテル技術を使う金髪金目の美女だったとのことだ」
ローエンの言葉に割り入るようにマルティンが苦々しげに口を開いた。その発言の意味を察したローエンは表情を暗くした。
「では……」
「そう。昨日議会を訪問したウルバンという男の言っていた、ジャミルが連れているという女の容貌と一致する。お前の会った男と同一人物かはわからんが、ジャミルがこの街にいるということは確実なようだ……ランカー家の主張通りにな」
ジャミルの存在が問題となったのは一昨日のことだった。ランカー家が議会に衝撃的な内容の書簡を送り付けてきたのである。
『王国の忠実たる家臣、余、ユーカス・ランカーはその責務に従って、畏れ多くも偉大なる先君の遺児を騙り王国の秩序を乱すジャミルと、それを匿い栄光ある王国の秩序を乱さんとする反逆者の街フォルクネに対し、ここに制裁の義兵を挙げることを宣言する。汝らは速やかに汝らの罪を認め、秩序の代行者、余、ユーカス・ランカーの義挙の下に平伏せよ。さすれば余、ユーカス・ランカーは、寛大なる心もて汝らの愚挙に応えるであろう』
「我々が偽王子ジャミルを匿っているなど……とんだ濡れ衣だ!」
そう叫んだマルティンは、机を激しく叩き鳴らした。
ランカー家はフォルクネ市がジャミルを擁立し反乱を企てていると主張したのだ。反乱軍の残党を排除したのはフォルクネ市である。これは事実無根の主張だった。しかしこの主張が根拠のないものだと証明することは困難だった。ジャミルの居場所が判明しない以上、この状態を「匿っている」と呼称することは極めて容易であったからである。
思いがけない戦争の大義名分に議会は動揺した。ラーダの侵攻により、フォルクネに進駐してくるであろう王軍にランカー家の横暴を訴え出るという当初の目論見が破算し、次の手を模索している状態であったフォルクネにとって、このランカー家の打った一手は手痛い追撃となった。
そこに現れたのがワザン・オイガン率いる王軍から派遣されてきたという、モアレス子爵カザルの家臣を名乗ったこのウルバンという男である。この仮面を顔に張り付けたかのような表情の薄い男は、議場に入場するや開口一番にこう告げたのだ。
「速やかにジャミルの身柄を我々に引き渡しなさい」
フォルクネ市がジャミルを利用して反乱を企てているというのは、自らの契約不履行をごまかし我々を屈服させたいランカー家の作り話だと訴えると、このウルバンという男は無表情に断言した。
「この街にジャミルとその連れである女が向かったことは確実な事実です」
議場がざわめくと、ウルバンはその反応に満足するように薄い表情にわずかな笑みを浮かべ、議場の面々をゆっくりと眺めた。
「おそらく反乱軍の残党と連絡を取るためでしょう。ですが、カザル様は決して貴方がたをお疑いにはなられていません。むしろこの状況を嘆いておられる」
そこでウルバンは次の提案をしたのだった。
「戦いが決着を迎える前に疑いを晴らしなさい。そうすればワザン閣下の名代として我が主カザル・ドルトイル様がランカー家との仲裁の役を果たしてみせることでしょう」
この瞬間、ジャミルを王軍に引き渡してその仲裁を得ることが、フォルクネの破局を回避するための現状における唯一の方策となったのだった。
「お前が会った男とは別人かもしれんが、昨晩の事件でこの街にジャミルが潜入しているということほぼ間違いあるまい。ジャミルを捕え我々の潔白を証明し、ランカー家の主張が根拠のない言いがかりであることを示さねばならん」
ウルバンはジャミルに関する多くの情報と、ジャミルの顔を直接に見たという三名の兵士を残していった。これで無実の証を立ててみろということである。ウルバンが去った後、すぐさまジャミル捜索の部隊が編成され、今朝から活動を開始している。ローエンの報告はその中でもたらされた非常に重要な情報だった。
「その……カザルという男は信用できるのでしょうか?」
ローエンは気がかりな表情を浮かべて、マルティンに訊ねた。カザルという男の出現が、あまりにも間のよい話に思えたからである。これにマルティンは重い口調で答えた。
「懸念はもっともだが時間がないのだ。この街の食糧の備蓄などもって一月。その間にラーダと戦っている王が、こちらに関心を振り向けてくれるなどあまりにも虫がいい考えだ。実際カザルという奴が何者であろうと構いはしないのだ。王の権威でランカー家の横暴を黙らせられさえすればな」
そこで扉を叩く音が聴こえた。マルティンが入室を許可すると、扉が開くとともにうわずった声が部屋に飛び込んできた。
「マルティン様、議会からの緊急招集です! 至急、議場へ参集せよとのことです!」
額に汗を浮かべるその使用人の様子に、ローエンは恐れていた事態の到来を予想した。マルティンが使用人に訊ねる。
「議題は?」
「ランカー家の軍勢が動き始めたとのことです」
予想通りの返答にマルティンが椅子に深く身体を沈める。
「ついに来たか……」
ため息をひとつついたマルティンは身を起こして立ち上がると、鋭い口調でローエンに指示を与えた。
「ローエン、お前はジャミルの捜索に協力しろ。もしかすればお前が見た商人が本物のジャミルかもしれん。警邏のものにも話は通しておく。ウルバンの置いていった兵士たちとも情報を交換するように」
「心得ました」
使用人がマルティンの背中に外套をかける。
「さて……どう動くか」
ローエンは部屋を出る主人の大きな背中を見送ると、不安を払うように自らの仕事に向かい足を動かした。