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黄金の竜  作者: ラーさん
第二章「竜との旅」
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「不穏の街」6

「……ぷはぁ!」

 喉を鳴らしながらビールを一気に飲み干したアシュリーは、堪え切れないといった様子で息を吐いた。

「うーむ、この味、堪らんなぁ」

 木製のジョッキがカランと乾いた音を立てて卓に置かれる。卓上にはすでに空のジョッキが他に三つもある。そのすべてはアシュリーの席側に置かれていた。ジャミルの顔が苦いのは、決してこの苦味の効いたビールの味のせいだけではなかった。

「口ぐらい拭いたらどうだ?」

 アシュリーの口元には白い泡が髭のようについていた。ジャミルの指摘にそれを袖口で無造作に拭ったアシュリーは、朱の差した頬を緩ませてジャミルに向かい微笑んだ。

「むふふ……。人間の舌で味わう酒がこんなうまいものであるとはなぁ……」

 アシュリーはジョッキを逆さに傾け、底に残るビールのしずくを惜しむように舌に流す。

「この、なんだ? 頭を巡る高揚感というか、なんだ? これが酔うという感覚か? むふふ、いい感じだぁ……」

 目深にかぶった外套の陰に覗くアシュリーの金の瞳は、壁際のランプの灯りを映して、とろりとした鈍い輝きを揺らしている。

「この料理もうまいなぁ……。味気ない干し肉や乾パンなどとは雲泥の差だ」

 そう呟きながらアシュリーが料理に手を伸ばす。皿に山と盛られているのは、カラール河でよく捕れるギョルという小魚である。塩揉みしたギョルをキールという辛みの強い香草とともに酒蒸しにしたギョルの蒸し焼き(ギョル・ボヘル)という料理だった。アシュリーは皿からギョルを一匹つまむと、ぽいっと口にほうり込んだ。

「うん、うまい! この塩加減と魚の苦味にスッとくる辛味が交わって……実に酒によく合う。こういうものを味わえるとは、人間というのもなかなか悪くない……ん、酒がない! おい、そこの、もう一杯よこせ!」

 とろけるような表情でギョルをほお張るアシュリーは、空のジョッキを傾けたところで酒を飲み干していたことを思い出し、すぐに給仕を呼び止めて追加のビールを注文した。

「ほれ、早くせい! 早く!」

 給仕の女が左手に料理の皿、右手に四つものジョッキを持ち、狭い店内にひしめき合う卓の間を縫うようにまわっている。酒場の卓はほぼ満席で、注文が多く人手が足りていない様子だった。アシュリーは空のジョッキを高く掲げて呼ばわったが、給仕は別の卓に酒と料理を置いて厨房に引っ込んでしまう。

「むむぅー、この私を無視するとは!」

(誰が知るかよ……)

 アシュリーは卓を叩いて騒いだが、その声も酒場の喧騒にすぐに消されてしまう。カタカタと空のジョッキを鳴らしながら、ふくれっ面で給仕を目で追うアシュリーの姿に、ジャミルは思わずこめかみを押さえた。

(こいつ……酒は弱いな)

 一杯目を飲んだ時点でアシュリーの瞳は妖しい酔いの色を滲ませていた。その口数はジョッキを傾けるたびにだんだんと増えていき、その挙動はジョッキが空になるたびにどんどんと幼さを帯びていった。

(やっぱり無理矢理でも止めるべきだったか……)

 アシュリーというより、アセリナが酒に弱い体質だったのだろう。アセリナが酒を嗜まなかったのもうなずけた。

「酒ぇー」

 だが後悔は先に立たない。給仕の後ろ姿を見送って、卓に突っ伏し恨めしげな声を出すアシュリーの酔態を見ながら、これが伝説に名を残す竜の見せる姿なのかと、ジャミルはため息を漏らした。

「それくらいにしといたらどうだ?」

 どれほど恥ずかしい酔態を晒そうとアシュリーは強大な力を持つ竜である。すでに振る舞いに抑制が効いているとは思えないアシュリーが、これ以上酒を飲むことにジャミルは危険を感じていた。

「あにぃ?」

 しかしジャミルの忠告に顔を上げたアシュリーの目は完全に据わっていた。

「いや、だいぶ酔ってきているようだから」

「あにぃ?」

 睨む。

 その眼光の鋭さにジャミルがたじろぐと、その視線を遮るように横からジョッキが現れた。

「はい、追加のビールです!」

「おお、おお、来た来た!」

 どんっ、と卓を揺らして置かれたジョッキをすぐさま掴んだアシュリーは、迷いなくビールを一気にあおった。

「……ぷはぁ!」

 アシュリーが気持ちよさそうに息を吐く。ジャミルは頭を抱えて横を向き、もう何も言わなかった。

 ジャミルはアシュリーから気を逸らすように店内に目を移す。

 むき出しの梁が低い天井の縦横に走る店内は、甘い酒と香ばしい料理の匂いに、人間の汗と照明(ランプ)の獣脂が燃える()えた臭いが掻き混ざり、むせかえるような臭気で満ちていた。

(しかし……意外に繁盛しているな)

 食糧不安が街を覆っているにもかかわらず酒場に客は多かった。店のほとんどの席が埋まり喧騒は絶え間ない。酒場は途切れることなく生み出される音と音とに声と声とが重なり合い、混沌とした噪音(そうおん)で溢れていた。だが、酒を飲んで騒ぐ客たちの表情は決して明るく浮かれたものに見えなかった。

(酒で不安を晴らしているんだな……。これだけの食事と酒が出てくるのも住民の不安をなだめるのが目的か)

 淑女(ラファーナ)通りの多くの店がいつもと変わらずに開いているのは、おそらくフォルクネ市の支援によるものだろう。酒場での飲食が普段通りに行えれば街に充満する食糧不安の払拭につながる。議会が住民の不安を抑えるために行っている施策のひとつと考えるのが妥当であった。

(預かり棚に剣が多いところを見ると、傭兵や自警団のような連中も多そうだな……。歓楽街が機能すれば兵士の慰安にもなるからな)

 店の入り口の脇には酔客による刃傷沙汰を防ぐため、武器を預かる棚が設けられている。その棚が埋まっているということは武器を持ち歩く職業の客が多いということである。実際に隣の席には屈強な体格の男たちが座っていた。野卑な印象を与える手入れもされずに伸びた髭は、いかにも傭兵といった面構えである。戦争が近づき神経を尖らせている兵士を暴力に走らせずに慰撫するには、酒と女を提供する歓楽街の存在は欠かせぬものであった。

(戦争が始まる前に、親父と妹の消息だけでも掴めるだろうか……)

 その不安を払うようにジャミルはビールを一飲みした。戦いは確実に迫っている。その緊張は酒場にいても感じられるものであった。


  ――酒場に入れば心配事などありゃしない


 ジャミルがジョッキをから口を離したとき、その歌声が聴こえてきた。


  ここじゃ皆が身分の差もなく酒を飲み、死ぬことすら恐れやしない

  まずは自由に乾杯だ

  次には酒も飲めずに縛られた哀れな奴らに

  最後は人生に乾杯!


 前に向き直ったジャミルが見たのは、陽気な声で歌いながら、やおらに立ち上がったアシュリーの姿だった。

「お、おい!」

 ジャミルが制止するのも聞かず、アシュリーはふらふらとした足取りで隣の席へと近寄っていく。突然の歌声に何事かと何人かの客がこちらに目を向けたが、そんな視線に気付かないのかアシュリーは、隣の席で飲んでいた髭面の男の肩に無遠慮に手を回した。


  他にもあの人この人あれやこれ

  王様だって奴隷と肩を組んで酒を飲む


 酒に酔っても澱みないアシュリーの歌声が店内に透き通り、酒場の喧騒が一瞬にして鎮まった。


  主婦に亭主にのろまにせっかち

  子供も年寄りもあんたらもあいつらも

  皆が皆して酒を飲む


 肩を組まれた髭面の男がアシュリーに引っ張られて立ち上がる。アシュリーは戸惑う男に優しく笑いかけると、男が手に持つジョッキを奪い取り、一息に飲み干した。


  限界なんてありゃしない

  死ぬほど飲んで貧乏になるまで飲んで

  すまし顔の阿呆どもを笑うのだ!

  万歳、万歳、ああ愉快だ――!


「あっ」

 ジャミルが思わず声を出したのは、干したジョッキを高く掲げアシュリーが歌い切ったときだった。酒をあおるのに大きく後ろに傾けた首が元の位置に戻る動きで、被っていた外套が外れたのだ。


 艶やかな金の髪が勢いよく広がった。


 酒場に息を呑む気配が伝わる。酒気を帯びた桃色の肌がランプの揺れる灯りに照らされ妖しく薫り、露に濡れた金杯の如き酔眼が周囲の静寂を睥睨(へいげい)する。

 その数瞬の沈黙にアシュリーの眉はムッと寄り、瞳に不快の色を浮かばせた。

「なんだ貴様ら、木偶(でく)の棒でもあるまいに拍手のひとつもできんのか!」

 周囲の無反応を罵ったアシュリーは、肩を組んでいた髭面の男を突き離して席に戻ろうとした。しかしその身体は途中で引き戻された。男がアシュリーの腕を掴んだのだ。

「おい、姉ちゃん。他人の酒を勝手に飲んどいて『はい、さよなら』とはあんまりじゃないか?」

 男はアシュリーを引き寄せて、赤ら顔でアシュリーの顔を()め上げる。これはまずいと思ったジャミルが割って入ろうと立ち上がったとき、アシュリーは冷ややかな声とともにジャミルの血の気を引かせる恐ろしいことをしてのけたのだった。

「ふん、木偶の棒である訳だ。下賤な輩め。こんな股間の棒だけ立派に反応……させおって」

 アシュリーは言葉の途中で、男の股間を思い切りに蹴り飛ばした。


「――っ!」


 声にならない声を上げ、男が股間を押さえて地面に倒れ悶絶する。

「女っ!」

 男の仲間たちが色めき立つ。しかしアシュリーは余裕の表情を浮かべ、悠然とした動作で手を前にかざした。

「ほほーう、やるか? では楽しませてみるがいい」

 七色の演算の帯がアシュリーの手を包むように展開される。その光景に男たちは後ずさった。

「こ、こいつ、魔法使いか!」

 特権階級の独占物であるエーテル技術は、戦場でもなければ庶民の目に触れることなど滅多にないものだった。その技術は魔法や魔術と呼ばれ、多くの人々には原理不明の超常現象として畏れられていた。少なくともこのような酒場のいざこざで目にするようなものではなく、男たちは驚きに身を竦ませ、じりじりと足を後ろに下げていった。

 七色の文字の帯はその色を次第に黄色に変えていく。演算の回転はさらに加速し、今にもちぎれんばかりである。

「アシュリー!」

 駆け出したジャミルがアシュリーを止めようと手を伸ばす。だがその手が届く前にアシュリーはニヤリと微笑んだ。

 惨劇への間隙。

 心臓が縮み切れるような緊張は、しかし次の瞬間に急激に弛緩した。


「ふにゅうー」


 回転していた演算が弾けて消えるのと同時に、アシュリーがマヌケな声を出してジャミルの腕に倒れ込んできたのだ。

 焦点のぼやけた酔った目がジャミルの顔を映している。

 この瞬間、ジャミルは昨晩のアシュリーとの会話を思い出した。長時間の演算は脳に疲労を与えて効果を持続できないという。酒に酔った頭でまともな計算などできる訳がない。つまり今のアシュリーは演算の使えないただの女に過ぎなかった。


「――こぉんの馬鹿!」


 怒りとも呆れともつかない叫び声を上げたジャミルは、アシュリーの身体を横抱きに持ち上げると店の外へ向かって走り出した。

「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは――!」

 アシュリーが腕の中で足をばたつかせて抗議するが、ジャミルは意にも介さず駆けていく。この騒ぎに外からも人が集まって店の入り口から中を覗いていた。この野次馬たちを押しのけてジャミルは酒場の外に飛び出す。十ムルーナほど駆けて後ろを振り向くと、あの髭面の男とその仲間たちも野次馬を掻き分けて店外に出てきた。その手には白刃がきらめいている。

「こっち!」

 そのとき横合いから聞き覚えのある声がした。脇を小さな人影が走り抜けると、ジャミルの服裾が掴まれ路地へと引っ張られた。月の明かりしかない狭く細い路地は複雑に入り組んでいる。自分を誘導しながらその道を迷うことなく走る小さな影の後ろ姿を、ジャミルは湧き上がる興奮を押さえながら見つめ続けた。

 

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