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黄金の竜  作者: ラーさん
第二章「竜との旅」
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「不穏の街」4

「くそ忌ま忌ましい奴らめ!」

 フォルクネ市民議会との交渉から居城に戻ったユーカスは、自室に入ると激しく椅子を蹴り飛ばした。椅子は音を立てて倒れ、背もたれを飾る彫刻が木片となって跳ね飛んだ。白絹のシャツの上に着流した、金糸の縫い取りの鮮やかな緋色のサテンの上衣が右肩からずれ落ちる。ユーカスはその優美な装いが乱れるのも厭わず、息が切れるまで倒れた椅子を蹴り続けた。

「戦の準備は進めたか!」

「進めてはおりますが……」

 肩で息をするユーカスは、部屋の入口に控えている初老の男、家宰(かさい)のバートンに荒い声で訊ねた。しかしバートンの答えは歯切れの悪いものだった。

「なんだバートン。不服な顔だな。何か問題でもあるのか?」

 ユーカスがバートンを睨みつける。怒気に充血したその赤い目にバートンがわずかに首を引く。

「いえ、準備は順調に進んでおります。ただ……」

「はっきりと言えバートン。私をこれ以上苛立たせるな」

 それでも言い淀むバートンに、ユーカスは額に太い青筋を浮かべた。バートンが意を決したように口を開く。

「口実がこざいませぬ」

「口実だと!」

 目を見開いたユーカスは泡を飛ばして吐き捨てた。

「領民の分際で領主に逆らったのだぞ! 理由などそれで十分ではないか!」

 ユーカスが再び椅子を蹴り飛ばすと、鈍い音とともに椅子の脚が折れ部屋の隅まで転がった。

 ユーカスを激昂させたのはフォルクネの市民議会だった。彼らは契約履行違反を理由にランカー家の領主権の無効を主張してきたのだ。

「ユーカス様のおっしゃることはごもっともでございます。しかし王の法廷に訴状を持ち込まれましたらこちらが不利でございます」

 それは正論であった。領主と都市との契約内容を保証するのは王であり、契約の不履行となれば当然のこととして王に訴え出ることができた。ユーカスは一瞬声を詰まらせたが、すぐにバートンの言葉を退けるように大きく右手を払った。

「だからこそ王軍が東に去り、王の意識がラーダの蛮族どもに向いているこのときに、思い知らせてやるのではないか! 反逆者どもなど全員縛り首にしてやればいい。そうすればいったい誰が王に訴状を出すというのだ?」

 ユーカスの若く端正な顔が怒りに歪む。ランカー家の当主ユーカスは背の高い美丈夫だった。透けるような白い肌に高い鼻梁と細く尖った顎、柔らかい光沢の栗色の髪を持つユーカスの容貌は貴族の高潔さを帯びていた。その手足の洗練された所作は怒りに荒げても隠れることなく貴人の気品を漂わせる。

 しかし、その薄い唇に見えるのは、血の通わない冷えた酷薄の色だった。

「ですがフォルクネの城壁は堅牢です。包囲が長引く可能性が……」

「つまらない憂慮ですわね、バートン」

 バートンは主人の勘気を押しとどめるように懸念を連ねたが、その言葉は不意に飛んだ女性の声に横から遮られた。

「おお、パリシーナ」

「これは奥様」

 火の燃えるような赤い髪が揺れた。束ねられることなく流された豊かな髪の波打ちに真珠を散りばめた金の髪飾りが、その足取りに合わせて輝きをきらめかせる。この朱のように鮮やかな赤毛の合間に浮かぶのは、純白の肌を染める頬紅の色に若さを、凛とした眉と引き締まった唇に高貴さを薫らせる、美しい淑女の顔だった。

「バートン。貴方はそのようなつまらない理由で、ランカー家へのこのような侮辱を見過ごすというのですか?」

 奥の間から現れたのはユーカスの妻パリシーナだった。白いレースで胸や袖を飾った緑のドレスを着た彼女は、朱鳥(しゅちょう)の羽扇で口もとを覆いながら、バートンを優しい声音で問いただした。

「奥様、私にそのような思いは決してありません。しかしこの場での戦いがランカー家の名誉にさらなる傷を付けることを懸念するのでございます」

 夫の横に並んだ奥方にバートンは恭しく頭を垂れて弁解する。しかしこの若い奥方はバートンに頭を上げるよう羽扇を上下に揺らしてうながすと、この老年に差しかかった家宰に向かい、諭すようにして語りかけた。

「ランカー家の忠実なる下僕(しもべ)のバートン。その言葉が貴方の衷心(ちゅうしん)からのものであることはわかっています。ですがバートン、貴方の懸念は杞憂です。あれほどの人口を抱える街が、この短期間にどれほどの糧秣を蓄えられるとお思いですか?」

「その通りだ!」

 バートンがパリシーナに返事をする前に、ユーカスが我が意を得たと言わんばかりに大声を張り上げた。

「ああパリシーナ、私は賢き妻を得た。反乱軍に占領されていた街だ。おそらく食糧の蓄えなどたかが知れよう。封鎖さえしてしまえば一月と持つまい。むしろ時間を与えればあの街は防備を固め、ますますにつけあがるだろう。つまり屈服させるには、今が最大の機会だということだ」

 握りこぶしを胸元に上げてユーカスは自らの言葉に強くうなずいた。パリシーナは夫を支えるようにその腕に触れる。

「その通りですわ、私の賢明なる夫、ユーカス様。つまり速やかに戦いを済ませ、新たに契約を結ばせればよいこと。そうすれば王の介入を受ける理由などなくなりますわ。彼らに自身の過ちのほどを教えて差し上げましょう」

 パリシーナは顎を伸ばし夫の耳に近く囁きかけた。ユーカスがパリシーナに顔を向ける。パリシーナのこの言葉をユーカスは福音のように聴いていた。

(そうだ。奴らをねじ伏せて臣従の契約を結ばせれば王といえども文句は言えんはずだ。……なによりこの汚辱をすすがねばならん!)

 ユーカスは市民議会との交渉の席で自身の受けた屈辱を思い返した。肥え太った議会代表どもの蔑んだ目。領主への敬意なき態度にその権利の否定。誰の与えた権利によって富を得たのかを忘れた、高慢に増長した忘恩の市民の姿にユーカスの怒りは燃え上り、その頬を赤く上気させた。

 ユーカスは彼らの顔が冷えて固まるさまを想像した。それは必ず為されなければならない、確信の光景だった。

「おっしゃることもっともでございます。王家に対してはこれで対処できましょう。このことに気付かなかったのは私の不明の致すところでございます」

 バートンの謝辞を聞き、ユーカスはその薄い唇に笑みを浮かべる。しかしその笑みは形を結ぶ前に、すぐに続いたバートンの苦言によって掻き消された。

「ですが口うるさい世人を黙らせるだけの名分がございませぬ。私はランカー家の名誉をいたずらに傷付けたくなく、このようなユーカス様の不興を買うことも敢えて述べるのでございます」

「何故だ。領主に逆らう領民を懲罰する。立派な名分ではないか」

 眉を歪めてユーカスはバートンを睨みつけた。戦いは短期に終わる。王の介入は心配に値しない。これでまだ何か問題があるのか。ユーカスの問い詰めるような眼光にバートンは逡巡を浮かべたが、やがて重く口を開いた。

「申し上げにくいことではございますが……下々はご当主を『敵とは戦えないが、領民とは戦える領主』などと誹謗いたしております」

「なんだと!」

 忌々しいフォルクネ市民のみではない自らを侮辱する言葉の存在に、ユーカスは怒りと驚きの奮えに卒倒せんばかりの目まいに襲われた。ユーカスの身体が傾ぐ。その崩れる身体をパリシーナが支えた。

「落ち着きになってユーカス様。所詮は下賤なものたちの口さがない言葉でございますわ」

 ユーカスをなだめるパリシーナは厳しい目をバートンに向け、叱責を加えた。

「バートン。名分が不十分であるというのなら、主人のために十分な名分を考えるのが貴方の仕事でしょう。それは自らの力不足と知りなさい」

 バートンがかしこまって頭を下げる。しかし、パリシーナはそれ以上の譴責(けんせき)を与えず、むしろ表情を緩めた。

「ですが、今回は私が助けを与えて差し上げましょう。ユーカス様、実は客人がいらしております。私がこちらに来たのはそのためでございます」

「客人?」

 パリシーナは微笑みを浮かべながらユーカスに告げる。

「モアレスの子爵カザルと名乗っております。ワザン閣下の王軍より参られたとのことです。……実に面白い話を持っておりますのよ。是非ともお会いになられてください」

「王軍?」

 王の介入を受ける前に事を済ませるよう意見した妻が、王軍の者との面会を勧めてくる。その不可解さにユーカスはバートンの顔を見たが、バートンも困惑にただ首を振るだけだった。

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