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黄金の竜  作者: ラーさん
第二章「竜との旅」
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「美しき残酷の主」7

 ジャミルの呟きが聞こえたのは、アシュリーが自分の指先に不快な痺れを覚えたときだった。

「これは……毒か?」

 ジャミルの身体がゆらりと傾ぎ、手綱を持つ手が徐々に緩んでいく。膝の力が抜けたアシュリーは馬車の揺れに耐えられず荷台に腰から転がった。馬も喘ぐように首を下げ、ゆっくりとその脚を落とし始めた。荒く吐く息は浅く早い。そしてついに馬が脚を止めた。

 アシュリーの見開かれた目が爛々と輝いている。

 馬車が完全に静止すると飛ぶ矢も絶えた。静けさが辺りを満たす。そこに馬蹄が遠く聴こえた。後方から騎馬が三騎、こちらへ向かって走って来ているのが見えた。敵はこちらを生け捕りにするつもりらしい。

 アシュリーの薄く開いた唇から絡むような熱を持つ息が漏れている。

 ジャミルの呟きを聞いた瞬間にアシュリーは事態のすべてを理解した。そしてそれと同時に髪が逆立たんばかりの憤怒が身体の芯から脳天へと衝き上げたのだ。

(下種どもが!)

 風に紛れて飛ぶ毒の存在に気付かなかったのは、アシュリーの完全なる不覚であった。しかしこのこざかしい敵の術策と、その思惑にまんまとはまった自分への苛立ち以上にアシュリーの心中に忿々(ふんぷん)たる怒気を湧き上がらせたのは、このような屈辱の事態を自分に強いたジャミルのつまらない意地だった。

 毒の存在に気付いた時点でアシュリーはすぐに演算で口と鼻を覆っていた。それは毒を濾過(ろか)する演算だった。さらに糸のように細い演算を作って肺へと走らせる。肺に入った汚染された空気を取り換えるためである。血中にまで入り込んだ毒は抜けないが、これでこれ以上の毒の浸透は防げるはずだった。膝に力は入らないがまだ身動きのとれないほどの痺れはない。アシュリーは毒を除去しながら指先に力を入れ、自分の身体がどこまで動くか確認した。

(風……?)

 そのときアシュリーの金の髪がなびいた。一陣の風が演算とともに走り抜けて砂塵を巻き上げ空へ飛んだ。風が辺りを払うとそれに替わるように馬蹄の近づきが大きくなる。こちらに接近できるように敵が毒を払ったのだ。

「気ぜわしい奴らめ……」

 アシュリーの怒りに歪んだ表情はそこで残忍な笑みへと変貌した。殺戮の妄想が燃えるような憤激を凍てつく復讐へと変化させる。アシュリーはそこで半身を起こすと、こちらへ駆け寄る騎馬に向けて大声とともに大きく腕を振りかざした。


「やってくれたなクズどもめっ!」


 億万の文字が千万の色の帯となって瞬時に空間を埋め尽くした。巨大な演算は地を走り空を覆う。その美しくも驚愕の光景に近付く騎馬の脚が止まった。


「下賤な輩にふさわしい最後を与えてやろう……」


 優婉(ゆうえん)と呟かれたその声は、小さくも確実な響きとなってこの演算の空間に居るすべてのものの耳に聴こえた。アシュリーの声は美しき邪気を帯び、その声を聴いたものを陶然とした恐怖に竦ませて、周囲を時間が止まったかのような静寂に沈めた。

 演算の色の不規則な明滅が次第にリズムを整え始める。色は徐々に寒色を失い暖色へと変わり、そして血にも似た朱色へと鮮やかさを増していく。どこからか甘い匂いが漂い出した。

 それは毒の術式だった。式は空気中や土中の成分を次々と分解し、その組成に必要な物質を作り上げていく。そして素材が集まり、最後の合成の演算にアシュリーが式を進める。


 その直前にアシュリーの服裾が引かれた。

 

 アシュリーを睨む目がある。全身を襲う痺れに脂汗を流すその顔は、息も絶え絶えに唇を震えさせるその顔は、しかし断固たる意志で(つよ)くアシュリーを睨んでいた。

 その射抜くような目を真っ直ぐに見返したアシュリーは、目を開き、そして細め、やがて口端をわずかに歪めた。

 そして上げた腕をゆっくりと下ろしていった。






 カザルはそこで恐怖の光景を見た。

 栄冠はそこにあったはずだった。手の届く場所にまで、それは近付いていたはずだった。


「やってくれたなクズどもめっ!」


 あの金髪の女が動いた。その声が鋭く峡谷に響く。胸を驚かせたカザルだったが、しかしその直後、それ以上に驚くべき光景がその視界を覆い尽くしたのだ。

「ば、ばかな……!」

 周囲は演算の海だった。華麗なる禍々しさで渦を巻く、虹色の蛇の如き演算の帯が見渡す限りの空間に溢れたのだ。

 

「下賤な輩にふさわしい最後を与えてやろう……」


 どこからとなく届いたその声は優しく囁かれた。それは慈雨が土打つ如き柔らかな響きを持ちながら、氷雨のように身体の芯に突き刺さる鋭い冷たさでカザルの肌を逆立たせた。

 本能が警告する。

 絶対的だった。

 逃げるべきだった。

 しかしこの甘やかに心に沁み絡む恐怖に魅了された身体は、逃げるどころか声のひとつも出すことを許さなかった。

 光景が回転する。演算は高速で乱れ飛び、その彩りは徐々に赤く、やがて血よりも鮮やかに光り舞う。

 そして鼻先に甘たるい香りが流れたときだった。


 演算が消えた。


 毒々しい赤さに乱れ飛んだ演算は嘘のように雲散し、わずかな谷風だけが静寂に残った。

 カザルは周囲に充満していた殺意が消えたことを感じた。

 緊迫を失った空気が空白となって浮いている。

「なんだ……?」

 漏れ出た言葉を自分の耳が聴く前に、地面が大きく揺れた。






 ジャミルが薄らぐ意識の中で見たのは、アシュリーが演算で崖を崩落させ街道を塞いでいく光景だった。

 地鳴りとともに崩れる大岩は誰も巻き込むことなく、こちらと敵の間隙を埋めていく。

 ジャミルはその様子を眺めながらかすかに笑い、そして眠った。






 馬車が去っていく。

 道は完全に塞がっていた。崖下の街道はもとよりシムスのいる分道も崩れ落ち、先には一歩も進めなかった。

「くそっ!」

 ジャミルを乗せた馬車が去りゆく姿を呆然と見送る兵士たちの間に、先ほどの恐怖などもう忘れたかのように地団太を踏むカザルの足音だけが虚しく響いた。

 カザルを除き大半の兵士が生存の安堵に虚脱状態である中、シムスは別の感情を胸に遠ざかる馬車を見ていた。

 自分が密告したにもかかわらず、彼女が捕まらずに済んだことに安堵している自分がいる。

 シムスの胸にはあの残酷な美しさで微笑む彼女の姿が焼き付いていた。

 それは刺さるような鋭い熱でシムスの胸を焦がしている。

 シムスはアシュリーと名乗ったあの女性が自分を助け起こしたときに掴んだ手を握り締めながら、馬車が去るのを見続けた。






 アシュリーは膝にジャミルを寝かせ、毒を抜く処置をしながらその寝顔を眺めていた。

 馬車の歩みとともに揺れる蒼白の顔は、しかし正しい寝息で穏やかな表情を見せている。

 アシュリーはその顔を興味深げに見つめる。

「ここまでされて、まだ止めるのか……」

 血のない頬の冷たさに触れ、その弱々しさを撫でるアシュリーは、その顔に何故か高貴の影を感じていた。高いとはいえない鼻梁も、端麗とは呼べない顎の線も、無粋に伸び散った髭も関係のない、身分ではない人の貴賤がそこに眠っているかのようにアシュリーには思えた。

「……面白い」

 金の髪がさらさらと流れた。水の匂いを乗せた谷川の清々とした風にアシュリーが顔を上げる。

 目元に掛かる髪を払うと、澄んだ笑みがそこにあった。

 馬車は揺れる。

 フォルクネへの道が長く先に伸びている。

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