「美しき残酷の主」4
「あぐぅ!」
まさか背後から押し倒されるとは思っていなかったアシュリーは、手を付く暇もなくしたたかに顎を地面に打ち付けた。
バラバラと氷の落ちる音が響く。転倒の衝撃に演算が途切れたのだ。逆巻いていた演算の風は止み、広場には時間の止まったような静けさが残った。
アシュリーはしばらく倒れた姿勢のまま固まっていたが、やがて身体をぷるぷると震えさせ始めた。そしてガバッと上半身を跳ね上げると、自分の上に覆いかぶさるジャミルに向かい罵声を浴びせ掛けた。
「なにをするかっ!」
まさか護ってやっている人間にこんな邪魔をされるなど思ってもいなかったアシュリーは、怒り心頭に噛み付かんばかりの勢いでジャミルを睨み付けた。
しかしそれを迎えたのは凍るように冷たく低い声だった。
「やめろ」
自分を睨み返すジャミルの有無を言わさぬ冷厳とした視線の強さに、怒りの矛先を鈍らされたアシュリーは思わず二の句を飲み込んだ。
ジャミルは憤っていた。
(――ふざけるな)
氷刃舞う風の渦を前に、死の恐怖にさらされた人々の顔を見たとき、ジャミルの中に勃然と湧き上がった感情は怒りだった。
まさに遊びだった。
力の差は歴然としていた。演算がひとつ地面を走っただけで、敵兵の三分の二が地面に倒れたのだ。そして何事が起きたかもわからず、凍り付いた足を抱え悲鳴を上げる彼等の前に次に現れたのは、無慈悲に吹き荒れる氷の嵐だった。
「生きたままなますになるのも面白いぞ」
恐怖に凍り付く人々の表情を愉しむように、弱者への嘲りを浮かべたアシュリーを見た瞬間、ジャミルはこの怒りの感情に突き上げられたのだ。
「やめろっ!」
それは理不尽に対する怒りだった。
理解もできない存在に生死を弄ばれ、自らの意志と無縁の存在に人生を蹂躙される。
暴風に翻弄される小舟のような命。
それは自分の姿見だった。
王位を巡る争いなど、もともとジャミルにとって直接関係のある話ではなかった。
エルナンの出現、人質となった家族、出生の秘密、戦争と敗北、敗走の先に生死を彷徨う怪我を負い、アセリナと出会い、別れ、そして竜との出会い。
ここまでにジャミルのいかなる意志の反映もなかった。ただ他者の思惑と争いに流され、無力に這い生きるのみだった。
唯一に示したアセリナを守ろうという意志も果たせず、逆に彼女が守ってきた竜の封印を解くことになってしまった。
そしてその意志すら継げずに、この惨劇である。
理不尽だった。
無力だった。
自分の無力さと理不尽を生み出すすべてのものへの憤りがジャミルの心中に溢れていた。そしてそれをただどうしようもないことだと嘆くことに、ジャミルはもう耐えられなかった。
ジャミルのこの迫力に気圧されたかのようにアシュリーが口をつぐむ。
「なんなんだ、お前は」
ジャミルはアシュリーの胸倉を乱暴に掴み上げると、自分の顔前へと引き寄せた。
「お前はいったい何様なんだっ」
もともとジャミルはアシュリーをこころよく思ってはいなかった。今まではアセリナへの心情とアシュリーの性格がそうさせているものと思っていたが、それだけが原因ではないことにここで気付いた。
ジャミルの言葉をアシュリーは鼻で笑った。そして傲然と顎を上げ当然のことのように次の言葉を返した。
「私は竜に決まっているだろう。人の尺度など私には無縁なものだ」
理不尽なのだ。竜という存在が。
圧倒的であるが故に、あらゆるものと無縁でありながら、あらゆるものに関与できる存在。
他者を助けることも気まぐれならば、命を奪うことも気まぐれになす。
生殺与奪も遊びの内。
「竜のくせにこんなやり方しかできないのか」
アシュリーが手加減をしていることはジャミルにもわかった。本気になれば彼等を一瞬で全滅させる力を持っていることは知っている。だからこそ恐怖を煽るようになぶっているのだ。それがジャミルには決定的に許せないことであった。
「なんだその言い方は」
アシュリーの眉がピクリと動いた。顎を引きジャミルを睨む。しかし、怒気をはらみ赤味を帯びたその金色の瞳を、ジャミルは真っ向から見返した。
「竜のくせに大人が子供をいたぶるような、こんな下卑た振る舞いしかできないのかと言っているんだ」
目を見開いたアシュリーは耳に聞こえるほどに奥歯を噛み鳴らすと、震える手を伸ばし自分の胸倉を掴むジャミルの腕を握った。爪が立ち腕に喰いこむ。痛みが走ったが、アシュリーを見据えるジャミルの表情は揺るがなかった。そして額が触れるほどにさらに顔を近付け、ジャミルは叫んだ。
「できないのか!」
「できない訳がないだろう!」
アシュリーはジャミルの手を振りほどいて立ち上がると、事態を注視していた敵に向かい演算の玉を放った。空を飛んだ演算は広場の中心で弾けると、小さな演算に姿を変えて波状に敵兵へと降り注いだ。演算が過ぎると空気が波紋のように震えたのが見えた。そして立っていたものは膝突き傾いで、倒れていたものは頭を抱えて呻き声を上げた。
「何をした?」
「ふん、安心しろ。空気を揺さぶって平衡感覚を狂わせただけだ。すぐに回復する」
憤然とジャミルを見下ろすアシュリーは苦々しげにそう説明した。ジャミルが安堵の息を漏らす。
「やればできるじゃないか」
「貴様が何様だっ! さっき哀願の命乞いをして、私に対する無礼を謝罪したばかりだというのに、なんなのだその態度は。こっちが危害を加えられないからといっていい気になりおって……」
ジャミルは立ち上がると、唾を飛ばして激しく噛みつくアシュリーを相手にせずに、紅沙の入った麻袋を抱えて広場の隅に置かれていた馬車へと駆け寄った。
「うまい具合に食糧なんかも積んであるな……。アシュリー、これで逃げるぞ!」
麻袋を荷台に放り込み御者台に飛び乗ったジャミルは、腕を振ってアシュリーを呼んだ。
「ええい、糞忌々しい。アセリナとの約束がなければ貴様などフンコロガシの糞のようにグネグネにこねまわして蹴飛ばしてやるというのにっ!」
悪罵を吐きながらアシュリーも馬車の荷台に飛び乗る。
「乗ったな? よしっ!」
荷台の揺れにアシュリーが乗ったことを確認したジャミルは、大きく手綱を振った。