「美しき残酷の主」3
「よい眺めだなぁ、ジャミルくん」
青い顔でアシュリーの身体にしがみつくジャミルには、それに返答する余裕などまったくなかった。
周囲には噴き上がった炎の破片が火の粉となって舞っていた。眼下には大きな穴の空いた商館の赤屋根が見える。風の音が耳に近く吹き、下から届く人々の騒然とした声がひどく遠くに聞こえた。
二人は宙に浮いていた。
足元に白い演算の帯が渦を巻いて展開し、アシュリーはそこに足をつけて空に立っているのだ。この演算の足場の感触はジャミルの足にもあったが、ふわふわと柔らかくなんとも頼りない。なにより地面の透けている足場など、どう信用すればよいのだろうか。そのためジャミルは紅沙の入った麻袋を腹に抱えながら、へたり腰にアシュリーの足にしがみつくという恥ずかしい姿勢を強いられていた。
ジャミルを屈服させたアシュリーは、頭上に大きな演算を描くとそこから巨大な火柱を吹き上げて天井をぶち抜いた。そして同時にその穴から、この不可解な演算の足場に乗って火柱とともに屋根の上へと出てきたのである。
「なかなかの演出であったろう? さて、観客は十分だな。では舞台へと向かうとするか」
そうアシュリーが言うと演算の足場がゆっくりと広場に降りていく。ジャミルは慌てた。
「お、おい! この足場、自由に動かせるならこのまま逃げてくれよ」
「逃げる? 私は遊ぶと言ったはずだぞ。それも派手にな」
アシュリーは白い歯を見せニンマリと笑う。ジャミルは自分の血の気が引く音を聞いた。その青い顔をアシュリーは満足げに見下ろす。
「ふふふ、かわいい顔をしてくれるな、ジャミルくん。ますますやる気がそそられるな」
そしてアシュリーは広場に降り立った。渦状の白い演算の足場が地面に溶けると、アシュリーの陽の色にきらめく髪がふわりと広がって、さらりと落ちた。足に伝わる石畳の固い感触に安堵したジャミルは若干の余裕を取り戻したが、微風にそよぐアシュリーの金糸の髪からかいま見た光景に、戻ってきたばかりの余裕はすぐに失われる。
「動くな!」
矢じりのギラリとした白い光が目に入った。
上から見たときの広場の騒然とした混乱も落ち着いたのか、敵兵は陣を作りこちらを完全に取り囲んでいた。二人を囲む敵兵は十数の弓でこちらを狙い、同じく十数の長槍の穂先をこちらに向けて牽制している。
「お、おい!」
ジャミルは思わず上ずった声を出してアシュリーを見上げ、そして唖然とした。
「……ほう、これは面白いな」
アシュリーは包囲する敵になんと背を向け、ジャミルの後ろにある石造りの建物を見上げていたのだ。その目は壁面に刻まれたレリーフを食い入るように見つめている。それは七賢者を奉じる聖堂であり、そのレリーフは七賢者の筆頭、勇敢なるフォロクレスのものだった。
竜を封印し人の歴史の創始者となった七賢者は、それぞれに従う人々を七の氏族と四十九の支族に分けて世界中に散りばめた。これら氏族は七賢者の去った後にそれぞれの氏族を率いた賢者を神格化し、聖堂を築いて信仰の対象としたのである。こうした聖堂は街はもとより小さな村落にも建てられ、人々の心の拠りどころとなっていた。
「これはフォロクレス、この仏頂面はエパミノンダスか。あれは……デマデスにフリュネか。ふん、これなら私の方が美しいではないか」
筋骨たくましい紅毛の男性像に見目麗しい痩身の女性像が寄り添っている。熱情のデマデスと秀麗なるフリュネである。この二人の賢者は夫婦でもあった。本来ならクレルモン王国の支配地域は勇敢なるフォロクレスが率いたフォロン族とその支族が中心に居住した地域であるため、フォロクレスのみを祀る聖堂であるべきなのだが、実際には氏族間の混血も進んでいる上に、七賢者それぞれに司る属性を与えているため(例えばデマデスとフリュネの場合、前者は男性的な熱愛、後者は女性的な恋を司り、二人合わせると結婚の守護者となるなど)、ほとんどの聖堂は七賢者すべてを合祀しており、ここカラの街でも同様だった。
「くっくっく……クレオンのこの筋肉は笑ってしまうな。まあ、実物もなかなか笑える奴であったが」
ジャミルはアシュリーがこれら七賢者に封印された竜であったことに想到した。おとぎ話の伝説は真実の歴史であったのである。目の前の存在が途方もないものであるということが、あらためて実感としてジャミルの皮膚に震えをもたらした。
最初はニヤニヤと笑っていたアシュリーだったが、その表情は次第に影を帯び、最後に目を細めると、ぽつりと誰へともない呟きを漏らした。
「ま、結局はこうなったか……皮肉だな」
「おい、貴様ら!」
怒声が飛んだ。その方向を見ると指揮官であろうか、質のいい軍装に身を包んだ背の低い男が仁王立ちにこちらを睨んでいた。その男は赤い棒を振るい喚くような甲高い声で叫んだ。
「もう貴様らに逃げ場はないぞ! 少しでも長生きがしたかったらおとなしく投降しろ!」
「うるさい奴だな」
そこでようやくアシュリーは自分たちを包囲する敵に振り向いた。長い髪が風になびく黄金の麦穂のようにさらさらと舞い揺れ、その間隙から金の細糸を織り込んだ白絹の如ききらめきを薫らす白肌の相貌が現れると、あたりに息を呑む音が広がった。
「ふむ、投降するとどうなるのだ?」
アシュリーのあまりの美貌に一瞬言葉を失ったのであろう、一拍遅れて敵の指揮官が怒鳴り返した。
「……そ、そんなことは決まっておろう! 反逆者は車裂きだ」
「車裂き?」
アシュリーが小首を傾げてジャミルに問う。ジャミルは苦々しげな顔でそれに答えた。
「二台の馬車に紐で身体をつなぎ、左右から引っ張って身体を引き裂く処刑法だよ」
「おお、それは面白い。是非とも一度拝見したい……と言いたいところだが、個人的な事情があってな。これを殺させる訳にはいかんのだ。めいっぱい抵抗することとしよう」
そしてアシュリーは笑った。悪戯を楽しむ子供のような無邪気でいて残酷な笑顔で。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
次の瞬間に広場を埋め尽くしたのは悲鳴の連鎖だった。
アシュリーが指を鳴らすと青色の演算の帯が足元から現れ、地面を走り敵兵の足を一気に薙いだのだ。
この演算に触れた敵兵の足は見る間に凍り付き、身体の支えを失って次々と倒れていった。足を押さえてもだえる兵士の傷はただの凍傷ではない。血が氷柱のような形状で凍り、皮膚を突き破って赤黒い針を生やしている。この痛みと混乱にのたうちまわる敵兵を見渡してアシュリーは声を上げて笑った。
「どうしたのだ? 長生きをさせてくれる気にでもなったのかな?」
笑うアシュリーの横で、ジャミルは蒼白な顔でその光景を見ていた。
「氷結の演算だと? さっきの爆発といい、貴様、何者だっ!」
敵の指揮官は術士であるらしく、間一髪にアシュリーの演算を演算で打ち消し、周囲の数人の兵士とともに無事であった。
「ほう、打ち消すとはやるではないか。まあ、ただ凍らせるだけの簡単な演算だからな。ではこれはどうだ?」
風が巻いた。同時に強烈な寒気がジャミルを襲った。アシュリーを中心にその周囲を高速回転する演算が飛びまわり、それが風を巻き上げながらその内に次々と氷の粒を形成していく。粒は次第に大きく、鋭くなっていく。演算の回転はどんどん速くなり、ついに氷の粒は刃と呼べるほどにまで成長した。
その成長を見ながら、ジャミルは自分の手がどうしようもなく震えていることに気付いた。
ジャミルは周囲を見渡した。
苦悶の表情で足を押さえるもの。
恐慌に泡を吹いているもの。
恐怖に手で這ってこの場を脱しようとするもの。
ただただ震えながら手を合わせて祈るもの。
その光景を見ながら、ジャミルは周囲に渦巻き肌の熱を奪う冷気とは反対に、形容しがたい熱いものが沸々と腹の底からたぎってくるのを感じていた。
氷刃の輝きはますますに増していき、演算は今にもちぎれて弾けそうなほどに回転を速めていく。
「生きたまま車で裂くのも面白いが、生きたままなますになるのも面白いぞ」
アシュリーはその美貌に優しい笑みを浮かべ、柔らかい声音で残酷な言葉を口にした。そしてその言葉が耳に入った瞬間、ジャミルの中で何かが弾けた。
「やめろ!」
「なぬーっ?」
演算が発動するまさにその直前、ジャミルはアシュリーの身体を押し倒した。