「カラの街」5
木板を踏み鳴らす音が止まるのを聞いたシムスは、物陰からそっと様子を窺った。
(あそこは……タラスとかいう交易商の家だったな。本当に行商なのか?)
シムスは休憩の同僚に頼んで門衛を交代してもらい、この男の後をつけていた。カザルの命令によりこの行商人を街に入れたが、シムスはこの命令に納得できなかったからである。
カラの街は街壁側から街を見ればその全体が見渡せる。木材で組み上げた街壁上の通路に昇ったシムスは行商人の姿をすぐに見付け、そのまま尾行を始めた。
男は広場に面する建物の裏手にまわり、勝手口の前に止まった。タラスの商館である。タラスといえばこの街の紅沙取引の三割を受け持つかなりの富商だ。
鹿の角と同じく、紅沙も流通の停止によって他所での価格は上昇しているはずである。街に入って真っ先にそれを買いに向かうのは、商人として当然の行動だろう。
(あの商館の正面は広場だから、撤収作業のごたごたを避けて裏にまわるのも自然か……)
扉が開かれ男は商館の中に消える。シムスの勘は外れたのかもしれない。
(けど……)
扉が閉じた。しかしシムスは諦めきれず、閉じた扉を物陰からしばらく凝視していた。
いくら代わりを頼んだとはいえ、勝手に持ち場を離れるのは命令違反である。それでもシムスをこの行動に駆り立てたのはカザルへの忿懣だった。
(このままじゃあ、何も出来ずに終っちまう)
シムスにとってこの戦争は初陣だった。王都クラクフにほど近いモアレスの領主カザルは、反乱鎮圧軍の召集命令に従い領内での兵の徴募を行ったが、シムスはこのモアレスの小作農家の生まれだった。両親は領主カザルの荘園で綿花栽培に従事していたが、小作料は高く、家は貧しい。こんな先のない生活に若さを費やすならばと、シムスはこの徴募に応じたのである。
(こいつがあれば、どこまでも切り開けると思ったのに)
シムスは腰に提げた剣をさする。閲兵官からこの剣を拝受したとき、シムスはこれで自分の運命は大きく変わるのだという想いに胸を燃やした。
(けれど、なんの手柄も、活躍もなく)
シムスに活躍の場はなかった。シムスが編入されたのは当然ながら領主であるカザルの部隊だったが、この部隊は主力部隊に編入されず、補翼の部隊にまわされたのだ。噂によると原因は総大将であるワザンに対するカザルの反目と囁かれた。
カザルはもともとフォルラン派の小貴族だったが、五年前の内乱の際にはいち早くベルトラン派に寝返り、フォルラン派貴族の切り崩し政略に功績を上げた。カザルはこの活躍によりフォルラン派貴族から没収した領地の一つモアレスの領主となったのだが、その後は重く用いられることなく昇進もしなかった。これをカザルは政務の中心の地位に就いたワザンが、所詮寝返り者と自分を軽んじたための処遇であると思っているらしかった。そのためカザルはワザンのために自兵が損なわれることを避け、主力部隊への参加を拒んだというのである。ややこしい話だったが、何にしろシムスの願望はその始まりから挫かれた形となった。
それでもシムスは少しでも上官の目に留まり、出世の足掛かりにしようと精勤した。しかしカザルを中心とする上官たちはそのような部下の働きを気に掛けもしなかった。
(さっきだってひどい扱いだった)
一兵卒に過ぎないシムスが部隊長であるカザルと直接に顔を合わせたのは、先程の報告が初めてだった。そのためシムスはいつにも増して声を張って報告を行ったのだが、何が気に入らなかったのかカザルはシムスを真っ向から否定した。あまりの反応に憤りを覚えたシムスは、とっさにでまかせを口にしていた。
(あの男が本当にジャミルなら、俺の出世も開けるものを……)
この行商人がジャミルではないかとカザルに言ったのは、ただの反発からであった。実際カザルの言う通り髪の色ぐらいしか符合する特徴はない。そもそも今回の反乱は首謀者である大物貴族エルナン=エステに注目が集まり、その傀儡に過ぎないジャミルのことなど誰も注意していなかったのだ。それを反映してか手配書にも黒髪で中背であることぐらいしか容姿の特徴は書かれていなかった。
この行商人がジャミルである可能性は限りなく低い。けれどシムスは引くに引けなくなっていた。頬をさする。カザルが指揮棒で突いた痕は、深くシムスの心に刻まれていた。
(どうする? このまま引き下がるのか? こんな悔しさ抱えたまま終わるのか?)
葛藤にシムスはためらいがちに立ち、座り、また立ち上がるの動作を繰り返した。逃亡中の敗兵だとか適当に理由をでっち上げて捕まえてやろうかとも思った。しかし濡れ衣が判明して、しかもその検挙が独断の尾行によるものだったとばれたとき、この手柄の捏造が処罰の対象となることは間違いなかった。かばう人間など誰もいまい。シムスは心中のわだかまりを晴らしたい欲望を抱えながら、立場の弱さを恐れて動けない自分に苛立った。
そのとき広場から太鼓の音が三度鳴った。
(もう時間か!)
集合の合図である。持ち場のないものは全員広場に集まらなければならなかった。
(……戻るしかないな)
門衛を交代してもらっている同僚は広場に行かなければならない。点呼に応じなければ処罰されるだろう。カザルは刑罰に関しては厳格で、シムスはささいな手落ちで鞭打ちに処される者を何人も見ていた。
立ち上がったシムスは踵を返して東門へ戻ろうとした。
風音を聴いた。
それは踊り場にある小さな広場にさしかかったときだった。自然に吹く風とは異質な空気を裂く音に意識が違和を覚えた瞬間、声が聞こえた。
「いかん」
女の声だった。そう思ったと同時に何かが横殴りにシムスの身体を吹き飛ばした。
視界の反転が衝撃とともに止まる。
したたかに打ちつけた背中の痛みに耐えながら顔を上げたシムスは、自分に覆いかぶさる人間を見た。
「ええい。何故にここで人が通る」
長い金の髪が視界に踊った。金彩をこぼす髪のすだれが開けると、そこに黄玉を嵌め込んだかのような澄んだきらめきを放つ女の双眸が覗けた。女は髪を掻き上げた。陽光が顔に射し女の肌が白く薫る。
聖堂のレリーフに刻まれた秀麗なるフリュネの美身に優るとも劣らない美貌を持つ金髪金目の女がそこにいた。
女の重みが身体にある。
動悸が聴こえた。恥じらいの紅潮と予期せぬ幸運の興奮がないまぜになった動悸は、しかしシムスの身体を強く硬直させ、ただただその美貌を眺めさせるだけだった。