間章
魔女が手を振り下ろし、周囲を取り囲んだ演算が白光を放ったと思った瞬間、前に立つワザンの手から光を遮るように黒い被膜が広がり、エミリアたちを包み込んだ。
「あっ」
視界が黒に閉じたとき、その向こうから闇塊が波濤の如き勢いでエミリアの五感を洗った。
それは異常な体験だった。
重い黒がのしかかったと思うと、薄い黒が浮き上がるように駆け上がって濃淡に明滅し、風洞を抜けるような風音のうねりが波を打って近付いては遠ざかっていった。肌は火と氷に同時に触れたように焼け凍て、身体は渦中に翻弄される木の葉の如くに揉み回される。全身が削ぎ失せるかと思える苛みの中に、腐った獣脂を鼻に突き通したかのような激臭が脳幹を走り抜け、意識の糸が安楽を求めて切れようとするのを間断なく妨げ続けた。
しかし終わりなくなぶり続くこの混沌の嵐は、やがて不意に途切れた。
「……え?」
闇に見た瞬きが星であることに気付いたのは、風に吹かれる髪が肌撫でる感触と、背中に染み渡る土の冷気が、意識の表層に浮かび上がった後だった。
エミリアは仰向けに倒れていた。
反響のように脳裏に濁る混沌の残滓を払うように、ゆっくりと首を巡らして辺りを窺うと、いくつもの人影が自分と同じように地面に倒れているのが見えた。
呻き悶える人影の一つがのそりと起き上がった。黒の長衣を着るその影の向こうに、エミリアは煌々と焚き燃える篝火を見た。影はそちらに向かって引きずるように足を進める。
(――あそこは?)
見覚えのあるその篝火は、森の外に野営する軍の幕営の明かりだった。
(――助かっ…た?)
そう思った途端に緊張が緩んだのか、エミリアの意識の糸はついに切れた。
焼け付くような激しい喉の渇きに意識を取り戻したエミリアが見たのは、透ける陽射しに薄い灰色に映る天幕と、自分を覗くいくつかの見知った顔だった。
「エミリア様!」
しばし定まらない瞳を彷徨わせて、周囲をぼんやりと眺めていたエミリアは、その聞き慣れた呼び声に、頭に掛かった靄がゆっくりと晴れていくのを感じた。
「……ジャック?」
歓声が上がった。エミリアを囲む男たちは互いの顔を見合い、喜びに肩を叩き合った。
「よかった――」
ジャックは残された片腕でエミリアの手を握った。エミリアは感涙にむせぶその顔を見上げ、かすれる声で何事かを訴えた。
「水を……」
エミリアの口もとに耳を当て、その小声を拾い聞いたジャックは、己の不覚に恥じ入るように頬を紅潮させると、慌て声を張り上げて、他の男たちに呼ばわった。
「み、水だ! 何故用意しておかなかったのだ? ええい、気の利かん奴らめ。早く水をお持ちするのだ!」
わいのわいのと騒ぎ出した男たちは、慌てふためき散り散りと、水を求めて走り回る。目を丸くしてその様子を見送ったエミリアの唇は自然とほころんだ。
「さあさ、こちらを」
身を起こし、ようやく運ばれて来た水に口を付けたエミリアは、舌を湿らせ喉を鳴らす潤いに、染みるような優しさを覚えた。
「ありがとう」
感謝の言葉に男たちが一様に首を横に振る。思わず苦笑を漏らしたエミリアは、その中に自分と共に魔女の森へ入った部下の顔を見つけた。
「タスク! 無事でよかった……カクラムは?」
名を呼ばれたタスクは、その面長の顔を赤く染めながらエミリアの前に進み出た。
「無事でございます。まだ眠っておりますが、ご心配は無用です」
タスクもエミリアと同じ体験をし、気付けば幕営の側に倒れていたという。とりとめもなく切り変わる夢の場面のように、本当に空間を越えて違う場所へ移動したのだ。
「今でも信じられない、不可思議な出来事です。思い返すだけで眩暈を覚えます」
ワザンの使用した竜の血の力であるのだろう。しかしこのような想像を絶する現象までをも引き起こせる、竜の血の人知を超えた力にエミリアは畏怖を覚えた。
(いったいワザンはどこであのようなものを……)
エミリアの沈思はタスクの言葉に遮られた。
「しかし、エミリア様。あの魔女は何者だったのでしょう?」
恐怖を思い出したのか、タスクの顔には怯えが震えとなって浮かんでいた。
畏れなくしては相対することも叶わず、いかに屈辱であろうとも膝を屈せずにはいられない圧倒的な存在。
「あれはおよそ常人の者とは思われません。何か人外の、それこそ本当に竜なのやもかと……」
「竜……」
その言葉にエミリアは面を下げると、再び考えに沈んだ。
最後に「竜」と名乗った時、あの魔女は明らかに別の何かに変化していた。
(何故「竜」なのだ?)
そしてワザンが持ち出した「竜の血」という奇妙な言葉の符合。
(偶然? それとも――)
黙り込んだエミリアに、ジャックがおずおずと話し掛けた。
「……実は先程ワザンの元から伝令が来まして、エミリア様が起き上がれるようになりましたら、自分の幕舎まで来いとのことです。話はおそらく……」
ジャックに振り向いたエミリアは、強く頷いた。
「すぐに行くと伝えて。……礼もしなければならないでしょうからね」
ジャックが何か言いたげな顔をするのを片手で遮る。
(さて……どう処分されるか)
結局失敗に終わったこの作戦の責任がどこに向かうか。エミリアは少なくとも、不安気な表情で自分を見つめる彼等だけは守り切らねばと、自分に言い聞かせた。
エミリアが天幕に入ると、ワザンは寝台の上に臥せていた。
「情けないものだな。このような姿を曝すことになろうとは」
ワザンはそう言うと、近侍の下男に支えられながら上体をゆっくりと起こした。顔は白く、その皺はいつにも増して深く見えた。
「もう、大丈夫か?」
「はい」
直立の姿勢で答えるエミリアを見てワザンは苦笑を漏らす。
「私もだいぶ老いたものだ。まだ頭痛が残る。竜の血を使った反動だろうが、やはり若い者の回復には敵わんな」
自嘲するワザンに向かい、エミリアは深々と頭を下げた。
「ワザン殿に命を救われました。私の部下共々に謝辞を申し上げます」
幕営の近くまで瞬間に移動した後、皆が倒れ呻く中で真っ先に立ち上がり、助けを呼びに行ったのがワザンであると聞いた。
(――敵わない)
エミリアは深謝しながら、越えることの出来ない男の存在に、内心に悔しさを滲ませた。
「礼には及ばぬよ」
ワザンは鷹揚に片手を挙げて応える。
「しかし咄嗟のことであったが、竜の血にあのような使い方もあるとは思わなかったな」
そう言ってワザンは一人笑うと、エミリアに顔を上げるよう命じた。
「呼び出したのは他でもない。今後についてだ」
エミリアの背筋に緊張が走った。
「失脚とまではいかぬだろうが、今回の件で私も立場の弱体化は避けられんだろう。おそらくしばらく暇を出される」
(予期したことではあるけれど……)
ワザンはこの件の責任を自分に押し付けるかもしれない。それはエステ家の存亡にとって決定的な意味を持った。
(どんな屈辱を受けても、最後まで食い下がってやるさ)
覚悟を決めてワザンの顔を見据えたエミリアは、しかしワザンの次の言葉に自分でも驚くほど間抜けな声を出してしまった。
「そこでだエミリア。お前には私の暇潰しに少々付き合ってもらいたい」
「……は?」
ワザンは悪戯好きの子供のような笑みを浮かべる。
「お前は気にならんか? これの正体が」
言いながらに懐から竜の血の入った小瓶を取り出し、軽く振ってみせた。
確かにそれは疑問であったが、あまりに予期せぬ話の展開にエミリアは困惑していた。しかしワザンは構わずに話し続ける。
「五年前、陛下即位の年だ。宮廷に年老いた術士がやって来た。そやつが新王の即位祝いだと言って、持って来たのがこの竜の血だ」
ワザンはしげしげと混濁に蠢く竜の血を眺める。
「最初は眉唾ものだと思って放っていたのだが、試しに使ってみればあの効果だ」
疲れなど忘れたかのように楽しそうに話すワザンを、エミリアは意外な面持ちで見ていた。
「それでこれの正体について色々と調べていたのだが、執務に時間を取られてな。しかしようやく時間が出来そうだ」
「私の失態をお責めにならないのですか」
エミリアが堪え切れずに問うた言葉に、ワザンは興ざめしたような表情を浮かべ、横目にエミリアを見た。
「もはやどうにもなるまい。まあ、『あれ』を倒す術があるというのなら話は別だがな」
エミリアは首を横に振るしかなかった。
「私としてはこれの正体を知り、使いこなす術を得る方がよほど政治的にも価値ある行為だと思うがね。なにより早急に『あれ』に対抗する術を得なければならん。あの力が野心を持てば、クレルモンはフォルリの二の舞だ」
そこでワザンはエミリアの顔を正面に見据えた。
「それにだな、前にも言ったが私はお前に期待しているのだよ」
エミリアは奥歯を噛み締めた。
「これを持ってきた術士を捜しに行く」
ワザンは短く告げた。
「竜を名乗ったあの魔女についても何かわかるかも知れんしな」
ワザンの言うことは全て理に適っていた。自らの視野の狭さを知ったエミリアは、ワザンの言葉に肯首する他なかった。
「……何だ?」
その時、幕が静かに開かれ、取次役の下男が手に封書を掲げ入って来た。下男は寝台に寄りワザンにそっと耳打ちをした。
「何?」
下男に渡された封書を開ける。その内容を一読したワザンの表情が一変した。
「使者をここへ」
下男が足音もなく下がる。エミリアが詮索をする前にワザンが口を開いた。
「ラーダがベスラに襲来した。兵を返せとの王命だ」
「ラーダ!」
エミリアは驚きの声を上げた。ラーダとはクレルモン王国の東方に広がる大草原に活動する騎馬民の総称である。この百年ほどに勢力を拡大し、度々に王国に攻め込んで来た。そのため歴代の王は東の国境に沿って、北はアルミネ山地の南端からエルゼ河上流の主要都市であるポロに至る、遠大な長城線を築きその防備を固めていた。ベスラはこの長城線の中央の要にある要塞都市であり、大草原へと続く道にある門であった。
「遠路ご苦労」
封書を届けに来た使者が引見された。ワザンは労いもそこそこに短く問いただす。
「数は?」
「七万でございます」
ワザンの眉が動いた。
「間違いはないのだな?」
「赤の狼煙が七本で間違いありません」
狼煙の色と数は敵兵の数を示す。赤の狼煙は一万単位を表した。
「斥候からは攻勢に動く兆候は報告されなかったが……。どこでそれだけの数を編成した? 内乱の報に反応したにしてもまだ一月も経って……まさか」
独りごちるワザンは突然に顔を上げ、エミリアを見遣った。
「我らはエルナンの奴めにしてやられたのかもしれんな」
その言葉の意味に理解が至ったとき、エミリアは鋭い苦味が胃腑に走るのを感じた。