「翻弄される者たち」2
「はあ、はあ」
自分の息切れの音の近さに気付いたときには、心臓を締め付ける胸の痛みにジャミルは耐えられなくなっていた。
「殿下! 足をお止めになりますな!」
暗い森に満ちる強烈な湿気は滲む汗を乾かさず、冷気をともなって肌にじっとりとまとわり付く。木にもたれ掛かり走るのを止めたジャミルは、胸を押さえ絞り出すようにして声を出した。
「……もういい……だろ。どうせ……戦いには負けた……んだ」
ジャミルの周囲を数人の騎士が囲んだ。馬はすでになく、重い胸甲も脱ぎ捨てられ、今やわずかに盾を背負うだけの敗残の騎士たちは、ジャミルの言葉に互いの顔を見合わせた。
「ジャミル殿下」
広がるざわめきを制するように、その声は凛然と発せられた。ジャミルは顔を上げて声の主を見やる。
そこには美貌の騎士がいた。
錦糸を混ぜたかのようにさらりとした銀の髪に、水面に月光を当てたような深い藍色の瞳。そして目鼻の顔立ちに女性的な細い端正な線を持ちながら、その身体を描く線は男性的な骨の太さを持っていた。その立ち姿は屈強な体格の騎士たちの中にあっても埋もれることはなく、むしろその均整の取れた顔を一際強く印象づけた。
この美貌の騎士が、ジャミルの前まで進み出て恭しく頭を下げる。
「生き延びれば機会はございます。殿下が生きている限り我々は負けたことにはなりません。どうか歩みをお止めになりますな」
「はん、よく言うぜエルナンさんよ」
エルナンの言葉を鼻で笑ったジャミルは、地べたに座り込み肩を竦めて自分を取り囲む騎士たちを見回した。
「あんたらが欲しいのは立場だろ? 追い出された国にもう一度居心地のいい地位を取り戻したいんだろう? はっ、そのためにこんな行商人の息子なんぞを担ぎ出して、ご苦労なこって」
皮肉たっぷりに騎士たちをせせら笑うジャミルの態度は、およそ殿下と呼ばれる人間のものではなかった。その陽に焼けた顔からは、高貴な人間が持つ潔癖さよりも、市井に生きる人間の泥臭さを感じさせた。
「それではここでこのまま死を待つと?」
詰め寄るエルナンにジャミルは冷然と吐き捨てた。
「終わった夢を見ながら死にな」
沈黙が下りた。
肌冷えのするような静寂に、勝ち誇った顔でジャミルは笑う。乾いた笑いが湿った森に響く中、エルナンの表情が瞬間、色を消した。
「お前の考えはわかっている」
エルナンは慇懃な言葉遣いを止め、無表情にジャミルを見下した。その豹変にもジャミルは笑うのを止めず、エルナンを指差してその長身をねめ上げた。
「正体を見せやがったな、似非紳士が」
エルナンはジャミルの揶喩を無視し、淡々と告げた。
「我々が戻らない時は、後を追わせるよう言い付けてある」
ジャミルの笑みが消えた。逡巡が唇を歪め、わずかな反論を口にするまでのこの一瞬の間の沈黙が、自分の主導権を決定的に奪ったことにジャミルは気付いていた。
「はったりを」
エルナンは無表情に告げた。
「はったりかどうか確かめる術はあるのか?」
ジャミルは押し黙った。エルナンは片眉を上げて言った。
「一人で死ぬのは寂しかろう?」
ジャミルは立ち上がった。薄く微笑むエルナンの顔をつかみ掛からんばかりの勢いで睨み付けながら、ジャミルは問いただした。
「……逃げ延びる当てはあるんだろうな?」
そう言ったジャミルの拳は強く震えていた。エルナンはそれに構うそぶりも見せず、ジャミルの両手を取り相貌を柔和に崩した。
「それでこそ殿下です」
声音に色を戻したエルナンは、恭しくジャミルの手を引き、森の奥を指差した。
「もう少しで河原に出ます。そこに万一に備え船を隠してあります」
ジャミルは臓腑が焼き付くような強烈な嫌悪感に全身が総毛立つのを覚えた。
(……あれだけの味方を死なせて、逃げる用意があっただと?)
動きの固まったジャミルに、怪訝な顔でエルナンが振り向く。
「いかがしました?」
その藍色の瞳からはわずか程の迷いも見い出せなかった。ジャミルは理不尽なまでの人種の違いに打ちのめされた。
(これが、貴族――)
ジャミルは自分の考えの浅はかさを思い知らされた。自分一人が死ねば人質の価値は無くなるものだと思っていた。
しかしエルナンは人を支配する術を知っていた。支配という感覚は、人の生死を生の感情から切り離す。そしてそれは支配階級である貴族が自然に体得している感覚だった。
ジャミルはエルナンの白い肌の下に青い血が流れるのを見た気がした。
「参りましょう」
ジャミルは完全に抵抗する意志を失った。
エルナンに手を引かれるままにジャミルは再び歩き出した。