「復活」7
燃え崩れるフォルリの街が、白亜の城壁を赤く染める。
人の焼けた脂の臭いに、燃え木の煤けた黒い煙が、エルゼ河の白璧と称えられたフォルリの街を、澱んだ静寂に沈めていた。
街を歩く影は一つ。赤い風に金色の髪をなびかせるアセリナは、足に踏んだそれにふと立ち止まる。
片割れを失った、小さな子供の汚れたサンダル。
サンダルを拾い佇むアセリナは、熱吹く風に悲しい音が伝わるのを聴いた。
梟よ
闇夜を渡る蒼き梟
お前はどこへ飛んでいくのか
このさめ濡れる心を置いて
あの喜ばしき日々を
どこへ連れ去ろうというのか
その哀歌をたどるように歩いたアセリナは、潰れた家屋の片隅に座り、泣き歌う一人の女の姿を見た。
梟よ
闇夜を渡る蒼き梟
お前はどこを飛んでいるのか
その碧玉の瞳に獲物を求め
やがてここに舞い降りて
私の愛をさらうというのか
それは死者の魂を運ぶという蒼き梟の非情を恨む歌だった。
梟よ
闇夜を渡る蒼き梟
もしも私の望みを聞くのなら
どうかそのまま飛んでいって
私が抱くこの人は
お前を求めはしないのだから
女は手垂れた幼子を胸に抱き、目閉じた男を膝に置いて、ただただか細い哀切を、頬に一筋流しながら、身も心も削ぐように、届かぬ願いを歌うだけだった。
女の目には何も映らず、アセリナが前に立ったことにも気付かず、あやし揺らす幼子の血冷めた顔を見つめ続ける。
梟よ――
そんな女を見下ろすアセリナの金の髪は、徐々に輝きを失って、ついには凪いだ風に黒く落ちた。
「……そこでこの女は、情けないことに復讐を止めたのだ。私との契約を果たす前にな」
竜と名乗った「それ」は、そこまで話すと、嘲りを口に浮かべる。その笑みをジャミルは複雑な表情で見ていた。
「なんだ、まだ痛むのか?」
その表情に誤解したのか、「それ」がジャミルの脇腹を見やる。ジャミルは慌てて首を左右に振った。
もはやあの染みるように身体を浸蝕していた脇腹の痛みは、完全になくなっていた。
「アセリナの不完全な知識では外傷を治すのが関の山だったが……もう痛くあるまい?」
痛みに脂汗を滲ませていたジャミルを見て、「それ」は脇腹に触れ、演算を皮膚の下に流し込んだ。するとすぐに痛みは引き、身体を動かすことに何の支障もなくなったのである。アセリナは薬で治したと言っていたが、実際には演算で治療していたのだ。
「いつまでもウーウー唸られていては、こちらもうるさいからな。感謝するんだぞ」
そう言って恩着せがましい笑みを「それ」は浮かべた。
「さて、続きだ……うん? 夜もだいぶ更けたな」
夜風が荒野となった森に吹いた。焼け朽ちた倒木に座る「それ」の月光に照る金の髪が、三日月よりも細く煌めき、風に舞った。
ジャミルの複雑な表情の理由は、「それ」がする話だった。
「それ」は自らを竜と呼んだ。竜が神話の怪物であることはジャミルでも知っている。人々の教導者である七賢者に魂と肉体を切り離され封印された、黄金に輝く漆黒の竜である。
そして「それ」は自らが闇に封印された黄金の魂であると言うのである。その封印は定期的に強弱を繰り返した。この封印が弱まる周期にあったとき、「それ」は愛する者を惨殺されたアセリナの嘆きを聴いた。そしてアセリナとある契約を交わすことで、闇の封印から抜け出したという。
「それ」の力を借りて復讐を果たしたら、「それ」にこの身体を捧げるという契約を。
にわかには信じ難い話だった。しかしジャミルの眼前に広がる、今日まで森だった土地の光景に、その存在を信じない訳にはいかなかった。
「……そしてつまらんことにこの女は、この森に引きこもったのだ。私の力を封印すると言ってな。しかし人間は欲深い。滅んだフォルリを奪いに来た、ムーランやらなんやらの周辺の国の王やその臣下、どこそこの大富豪やら悪名高い大盗賊とかがこの森にやってきて、口を揃えて『私と組めば、貴女は地上の主になれるだろう』などと、かわいいことを言って私の力を求めに来たのだ」
クックッと「それ」は笑う。
「だがこの女はこの面白い提案を拒否した。それでもそやつらは私の力を欲しがって、たびたび森に踏み込んだ。ついにはこの女、来る者来る者を泣く泣く殺し始めたのだ。私の力を使ってな。すぐに勧誘の話はなくなったよ」
そこまで話して「それ」は大笑した。そしてふと思い出したかのように目を上げ、諧謔の表情に口の端を緩ませた。
「そういえばこんなこともあったな。王侯貴族の勧誘がなくなってだいぶ経ってからだ。森に迷い込んだ男の怪我を治してやったことがあった」
何をか言いた気に「それ」はジャミルの顔を指差した。
「噂はすぐに広まった。病人や怪我人が押し寄せて来た。しかしこんな森だ。行き倒れた死体が森のそこそこに転がった。奴らはなアセリナに森から出て来て自分達を助けろと言ってきた。だがアセリナは断った。そうしたらな、今度はこの女をさらいに、病人の家族やら友人などが襲って来たのだ。さて、アセリナは泣く泣くにまた……」
堪え切れぬ愉悦に身を屈める「それ」に、ジャミルは顔を歪めた。すると、そんなジャミルの表情に「それ」は嗜虐の微笑を浮かべた。
「よかったな。この女の想い人と同じ顔をしていて」
それが全ての理由だった。
ジャミルは歯痒さに俯いた。これがアセリナの献身的なまでの好意の理由だった。しかし、その為にアセリナは封印を誓った「それ」の力を、五百年目にして解放することになったのだった。
(もし、自分がアセリナと逢わず、早々に死んでいれば……)
その想像はジャミルの心に深く沈み、黒い澱となっていった。
「自分の悪運を喜ぶのだな。まあ、これは私にとっても幸運であったが」
立ち上がり、俯くジャミルの肩に手を置いた「それ」は、顔を上げたジャミルの目を覗き、金色の目を輝かせた。
「さて、私はアセリナと新たな契約を交わした。それが私がここにこうしていられる理由だ」
浮かぶ憔悴に冷めた頬を「それ」の手が優しく触れる。
「アセリナは私にこう願った。『彼の命をお守り下さい』とな」
目を開くジャミルの瞳がわなと震えた。それはやがて目尻に伝い、涙となって頬に流れた。
「お前の寿命が尽きるまで、お前の命を守ってやろう」
その涙を指で拭き、舌に舐めた「それ」の微笑は、愉蔑を湛えて甘くジャミルに囁き掛けた。
「――悲しいか?」
それはたくらみだった。しかし、ジャミルはその言葉が耳に入り込むのを留めることが出来なかった。
「救う手立てがない訳ではない」
ジャミルの心の澱がわずかに揺れた。
「アセリナの魂はまだこの身体にいる。私が表にいる為に出て来れないだけだ」
「それ」は自分の胸に手を当てる。
「つまり、私がこの身体から出ていけば、私の真の身体である『漆黒の肉体』を取り戻せば、この身体はアセリナに戻るのだ」
ジャミルの瞳に映った光に「それ」は満足気にうなずいた。
「長い歳月に私はこの世界に不案内だ。私の真の身体を取り戻す協力をしろ。そうすればこの女を返してやろう」
これは契約だった。
しかし激しく巻き上がった心の澱は、衝動となってジャミルの口を動かした。
唇に蘇る熱の儚さ。
「――ああ」
光が射した。暁が「それ」 の背後から白く夜を払っていく。
光輝に包まれた金の髪に縁取られた「それ」は、陰る顔に薄い笑みを浮かべていた。
この夜明けが自らの運命に何を意味するのか、ジャミルにはまだ知ることが出来なかった。




