「復活」4
木々を燃やす炎の朱を背に負って、火影に黒髪を染めたアセリナが、翳りに見えぬその顔に白く瞳を揺らしているのを、木に寄り倒れてうずくまるジャミルは見た。
「……アセリナさん?」
立ち尽くすアセリナの翳に窺う表情は、ジャミルを沈黙に見つめながら、ただ瞳を揺らすだけだった。
脇腹の痛みに耐えながら、ジャミルはゆっくりと立ち上がる。
「無事でよかった……」
ジャミルはアセリナの焼け空いた服裾や、焦げ縮れた端髪を見遣りながら、一歩一歩、足を進める。
ジャミルの心中には苦みがあった。このアセリナの姿はジャミルの想像の的中を示していた。けれど同時に、その想像が決定的な惨事になる前であったことに、ジャミルは安堵も感じていた。
「あっ」
ジャミルの足が不意によろめいた。アセリナが我に返ったかのように声を上げ、ふらつくジャミルを抱き留める。
荒く息吐くジャミルを胸に、アセリナが困惑を問い掛ける。
「なんで……」
顔を上げたジャミルの視線がアセリナと交差する。
その瞳に映るのは、あの懐かしさと愛しさと淋しさが織り交ざった、せつなげな表情だった。
ジャミルが口を開きかけたその時、視界に赤い炎の飛ぶのが見え、アセリナの表情が一変した。
(――あれは?)
幾本もの炎の帯が、まるで生きた蛇のように波を打ちながら、こちらに向かって走って来る。それは何者かの命令に従う猟犬の動きであり、決して自然の炎の動きではなかった。
「ジャミルさん!」
右手でジャミルの身体を引き寄せたアセリナは、迫る炎に向けて左手をかざした。そこに淡く光る文字が浮かぶ。文字は高速に回転し、暗闇に光の輪を成すと、爆音とともに空気を衝撃に走らせた。
(やっぱり演算を――)
それはジャミルの想像の通りであった。アセリナは一人戦っていたのだ。しかし実際に目の前にするその姿は、何故かジャミルに凛々しくも痛ましい印象を与え、ジャミルはアセリナの腰に回る腕に力を込めた。
衝撃波が炎を払う。しかし払われた炎はすぐに後続の炎に替わり、間隙もなく次々と駆けてくる。
アセリナは演算の文字列を薄く広げた。すると闇が滲むように視界を埋めていく。光を通さぬ闇の幕が、うねる炎を呑み込んでいく。
「走って!」
アセリナは踵を返すと、ジャミルを肩に支えながら走り出した。ジャミルは苦痛に顔を歪めながら、アセリナの駆け足に遅れを取るまいと必死に足を動かす。
「はぁ、はぁ」
額に滲む脂汗が煩わしかった。脇腹の鈍い痛みが徐々に鋭さを増していく。それはやがて足の重みとなり、遂にはジャミルの身体を膝から崩した。
「ジャミルさん」
アセリナはジャミルの肩を支え直し、近くの草むらに運び込んだ。木の根を背もたれにジャミルを寝かすと、周囲の様子を窺う。闇の幕に遮られてこちらを見失ったのか、追い掛けて来る炎の姿はなかった。
「なんて無理を……」
草むらは闇だった。月の明かりも木々の影に遮られ、ジャミルの目に見えるのは、白く光るアセリナの双眸だけだった。
アセリナが息も絶え絶えのジャミルの傍らに寄り添い、その額の汗を拭う。暗闇に浮かぶアセリナの瞳は水面に波立つ月のように揺らいでいる。
「構う必要なんてないのに」
ジャミルはそっと手を伸ばし、手探りにアセリナの髪に触れる。あの瑠璃色を光に散らしたかのように艶やかだった黒髪は、滑らかさを失い指にかさついた感触を伝えた。ジャミルはその焼け縮れた無残な髪を、いたわるように撫でる。戸惑うアセリナに、ジャミルは乱れる息を落ち着けながら、絞るように声を出した。
「俺も…同じ気持ち…だよ」
その言葉にアセリナの揺れる瞳がぴたりと止まった。
「……敵の狙いは俺…だろう。アセリナさん…が、これ以上構う…理由なんてないのさ」
それは犠牲の意志だった。そしてこれが状況から導き出せる、ジャミルにとっての最良の選択だった。
この状況から二人が生き延びる方法は、ジャミルが身動きできない以上、アセリナに敵を撃退してもらうしかない。しかしアセリナはかなりの術士であるようだったが、先程の炎の術を見ても、敵は容易な相手でないことがわかる。そうなれば最善の選択は、敵の目的であり、一人では満足に歩くこともできないジャミルが犠牲となって、アセリナを逃がす以外になかった。
「そんな……」
アセリナの髪が左右に揺れた。その好意は身に染みていたが、だからこそ、それを理由にすることがジャミルには出来なかった。そもそもアセリナが戦う理由は、善意以外にない。それを利用して自分の為にアセリナが傷付く戦いを強いるのは、ジャミルには耐えられるものではなかった。
「……でも、家族は、ジャミルさんの帰りを待っている家族が」
縋るように問うアセリナを遮るように、ジャミルは答えを告げた。
「一人も…救えずに…死ぬぐらいなら、一人でも救っ…て死んだ方が…マシさ」
言葉を失ったアセリナの瞳が弱々しくジャミルを見つめ、その目尻から涙が暗闇に流れたのをジャミルは見た。その姿を痛ましくとも、愛おしくとも思う自分の感情は、自分の覚悟が後悔のないものであるということをジャミルに確信させた。
(それに……)
自分以外の全員が助かる可能性はあるのだ。エルナンの発言が虚言であれば、ジャミルの死は家族の人質としての価値を失わせ、むしろ安全を与えることになる。賭けてみるには足る、無視できない可能性だった。
(しかし――)
事がここに至っても自分の死の効果を冷静に計算している自分にジャミルは苦笑を誘われた。自分は根っからの商人であると、あらためて思わされた。
一人笑いするジャミルの手をアセリナの両手が掴んだ。しっとりとした肌の温もりにジャミルは一瞬驚く。しかしやがて微笑み返すと、その指を一本ずつ外していった。
「ありがとう」
それは訣別の言葉だった。
その言葉を告げたジャミルが、弱った身体に力を込め、ゆっくりと起き上がろうとした時だった。
「まだ手段はあるわ」
その言葉とともにジャミルの唇を突然に熱が覆った。
閉じたまぶたに並ぶ長い睫毛が眼前にあった。頬に触れる両の手が柔らかく顔を支え包む。
唇と唇が触れ合った。
その感触は甘く、溶けるような熱がジャミルの全身に広がっていく。それは長く熱を持ち、けれど冷めてしまえば一瞬の出来事だった。
熱は離れた。
アセリナがジャミルの目を覗く。
その瞳に細く映るのは、切なげな愛惜と揺るぎない決意だった。
思わぬ出来事に目をしばたたかせたジャミルは、立ち上がるアセリナを惚けた顔で見上げた。
腐った卵のような、饐えた悪臭が鼻先に漂ったのは、その時のことだった。