「復活」2
絡み付くように舞い踊る炎の蛇に、アセリナはまったく対処の術を持ち得なかった。波状に攻撃を仕掛ける炎の蛇は、風や水の演算でその勢いを削ぐことこそできたが、いかなる演算を駆使しても打ち消すことだけはできなかった。
「くっ!」
それはアセリナの理解の範疇を越えていた。少なくとも通常のエーテル理論とはまったく異なる手段で、この蛇は構築されている。理論の根底が異なるが故に、エーテル理論を基礎とする演算では、表面的な影響以上の効果をこの蛇に与えることができないようだった。
(お前が手にした知識程度では、これには勝てん! 私の残りを受け入れろ、アセリナ!)
声が興奮の色で喚く。アセリナに伝わるその興奮は、喜びと焦りに満ちていた。
「これを知っているの?」
(無論だ。この香しき匂い、忘れるものか!)
このような感情のこもった声が伝わることなど珍しいことだった。けれどアセリナは首を縦に振らず、毅然と声を斥けた。
「これ以上、知識を得るためにあなたの魂に触れれば、私が私で無くなるわ。あなたを世に出す訳にはいかないのよ」
(もとよりそういう契約だろうに……。ああ、この香り。騒ぐぞ、騒ぐぞ、心が騒ぐぞ!)
声の興奮はますます高まり、それに応じるかのように、炎の蛇の攻撃はいよいよ激しさを増していく。
幾枝にも分かれた鎌首は、更に細かく分かれてアセリナの演算をかい潜ると、再び合わさってその顎を開いた。走る蛇炎から、かろうじて身を避くと、逃げ残る黒髪が焦げ焼かれて散り燃える。
舞い燃え落ちる黒髪に、アセリナの身体が震えた。
それは誘惑であった。永い時を生きるアセリナを惑わす、蜜のように甘い蠱惑的な誘いだった。その震えの感情の存在にアセリナは驚き、しかしすぐに頭を振って、その誘惑を打ち払った。
(つまらんことを考えるな。あの男を見捨てる気か?)
否定の意志に浮かぶのは、儚い過去の幻影であり、エゴイスティックなアセリナの願望だった。それをどこまでも深く自覚していても、この蜉蝣の如く弱々しくも愛おしい幻影を捨て去ることだけは、アセリナにはできなかった。
「私は……」
手段は限られていた。
死が招く悲劇か。
生が招く悲劇か。
黎明を切り裂く鶏鳴のように、声が高く響いた。
(さあ、決めろ!)
その瞬間、視界が急に明るくなった。
「借りは返すぞ、金色の魔女!」
その声が耳に届いた時、アセリナは黄金に光り輝く球体が、木々を焼き払いながら、こちらに迫るのを見た。そしてアセリナは、この黄金の火球に周囲を取り巻く蛇炎の群れが、一瞬だけ動きを止めたのを見逃さなかった。
文字が浮かび、瞬間に開いた。文字は次々と演算を組み立て、地面に大きな円を描く。円は地中に染みて消えた。アセリナが腕を振り上げる。
それは一瞬だった。けれど現状を切り抜けるには十分過ぎる一瞬だった。
轟音と共に地面からせり上がったのは、巨大な土の壁だった。アセリナの前面にそびえ立ち、黄金の火球を遮った土の壁は、いくばくかの抵抗にその身をひび入れると、やがて黄金の光を漏れこぼしながら、跡形もなく光の内へと熔けていった。
だがアセリナは壁の熔け消える、その最後を見ることなく身を翻していた。
背後で黄金の火柱が高く上がる。爆風と共に放たれた光の膨張と縮小に、アセリナの姿が浮かび沈むと、闇夜を焼く赤い炎が黒煙を昇らせ始めた。
(ふん、うまく逃げたものだな。しかし今の火球で思い出したぞ。あの男、何十年か前にお前の裸を覗いた男だ。今のような火球をくれてやったろう? 殺し損ねていたようだな)
わずかな記憶に浮かんだ若者の顔が、長衣をまとったあの五十絡みの男の顔につながった。確かにその生死を確認まではしていなかった。
(明らかにお前の存在を知っているな。でなければ私の血を持っていても、あんな素早い反撃などできはしまい)
アセリナは先の疑問を問い直した。
「あれは、なんなの?」
(血だ)
「血?」
(そうだ。私のな)
声は嬉しそうに答えた。その意味することを理解したアセリナは、眉間の皺を深くした。
「あれがあなたの肉体の持つ力? でもどこからそんなものを……」
(知らんよ。だが、どこぞの封印から漏れているのだろう。今のお前のようにな)
声が皮肉な笑みを含む。しかし敵の力の正体を知ったアセリナの心にあったのは、留保した決断の天秤の揺らぎだった。
敵の目的はジャミルだ。アセリナはジャミルを見捨てる気など持ち得なかった。だが、アセリナの理解通りならば、敵の力は今の自分を確実に上回る。
では?
(まだためらうか? 望むことを選べばよいだけだろうに)
幸福の幻。
惨劇の傷。
抱き触れた良人のぬくもりに、泣き濡れた女の悲嘆。
天秤は揺れ動く。
「ああ…ハンス。私は、どうすればいい……?」
そのとき、揺れるアセリナの瞳にその姿が映った。
「ハン…ス?」
駆ける足を止めたアセリナがそこに見たのは、過去の幻影の現身だった。
「……アセリナさん」
脇腹を押さえてうずくまる、ジャミルの姿がそこにあった。