「翻弄される者たち」1
鼻の粘膜にじっとりとへばり付く濃厚な血の臭いに慣れる頃になっても、その死体は見つからなかった。
「こいつも違うか……」
弩の太矢に背中を貫かれた死体は逃げる途中だったのだろう、俯せに倒れ失血に意識を失っていく混濁の表情で事切れていた。
その土に汚れた顔を覗き込む自分の姿が、色を失った瞳に映っていることに気付いたエミリアは思わず顔を背けた。
陽の光が目に刺さる。
(青い――)
雲のない空にトビが一羽舞っている。
陽射しの下に柔らかな銀髪が砂金を散りばめたかのような色つやできらめいた。紺碧の空がエミリアの青い瞳に深い色のしじまを映す。彼女はしばらく空を見上げ、トビが舞い去るのを見送った。
このトビを追うようにして立ち上がったエミリアの周囲には、百を超える屍が転がっていた。その屍の一つ一つの顔を数人の兵士が調べている。その様子からまだ目的の死体は見つかっていないようだった。
風もなく血に澱むこの空気が、抜けるように青く広がるこの空と繋がっていることに、エミリアは違和感を覚えた。
この屍の幾人を手に掛けたのか。興奮が底冷えた今、その事実が震えとなってエミリアの肌を粟立てていった。
(為すべきことをしただけだ……。知っている顔がなかったことだけでも幸いか……)
エミリアが腕を抱いて震えを落ち着けていると、三騎の馬影が屍を踏み分けて近付いて来るのが見えた。
二人の騎士を従えた先頭の男は、フードを目深に被り黒の長衣に身を包んだ姿から、遠目からでも術士であると知れた。この軍で騎士を従えられるほどの術士といえば、筆頭宮廷術士にして名家オイガン家の当主ワザン・オイガンただ一人である。
「見つかったか?」
馬上から短く問うワザンにエミリアは無言で首を横に振った。その態度にワザンは顎髭をしごいて笑った。
「不服か?」
頬が削げ薄い皺が走った顔に、白いものの混じった縮れた髭を持つワザンの容貌は、大貴族の当主としてはいささか貧相であったが、エミリアを見据える眼光だけは、人を操ることに長けた者が持つ、特有の鋭さを感じさせた。
「エステ家の当主であるこの私が、馬から降りて死体漁りをすることに喜びを感じるとでも?」
エミリアの皮肉にワザンは大笑した。
「それがエステ家の置かれた立場だということだ。不服であるなら働いてみせろ。そのためにお前をここまで連れてきたのだからな」
笑みを消したワザンは、エミリアの後ろ手に結われたつややかな銀髪を、甲冑に包まれたしなやかな肉体を、ワザンを見返すしたたかな碧眼を見定めるかのように眺め、馬から身を乗り出し彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
「私はな、エミリア。お前に期待しているのだ。何のためにお前を生かし、この五年お前を育てたか――忘れるな」
エミリアの顔の強張りを楽しむようにワザンは鼻を鳴らした。
「これだけ捜しても見付からぬのだ。生き延びたと考えるのが妥当だろう。追撃の部隊を増やすぞ。特に山林の捜索を強化しろ」
ワザンは素早く指示を出し二人の騎士が伝令に駆けて行く。
「しかし、お前の兄もつまらんものを担ぎ出してきたものだな。なあ、エミリア」
ワザンは笑いながらエミリアに振り返った。
「私を失望させてくれるなよ」
ワザンを敬礼して見送ったエミリアは強く地面を踏み付けた。