「魔女の森」4
魔女の森へジャミルの捜索に入って三日目、ワザンたちは森の中に人家を発見した。
人が住まぬはずの森にあるその家を、ワザンが遠視の演算で観察すると、果たして開かれた窓の内にジャミルの姿を確認できた。そしてその傍らに座り、ジャミルと話している女の姿を見て、ワザンは戦慄とも興奮ともつかぬ震えが、背筋を走り抜けていくのを感じた。
(……魔女だ)
その女は三十年前に、あの森の泉で遭遇したときと変わらぬ、妖艶なまでに美しい外貌を保っていたのだ。
(あるいは魔女の子孫か何かと思っていたが、まさか本人なのか……。不老不死の秘術でも知っているというのか? ……いや、今はそれよりも想定通りになったこの最悪の状況をどうするか……)
自問するワザンにエミリアが問い掛けた。
「仕掛けますか?」
ワザンは首を横に振った。
「夜を待つ」
その声に思いの他に含まれた苦りに、ワザンは自分の怯懦を鼻で笑った。
ワザンの指示に待機するエミリアの顔は、硬く張り詰めていた。
何故魔女がジャミルを助けたのか分からなかったが、このままでは魔女との戦闘は必死であった。そこで少しでも魔女の隙を突くつもりだろう、ワザンは夜襲を選択した。この魔女を警戒するワザンの慎重は、自然に緊張を部隊全体に与えていた。
すでに夜の帳は、森の底からはい上がるように広がっていた。梢に透ける空は茜色から濃紺へと移り変わっていく。湿る空気は急速に冷気を帯び、じりじりと肌に迫ってくる。
エミリアの手には、小瓶が握られていた。その中にはぞわぞわと蠢く黒い液体が容れられている。
(こんなものが、役に立つというのか……)
エミリアはその不気味な液体を渡されたときの、ワザンとのやり取りを思い返した。
「竜の血だ」
「竜?」
それは捜索へ出る直前のことである。エミリアを呼び寄せたワザンは、黒い液体を取り出して、そう説明した。
「竜と言いますと、あの神話の怪物ですか?」
竜といえば神話の時代に、人間を支配していたとされる、黄金に輝く漆黒の怪物のことである。この怪物が七人の賢者の手によって倒されたときから、人の世は始まったとされている。
しかし、ワザンはエミリアの問いに肩をすくめただけだった。
「さあな。これを私に渡したものはそう呼んでいた」
「なんなのです?」
「エーテルの素だ」
「素?」
ワザンは説明を続ける。
「神の理法であるエーテルは、神の意志に従って物理法則を構築している。我々はそのエーテルの一部を書き換え、異なる物理現象を演算している訳だが……」
ワザンは瓶を顔の高さまで掲げ、黒い液体を軽く揺らしてみせた。
「しかしこの液体には神の意志は通っていない。無垢な状態のエーテルであるらしい。……この意味がわかるかな?」
答えられないエミリアにワザンは不敵な笑みを浮かべる。
「思いのまま、ということだ」
闇が降りた。夜色に塗り潰された空が、細い月光を浮かべる。そろそろ合図があるだろう。エミリアは小瓶を握り直した。
魔女が現れたら、この「竜の血」と呼ばれる液体を使えとワザンは言った。もともとは反乱鎮圧に手間取ったときの保険として持ってきたものだった。使い方次第では戦場を一撃で覆すほどの威力を発揮するという。
(使い方次第か……)
この液体がワザンの言う通りのものならば、確かに使い方次第では、今までのエーテル技術の蓄積など、すべて無為なものにしてしまうだろう。
(最後のチャンスということだろうな……)
この切り札をエミリアに渡したワザンの真意を考えたとき、エミリアは否応なく自らの非力さを恨まざるを得なかった。ここで手柄を立てられなければ、ワザンとて保身のためにエステ家を見捨てるだろう。
(しかし……)
再び小瓶を見遣る。エミリアはこの「竜の血」と呼ばれた得体の知れない液体の効力に半信半疑だった。
(ワザンが切り札としているんだ。間違いはないはずだけれど……後は私がこれをいきなりで使えるかだな)
夜闇に染まった空を、見上げていたワザンが立ち上がった。もはや影にしか見えぬワザンの姿は、その長衣をゆったりと挙げ、大きく右へと袖を振った。
合図だった。
待機していた兵たちが呼応して、家を囲むように速やかに右へ右へと広がっていく。
「行くぞ、エミリア」
ワザンはエミリアの肩を叩き、その横を走り抜ける。エミリアも跳ねるように起き上がり、ワザンの後ろを駆けた。