「魔女の森」3
「サンドロ、逃げろ!」
宙に複数の演算が浮かんだ瞬間、ワザンは森を満たした強烈な殺気に、思わず叫び声を上げていた。
(本当に魔女だというのか!)
ワザンはかつて経験したことのない尋常ならざる威圧感に、この自問がおそらく正しいものであることを本能的に感じていた。
その女に会ったのは魔女の森に入って二日目のことである。
魔女の森に入ったワザンとサンドロは、昼なお暗い森の道なき道を、鉈を振るい蔦を切り、枝を打ち払いながら森の奥深くへと進んで行った。
そして森の奥に泉を見つけた。鬱蒼とした梢の連なりに遮られた陽射しが、泉の上にぽっかり開けた木々の切れ間から差し込み、まばゆいばかりに水面をきらめかせていた。
その泉に女がいた。
水を浴びていたのだろう一糸もまとわぬその女は、白い肌を真珠の如くに飛沫で飾り、濡れ髪を黒地の金紗の如くに輝かせ、気まぐれに舞い降りた天女のように二人の前に現れた。
驚きに息を飲み、その女と視線を交えたそのとき、ワザンはその瞳が金色に輝くのを見た気がした。
次の瞬間、虚空に演算が展開された。見たこともない術式で構成された演算は、未だかつて感じたことのない殺気をともなっていた。
「サンドロ、逃げろ!」
殺意が地面を走る感覚に素早く身を翻したワザンが、数瞬前にいた場所に光条が突き刺さった。光は瞬時に下草を焼き払い、白煙と共に焦げた土の臭いを放つ。
「おのれ!」
ワザンは反撃の演算を展開する。相手は水の中にいる。距離はあるがワザンは水爆の演算を組み、泉に向かって投げ放った。この演算は、水の瞬間蒸発による急激な体積増大を利用して爆発を生み出す。あの泉の水量ならば、必殺の一撃になるはずだ。ワザンにそう判断させるほどの脅威を、その殺意は放っていた。
しかし、ワザンは我が目を疑った。
女は軽く数文字の演算を作るとワザンの放った演算にぶつけ、この演算の要である水を蒸発させるための熱の術式を書き換えてしまったのだ。ワザンの演算は何の効果も生み出すことなく水に消えてしまった。
演算の書き換えは可能な技術であるし、ワザンもこの技を用いたことはある。しかし大概は大量の無意味な術式をぶつけることで、相手の演算が現象を導き出すのを妨害する程度の技である。技量があれば妨害式を排除し、演算を完了させることも可能であった。だがこの女は、鮮やかにもわずか数文字の演算で自分の演算を解体してしまった。こんなことはワザンの経験にはない出来事だった。
(……これは本物だ)
ワザンの背筋に冷や汗が伝った。
女は泉から上がり右手を差し上げると、その水の滴る長い腕を振るった。呼応して再び浮かんだ複数の演算の間に、次々と光が走り渡るのをワザンは見た。
「ワザン様!」
その光の連続を見終わることなく、ワザンの身体はサンドロに押し倒された。
「サンドロ!」
閃光が走った。刹那に眩んだ白い視界が輪郭を取り戻すと、そこには半身が赤く焼け爛れたサンドロの姿が見えた。
「……お逃げ下さい……ワザン様……」
苦悶の表情で、なお主人を気遣うサンドロに、ワザンはその身体を肩に担いで跳ね起きた。
「お前もだ、サンドロ!」
女が再び腕を動かす。ワザンには女の用いる演算を読み解くことはできなかったが、その効果からこの演算の性質が光と熱を操るものであることは理解できた。
(ならば光と熱を遮れば――)
数行の文字列がワザンから放射状に発せられると、周囲一帯に濃い霧が発生した。それは気温を瞬間的に数度下げるという、初歩的な演算だったが、この森のように湿度の高い場所ならば、急激な温度変化で霧を生み出すことが可能だった。
霧は光を遮り熱を奪う。この隙にワザンは走った。サンドロを担ぎ、力の限り走った。
しかし女は霧などまるで構いはしなかった。
背中から射す強烈な光に振り向いたワザンは、その目に映るでたらめな光景に絶望を吐き捨てた。
「くそったれ!」
霧を払い姿を現したのは、金色に輝く灼熱の爆炎だった。
おそらく未知のエーテル理論を利用して生み出されたであろう、視界を覆い尽くすほどに巨大な金色の炎は、発する熱だけで周囲の木々を燃やしもせずに炭へと変えていく。
(金色の魔女――)
この美しい色に禍々しく輝く炎を前に、ワザンは諦念に魅入られ、骨もなく消え去るであろう最後の瞬間を、逃げる足も止めてただ待つだけだった。
そのときサンドロが身じろいだ。
肩に伝わるサンドロの重みに、ワザンの思考は弾かれたかのように回転し、眼前に演算を急速に展開させた。
「耐えろよ、サンドロ!」
演算は周囲の空気を集め、瞬間的に爆発させた。
空気が壁となりワザンの身体を吹き飛ばした。骨の軋みが全身を震わせ、光景の全てが流れ滲む。木々の枝葉が肌を引き裂く痛みを越えると、そこは真っさらな空だった。
サンドロを抱えたワザンは空を漂っていた。
眼下に広がる森の一角が光った。光は弾け黒煙が立ちのぼる。
(……生きている)
ワザンは森に燃え広がる炎を眺めながら、沸々と込み上げてくる生の喜びに叫び声を上げた。
「オレは生きてるぞーっ!」
自ら生み出した爆風に打ち付けられた身体は、声を出しただけで全身に軋むような痛みを走らせたが、それすらも喜びに感じるほど、ワザンの気は高ぶっていた。
空を渡る二人の身体は徐々に失速する。最高点に達した瞬間、ワザンはふわりと浮かび、一切の重みが消え失せた。
「生きている! 生きているぞ、サンドロ!」
浮遊感と昂揚感に沸き立つワザンは、しばらくサンドロの無反応に気付かなかった。
浮かんだサンドロの身体が、再び地上に引かれて肩に重みを伝え出す。
「……サンドロ?」
ワザンはよぎった不安を声に漏らしたが、返るものは何もなく、加速度を増していく落下に合わせて膨らむ焦燥に、ただ心を灼くだけだった。
「……魔女か」
日没に泥む残光が、やがて夜気に溶けて天幕の色を暗闇へと引き込んでいった。夜の侵食に肌寒さを覚えたワザンは、傍らに掛けてあった外套を羽織ると、再び文机の上に置いたガラスの瓶に目をやった。
ランプの灯りに照らされたその厚手の瓶には、黒い液体が詰まっている。それは漆黒よりもなお暗く、泥寧よりもなお澱み、時に黒虫の塊の如くに蠢動したかと思えば、また無機質な鉄塊の如くに瓶底に沈んだ。それが何であるのか見る者の理解を拒む、得体の知れない液体だった。
ワザンは瓶を取り上げると、しばらく黒い液体が見せる不思議な動きを眺め、やがてため息を一つ吐くと、誰にともない呟きを漏らした。
「これを使えば、お前の仇も取れるかも知れんな……サンドロ」
天幕に映るワザンの影は、ランプの灯りに朧に揺れた。