「出会い」6
話を終えたジャミルは少し疲れたのか、ため息を一つこぼした。
気付けば窓の外に日は傾き始め、暗がりの増す部屋に、赤い斜光が最後の色を染めた。
じりじりと夜が染み込む中、アセリナは幾度も、ある一つの決定的な、けれど酷く衝動的で、理性によらない、そして必ず悲劇を招くだろう言葉を発しようとしたが、ついにそれは言葉にならず、沈黙のままうつむくだけだった。
やがて日は落ちた。
「……ごめんなさい。食事がまだでしたね。これから用意しますから……」
「いや、いいよ。こんな暗くなったのはオレの話が長かったせいだから」
立ち上がろうとするアセリナをジャミルは遮ったが、アセリナは首を横に振り、ランプに火を灯すと部屋を出た。
(いじらしいな)
台所へ向かう途中にアセリナは笑い声を聞いた。
「笑えばいいわ」
(相変わらず覚悟がないな。素直に感情に身を任せればよいものを……。あの男の命を助けたときのようにな)
虫の囁きしかしない夜の静寂を妨げることなく、その声はアセリナの心にしか聞こえなかった。
(離れたくないのだろう? あんなに可愛いげのあるお前の姿は初めてだったぞ)
からかいの言葉に唇を噛むアセリナは、しかしそのからかいを完全に否定できる心を持たなかった。
ジャミルの顔を見た瞬間、蘇った甘い記憶。
それが感傷であることをアセリナは知っていた。けれどそれは決して棄てられぬ、大切な大切な、心の底にしまわれた記憶だった。
(……お前の心はいつまで経っても灰にはならぬな)
失望のこもった声にアセリナは足を止めた。
(怒りに身を委ね切れず、愛情に溺れ切れず、哀惜も棄て切れない。その中途半端な感情で、お前は何を求めるのだ?)
アセリナは自分の胸に手を当てた。
そこにわだかまる記憶は、瓦礫の廃墟と屍の、炎に揺れる崩れた景色の真ん中で、動かぬ我が子を抱いた女の、悲しみ震える血染めの泣き声だった。
アセリナの息は深く沈んだ。
「……私に何かを求める権利なんてないわ。彼を見送って、それでおしまいよ」
声は嘆息した。
(それでさっきはだんまりか? 素直になれ。心は叫んでいたぞ? 「あなたを助けたい」とな。力ならいくらでも貸すというのに……)
アセリナは首を横に振った。
「あなたの力は過ぎるのよ。人の世にあってはならない力だわ。……だからあなたはここで、永遠に封印されなければならないのよ」
アセリナの決然とした言葉に声は問う。
(それでもあの男をここに招き入れたのは何故だ? あの男がお前の力に気付くとも知れぬのに。周りに倒れていた奴らと同じように見捨てればよかったのではないのか? 今までもそうしてきただろうに。それとも余計な噂が流れぬよう、あの男もここに閉じ込めてお前の慰みものにしてしまうか? ……それもそれで面白いがな)
アセリナは押し黙った。理由はあまりにも明白だったからだ。だからこそアセリナは、ジャミルをこれ以上助ける訳にはいかなかった。
沈黙するアセリナに声は突然大仰な調子で歌い出した。
……ああ!
燃え尽きる程に心を焦がし
灰となる程にその身を焼けば
私は貴方に残るのだろうか!
例えこの昂揚が風に散り
空に消えてしまうものだとしても
貴方の側に在ったこの一瞬は
必ずや燃え残り
再び私を焦がすだろう!
アセリナの心の内を駆ける歌は余韻を残して沈黙に消えた。
アセリナは呆れた様子で聞いた。
「何の詩よ」
(昔の知り合いに詩人がいてな。今のお前にふさわしい詩だと思ったのだが、お気に召さなかったかな?)
アセリナはにべなく言い捨てた。
「下手な詩ね」
(三流詩人だったからな)
もう声には構わず、アセリナは台所に足を進めた。ランプに照らされた台所には、下ごしらえの途中で放置された芋が転がっていた。皮のむかれた芋は空気に触れて黒く変色している。
(駄目だな、こりゃ)
アセリナは猪の干し肉を切り出して塩をまぶした。そして肉を左手で吊り下げ、右手をかざす。すると赤い文字が手の平に浮かび上がり、肉の炙られる香ばしい匂いが辺りに漂い出した。
それはまがうことなき演算だった。
ほどよく炙られた肉を、ちぎった青菜と一緒に今朝焼いた木の実の粉で作ったパンに挟み込む。
(ほー、よく考える)
パンに水を添え、盆に載せてジャミルの元に運ぶ。
(まったく、甲斐甲斐しいことだな。ところで気付いているかな? 森に誰か立ち入っているようだが……)
アセリナは眉をひそめると、盆を床に置き外に出た。わずかな月光に輪郭だけが映る闇の中を、見透かすように神経を集中させる。アセリナの耳は森閑に潜み伝わる小さな足音を捉えた。
(恋する乙女の逢瀬の時を邪魔するとは、無粋な客だな)
「黙りなさい」
(おお、怖い)
音の聞こえた方に向かって、アセリナは月明かりも届かぬ森闇の内に足を踏み出した。