錆びた誓約
薄暗い訓練場に、規則的な風切り音が響いている。
剣先が空気を裂く音だ。アレンは木剣を上段に構え、無駄のない動作で振り下ろす。踏み込む足の角度、体重の移動、手首の返し。すべてが精密機械のように正確だった。額から流れ落ちた汗が冷たい石畳の床に染みを作っても、彼の表情に変化はない。ただ、目の前にある見えない標的だけを冷徹に見据えていた。
彼が所属する王国第一騎士団の起床時間まで、まだ一時間以上ある。この早朝の単独訓練は、アレンが王都の騎士となってから一日たりとも欠かしたことのない日課だった。
「またお前か。少しは休むということを知らないのか」
背後から降ってきた声に、アレンは剣をピタリと止めた。振り返ると、分厚い外套を羽織った同僚のバルトが呆れたような顔で立っていた。手には二つのマグカップが握られ、そこから白い湯気が立ち上っている。
「目が覚めただけだ」
アレンは短く答え、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭った。
「毎日同じ時間に目が覚める病気なら、一度軍医に診てもらった方がいい」
バルトは苦笑し、一つのマグカップをアレンに差し出した。「飲め。ただの白湯だが、冷え切った体にはマシだろう」
アレンは無言で受け取った。陶器の温もりが、悴んだ指先にじんわりと伝わってくる。
「お前のその剣への執念には恐れ入るよ」バルトは自分のマグカップに口をつけながら言った。「だが、いくら腕を磨いても、相手が血の通った人間でなければ意味がないかもしれないぞ」
人間ではない。その言葉に、アレンの指先が微かにピクリと動いた。
「……例の噂か」
「ああ。北の国境付近に出没しているという、帝国の新しい部隊の話だ。生き残った偵察兵の報告書を読んだ。痛覚がなく、致命傷を与えても動きを止めないらしい。先頭に立っているのは、不気味な鉄仮面を被った男だそうだ」
アレンは白湯の水面を見つめたまま、何も答えなかった。
帝国。その二文字を聞くたびに、彼の胸の奥で重く冷たい塊が脈打つ。十年前、彼の全てを奪った国。
「上が対応を協議している。近いうちに、俺たちの部隊に討伐の命令が下るだろう」バルトの顔からからかうような笑いが消えていた。「気を引き締めておけよ、アレン。今度の敵は、これまでの帝国兵とは毛色が違う」
「問題ない」
アレンは残りの白湯を一気に飲み干し、マグカップをバルトに返した。
「相手が何であろうと、斬るだけだ」
再び木剣を構えるアレンの背中を見て、バルトは小さくため息をつき、訓練場を後にした。
一人になった空間で、アレンは再び木剣を振り下ろし始めた。
『剣は、守るべき者のために振るえ』
十年前、父はそう教えた。しかし、現在のアレンの剣に宿っているのは、守るための意志ではない。冷え切った殺意だった。鉄仮面だろうが、不死身の怪物だろうが関係ない。帝国の紋章をつけている者は、一人残らず排除する。それだけが、彼が生きる唯一の理由だった。
その後も、アレンは黙々と素振りを続けた。
千回を超えたあたりで、周囲の空気がわずかに変わり始めた。東の空が白み、冷え切っていた訓練場に微かな朝の光が差し込んでくる。それに呼応するように、遠くの兵舎から兵士たちのざわめきや、鈍い足音が聞こえ出した。騎士団の起床時間が訪れたのだ。
アレンは大きく息を吸い込み、肺の奥まで冷たい空気を満たしてから、ゆっくりと吐き出した。それに合わせて、最後の一太刀を静かに振り下ろす。ピタリと止まった木剣の切っ先は、一ミリのブレもなかった。
構えを解き、手ぬぐいで顔を拭いながら木剣を所定の棚に戻す。全身は汗で重く、薄手のシャツが背中に張り付いている。高鳴っていた心音が徐々に平常の脈動へと戻っていくのを確かめながら、彼は訓練場に併設された洗い場へと向かった。
備え付けのつるべで冷たい井戸水を汲み上げ、手桶にとって頭からかぶる。凍りつくような水の冷たさが、火照った筋肉と、頭の奥にへばりついていたどす黒い感情を一時的に麻痺させてくれた。
水滴を拭い、乱れた呼吸を完全に整えると、アレンは第一騎士団の兵舎にある自室へと向かった。
自室の窓の鎧戸を少しだけ開けると、薄暗い部屋に朝の光が筋となって差し込み、宙を舞う埃を照らし出した。部屋の中は殺風景なほど整頓されており、生活感というものがまるで欠落している。私物といえば、壁際に置かれた小さな机と、簡素な木製のベッド程度しかなかった。
机の前に座り、彼は革袋から手入れ道具を取り出した。古い油の特有の匂いが鼻をつく。
布に油を染み込ませ、愛用の長剣の刀身を静かに拭う。刃こぼれはないか、血脂の洗い残しはないか。指の腹で慎重に確かめていくその動作は、まるで機械の部品を点検する儀式のように正確で、一切の感情を挟む余地がなかった。
一通りの手入れを終えると、アレンは長剣を鞘に収め、机の一番下の引き出しを開けた。
そこには、彼が「私物」と呼べる唯一のものが収められている。黒ずんだ小さな木箱だ。
無言のまま蓋を開けると、色褪せた布の上に一本の古びた短剣が横たわっていた。
柄に巻かれた革は擦り切れ、刀身は中ほどで無惨に折れている。
十年前、帝国の奇襲によって故郷の村が焼き払われた数日後、焼け跡の灰の中から見つかったものだ。父が常に腰に帯びていた、護身用の短剣だった。遺体すら残らなかった父の、それが唯一の形見となった。
アレンは折れた刀身にそっと指を這わせた。金属の冷たさが、指先からゆっくりと体内に侵入してくる感覚があった。
目を閉じれば、父の大きな手が脳裏に浮かぶ。剣の握り方を教える時の、あの温かく、分厚いマメのある手。
『剣は誰かを傷つけるためではない。守るべきもののために振るうんだ』
耳の奥で蘇る父の声は、十年経った今でも少しも色褪せていない。だが、その言葉を脳内で反芻するたび、アレンの胸の奥には泥のような暗い感情が広がっていくのだった。
守るべきもの。そんなものは、十年前のあの夜にすべて灰になった。
自分の両手を見下ろす。度重なる戦闘と修練で皮膚が硬く変質したこの手は、かつての父のそれに似てきているかもしれない。しかし、この手がこれまでに奪ってきた命の数と、その感触を思い出すと、ひどく冷え切った虚無感がこみ上げてくる。
自分はもう、父が望んだような誇り高き騎士ではない。帝国兵を一人残らず駆逐する。その目的のためだけに生み出された、ただの刃だ。父の教えを決定的に裏切っているという自覚そのものが、かえってアレンの殺意を氷のように冷たく、研ぎ澄まされたものにしていた。
アレンはゆっくりと息を吐き出し、木箱の蓋を閉めた。それを引き出しの奥深くへ押し込む。過去の亡霊と向き合う時間は終わりだ。
その直後だった。控えめだが、硬質なノックの音が部屋の扉を叩いた。
「アレン副隊長」
扉の向こうから、若い伝令兵の緊張した声が聞こえた。
「団長がお呼びです。第一会議室へ至急向かってください。北の国境の件で、重要な通達があるとのことです」
「……わかった。すぐに行く」
アレンは椅子から立ち上がり、手入れを終えたばかりの長剣を腰に下げた。
扉を開けて廊下へ踏み出した彼の顔にはすでに、いかなる感情の揺らぎも浮かんでいなかった。
第一会議室の重厚なオーク材の扉を開けると、部屋の中にはすでに数名の幹部が集まっていた。空調の効きが悪い室内には、安葉巻の煙と、羊皮紙の古びた匂いが淀んでいる。
中央の長机の奥に座っていたのは、第一騎士団を統括するウォレス団長だった。灰色の髪を短く刈り込んだ初老の男で、その眼光は猛禽類のように鋭い。彼は机の上に広げられた北の国境地帯の地図から視線を上げ、入室してきたアレンを見た。
「来たか、アレン副隊長。掛けてくれ」
ウォレスの低い声が室内に響く。アレンは無言で一礼し、指定された末席の椅子を引き出した。背筋を伸ばして座る彼の表情からは、先ほどまでの激しい訓練の疲労は微塵も感じられない。
「単刀直入に言う」ウォレスは手元の分厚い報告書を指先で叩いた。「北の防衛線が突破された。第六砦が陥落し、守備隊は全滅だ」
同席していた数名の幕僚たちの間に、重苦しい沈黙が落ちる。第六砦は険しい岩山に築かれた天然の要害であり、そう簡単に落ちるような場所ではない。
「敵の規模は?」アレンは静かに問うた。
「それが問題なのだ」ウォレスの眉間に出た深い皺が、事態の異常性を物語っていた。「報告によれば、砦を落としたのはたった一箇中隊……いや、実質的には『一人の騎士』に蹂躙されたに等しいという」
ウォレスの合図で、傍らに立っていた副官が資料を配り始めた。アレンの手元にも一枚の羊皮紙が置かれる。そこには、乱れた筆跡で描かれたスケッチと、走り書きの報告が記されていた。
全身を分厚い漆黒の鎧で覆い、顔には一切の装飾がない不気味な鉄仮面を被った巨大な騎士。
「黒鉄の騎士、と前線の者たちは呼んでいるらしい」ウォレスが葉巻を灰皿に押し付けながら言った。「帝国の新しい玩具だ。痛覚を麻痺させ、恐怖心を消し去る薬物か魔術を施された『生体兵器』だろう。腕の立つ捕虜などを洗脳し、理性を奪い、ただ殺戮だけを目的とする機械に変えたのだ」
「生体兵器……」アレンは羊皮紙のスケッチを見つめながら、その単語を口の中で転がした。
「極めて非人道的で、反吐が出るやり方だ」別の幕僚が吐き捨てるように言った。「だが、厄介なことに戦闘力は規格外らしい。弓を射掛けられようが、肉を斬られようが、歩みを止めず無表情に剣を振るい続ける。第六砦の守備隊は、その異常性に恐慌状態に陥り、一気に瓦解した」
ウォレスは再び地図に目を落とした。
「敵の進軍速度は異常だ。背後の補給線すら無視して、一直線に王都を目指しているように見える。このままでは、三日後にはルビコン平原で我が軍の本隊と衝突することになる」
そこでウォレスは顔を上げ、アレンの目を真っ直ぐに射抜いた。
「第一騎士団に出撃命令が下った。我々が先陣を切り、ルビコン平原で奴らを迎え撃つ。アレン、お前の部隊を最前線に配置する。目標は敵の先陣……その『黒鉄の騎士』の完全な破壊だ」
「破壊、ですか」
「そうだ。討伐ではない。あれはもはや人間ではない。帝国の造り出した狂ったからくり人形だ。情けは無用だ。確実に機能停止させろ」
冷酷な響きを持つ命令だった。かつて同じ人間だった者に対する哀れみなどは微塵もない。ただの危険な障害物として処理せよという、軍の上層部らしい冷徹な判断だ。
しかし、アレンの心境も彼らと全く同じだった。
「承知いたしました」
アレンの返答には、一切の躊躇がなかった。彼の声は、室内の誰よりも冷たく、そして澄んでいた。
「生体兵器であろうと、帝国の手先であることに変わりはありません。私の剣で、確実に両断します」
ウォレスは満足げに頷いた。「頼りになる男だ。お前のその『迷いのなさ』が、今回の任務には不可欠なのだ」
迷いなど、あるはずがない。
アレンは羊皮紙に描かれた不気味な鉄仮面を無感情に見下ろした。帝国への憎悪が、静かに、しかし確実に彼の血を沸き立たせていく。この怪物を斬り伏せた先に、自分の復讐の道が続いている。誰であろうと、歩みを止めるつもりはなかった。
ルビコン平原に夜の帳が下りていた。
王国軍の本陣を囲むように無数の篝火が焚かれているが、平原を吹き抜ける冷たい夜風が炎を容赦なく煽り、光と影の輪郭を絶え間なく揺らしている。
陣幕の外れで、アレンは丸太に腰を下ろし、革のすね当ての留め具を静かに調整していた。金属の鋲が所定の位置にカチリと収まる、その微小な音と指先の感触だけを確かめる。周囲からは、馬のいななき、武具を磨く鈍い摩擦音、そして死を明日に控えた兵士たちの、どこか上擦ったような低い話し声が絶え間なく聞こえていた。
しかし、アレンの周囲だけは奇妙なほど静まり返っているように感じられた。
「嫌な風だ」
不意に頭上から声が落ちてきた。見上げると、バルトが腕を組み、平原の彼方――北の闇を見つめて立っていた。彼の顔には、王都にいた頃の余裕はない。篝火に照らされた横顔は、深い疲労と緊張に強張っていた。
「斥候からの最終報告が入った」バルトはアレンの隣に腰を下ろし、声を潜めた。「敵の先陣は、夜通し行軍を続けているらしい。松明も掲げず、暗闇の中をただ黙々と。まるで疲労という概念がないかのようにだ」
アレンは留め具から手を離し、視線を北へ向けた。暗闇の奥に潜む異常な行軍の様子を脳内で正確に組み立てる。
「本隊はどうなっている」
「それが奇妙なんだ」バルトは眉をひそめ、足元の小石を爪先で弾いた。「敵の本隊――皇帝の馬車を守る主力部隊は、先陣から大きく遅れている。補給線を維持するためとはいえ、あの『黒鉄の騎士』が率いる先陣だけが、異常な速度で突出している状態だ。軍事の常識からすれば、完全に孤立している」
「罠だと?」
「上の連中の一部はそう疑っている。だが、ウォレス団長の考えは違う。『あれは命令された座標に向かって直進することしかできない、狂ったからくり人形だ』とね。だからこそ、本隊が合流する前に、このルビコン平原で先陣を確実に叩き潰す算段だ」
アレンは無言のまま、腰の長剣の柄にそっと手を触れた。
孤立して突出する先陣。夜通しの行軍。確かに、人間が指揮する軍隊の動きではない。恐怖も疲労も持たない生体兵器だからこそ可能な、異常な戦術だ。
「なぁ、アレン」バルトが少しだけ声を震わせた。「俺たちは明日、本当に『人間』と戦うのか?」
その問いに、アレンはゆっくりと立ち上がった。
「相手が何であろうと同じだ」彼の声には、熱も、冷たさすらもなかった。ただの物理的な音の羅列のように、乾いていた。「向かってくるなら、斬る。それだけだ」
バルトは何かを言いかけたが、アレンの横顔を見て口をつぐんだ。その瞳の奥に、かつての同僚が持っていたはずの人間らしい感情の揺らぎが、一滴も残っていないことに気づいたからだ。
やがて、東の空の境界線がわずかに白み始めた。
それを合図にしたかのように、陣の奥から重々しい角笛の音が平原に響き渡る。起床と配置転換を告げる合図だ。篝火の周りで微睡んでいた兵士たちが、弾かれたように立ち上がり、金属音を響かせながら動き始める。
「時間だ」
アレンはバルトに背を向け、自らの部隊が待つ最前列へと歩き出した。
夜明けの冷気の中、平原の向こう側に、黒い染みのような敵の軍影が姿を現し始めていた。
アレンの歩みは一定だった。朝露を含んでぬかるんだ平原の土が、ブーツの底で規則的な音を立てる。
最前列の中央、第一騎士団の精鋭たちが盾を構えて立ち並ぶ列に彼が加わると、周囲の兵士たちの間に張り詰めた緊張が波のように伝わっていった。誰も言葉を発しない。ただ、吐き出す白い息の荒さだけが、彼らの内なる恐怖を雄弁に物語っていた。
朝靄の向こう側、平原の境界線を埋め尽くす黒い染みは、次第に明確な輪郭を持ち始めていた。帝国軍の先陣である。
普通、数千の軍勢が激突する直前には、士気を鼓舞するための怒号や、狂気を孕んだ鬨の声が上がるものだ。しかし、迫り来る帝国の黒い波からは一切の声が聞こえなかった。ただ、無数の甲冑が擦れ合う無機質な摩擦音と、機械のように揃った軍靴の地鳴りだけが、冷たい風に乗って平原を這ってくる。
距離が五百メートルを切った。
盾の隙間から敵影を見据えるアレンの眼差しには、やはり何の感情も浮かんでいなかった。ただ、敵の歩幅と速度から激突までの時間を頭の中で冷徹に計算しているだけだ。
「……構えろ!」
後方から、ウォレス団長の号令が響き渡る。同時に、王国軍の弓兵たちが一斉に弦を引き絞る鈍い音が鳴った。
空を覆うほどの矢の雨が放たれ、帝国軍の先陣に降り注ぐ。幾人かの兵士が倒れたはずだが、黒い波の進行速度は全く落ちなかった。倒れた者を後続が踏み越え、ただ黙々と前進を続ける。バルトが言っていた通りだ。彼らには恐怖も、痛みに対する本能的な躊躇もない。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、耳をつんざくような金属の衝突音とともに、両軍の最前列が激突した。
そこからは、血と鉄の匂いが支配する泥濘の混沌だった。
アレンは盾で敵の槍をいなし、滑るような踏み込みで相手の喉元に長剣を突き立てた。引き抜くのと同時に身を翻し、背後から迫った別の敵の関節を正確に斬り裂く。相手の表情を見ることはない。ただ物理的な障害物を排除する作業のように、アレンは無表情で血しぶきの中を前進していった。
開戦から数十分が経過した頃だろうか。
アレンはふと、自軍の右翼側の陣形が不自然に大きく歪み、崩れかけていることに気づいた。そこから聞こえてくるのは、剣戟の音というより、一方的な蹂躙に伴う悲鳴だった。
アレンは手近な敵を片付けると、血塗られた剣を下げたまま、騒ぎの中心へと向かってぬかるみを蹴った。
味方の兵士たちが、次々と宙を舞い、泥の中に沈んでいく。
その中心に、「それ」はいた。
周囲の兵士より頭一つ分は巨大な体躯。全身を分厚い漆黒の鎧で覆い、顔には目鼻の凹凸すらないのっぺりとした不気味な鉄仮面を被っている。
黒鉄の騎士。
噂に違わず、その動きは異様だった。味方の槍が鎧の隙間から脇腹に深く突き刺さっても、微塵も痛がる素振りを見せない。そのまま無造作に槍の柄を掴み、持ち主ごと引き寄せて自らの巨大な剣で両断した。
アレンの網膜にその光景が焼き付いた瞬間、脳内で冷たい警報が鳴った。
尋常な腕力と耐久力ではない。しかし、アレンの目を釘付けにしたのは、その強引な力任せの戦い方ではなかった。
――今のは、なんだ?
黒鉄の騎士が、周囲を取り囲んだ三人の王国兵を薙ぎ払うために、大剣を上段に振り上げた時だ。
アレンの足がピタリと止まった。
分厚い籠手に覆われた騎士の右手が、剣の柄を握り直すわずかな瞬間。
振り下ろすコンマ一秒前、騎士の右手から、意図的に小指だけがフッと離れたのだ。
それは手首のスナップを最大限に生かし、遠心力を極限まで高めるために柄の端を支点として利用する、極めて高度で合理的な剣術の予備動作だった。単なる力任せの化け物には絶対にできない、洗練された技術の結晶。
見間違えるはずがない。
アレン自身の右手の小指が、無意識のうちに剣の柄で同じ動きをなぞっていた。
十年前、血の滲むような素振りの末に、父から教え込まれた「双月の構え」の根幹を成す独特の癖。王国騎士団の正統な剣術には存在しない、父と自分しか知らないはずの緻密な身体操作だった。
ドクンと、アレンの胸の奥で、長らく凍りついていた何かが、ひび割れるような嫌な音を立てて脈打った。
黒鉄の騎士が、返り血で濡れた鉄仮面をゆっくりとこちらへ向ける。
アレンは無意識のうちに、剣の切っ先を下げていた。呼吸が、浅く、速くなっている。
全身の血が、一瞬にして凍りついたかのような錯覚に陥った。
だが次の瞬間、鼓膜を裂くような味方の絶叫が、アレンを泥と血の臭いが立ち込める現実の戦場へと引き戻した。
黒鉄の騎士が再び大剣を振り上げ、逃げ遅れた王国兵の背中へ無慈悲に振り下ろそうとしていた。
アレンは泥を蹴った。
思考よりも先に体が動いていた。これまで保ち続けていた氷のような冷静さが、熱を帯びた得体の知れない感情によって急激に溶かされていく感覚があった。
「やめろ」
アレンの口から、自分でも驚くほど低く、殺意に満ちた声が漏れた。
踏み込みと同時に長剣を下段から跳ね上げる。狙うのは、大剣を振り下ろそうとしている騎士の右腕だ。鎧の隙間、関節のわづかな死角を突く完璧な軌道だった。
甲高い金属音が弾け、鈍い火花が散った。
アレンの長剣は騎士の腕を捉える寸前で、分厚い大剣の腹によって阻まれていた。巨体に似合わぬ、信じがたい反応速度だった。
それだけでなく、刃を交えた手首から伝わってくる特有の振動が、アレンの奥底にある記憶を激しく揺さぶった。単に力で押し返してきたのではない。騎士の大剣は、衝突の瞬間にわずかに刃の角度をずらし、アレンの剣の威力を横へと受け流していたのだ。
柔で剛を制す。父が編み出した双月の構えの防御術そのものだった。
至近距離で、のっぺりとした鉄仮面と対峙する。
息遣いすら聞こえない無機質な壁のような相手に対し、アレンの奥歯がギリリと鳴った。
偶然ではない。こいつは確かに、あの技を知っている。
帝国の生体兵器。捕虜を洗脳し、技術を抽出して作られた操り人形。会議室でのウォレス団長の言葉が脳裏に蘇る。
ならば、この怪物の思考回路に焼き付けられている技術は誰のものだ。十年前、父を殺し、その誇り高き剣技を奪って機械に移植したのは誰だ。
「貴様…」
アレンは剣を押し合わせたまま、刃の向こう側の鉄仮面を睨みつけた。
「その剣、どこで盗んだ」
だが、黒鉄の騎士は答えない。ただ機械的に大剣の角度を変え、圧倒的な腕力でアレンの体を弾き飛ばした。
後方へ数メートル滑るように後退し、アレンは泥にまみれたブーツでかろうじて踏みとどまった。腕は痺れ、呼吸は大きく乱れていた。肉体的な疲労よりも、精神的な動揺が彼の体力を急速に奪っていた。
黒鉄の騎士は追撃してこなかった。まるでアレンの存在など路傍の石であるかのように視線を外し、再び近くの王国兵へ向かって歩みを進めようとする。
アレンは濡れた柄を握り直した。
許さない。父の剣を、ただの殺戮の道具として振るうことなど絶対に許さない。
アレンの目から、王都を守るという本来の目的は完全に消え失せていた。ただ目の前の怪物を解体し、真実を引きずり出すことだけが、彼を突き動かす唯一の衝動となっていた。
怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、アレンは必死に堪えた。感情のままに剣を振るえば、あの合理的な防御の前に弾き返されるだけだ。
相手が父の技を完璧にトレースしているのなら、逆に付け入る隙はある。あの構えには、一つだけ致命的な弱点があった。父がかつて、アレンにだけ教えた欠陥。小指を離して遠心力を生み出すその一瞬、柄の下部にほんのわずかな死角ができる。
黒鉄の騎士が、無造作に大剣を振り被った。再び小指が離れる。
そのコンマ一秒の隙を、アレンは逃さなかった。
彼は防御を完全に捨て、泥に沈み込むほど低く前傾姿勢をとった。大剣が頭上を薙ぐ風圧を感じながら、下から突き上げるように長剣を繰り出す。狙ったのは柄ではなく、無防備になった騎士の顎下、兜の隙間だ。
鈍い衝撃がアレンの腕を貫いた。
刃は急所には届かなかったものの、兜の留め具を正確に破壊していた。
ガガッ、という耳障りな金属音と共に、不気味なのっぺりとした鉄仮面が真っ二つに割れ、泥の中へ転がり落ちた。
追撃の手を緩めず、アレンは二の太刀を浴びせるために踏み込もうとした。
しかし、足に根が生えたように動けなくなった。
割れた仮面の下から現れた素顔。
泥と返り血に汚れ、無精髭に覆われてはいたが、その顔の造作をアレンが忘れるはずもなかった。
十年前のあの夜、炎の中で自分を逃がしてくれた男。
記憶の中よりも随分と老け込み、深い皺が刻まれている。しかし、それは間違いなく父の顔だった。
アレンの呼吸が止まった。周囲の剣戟の音が、完全に遠のいていく。
「……父、さん……?」
無意識に漏れた声は、掠れて泥の中に吸い込まれた。
だが、目の前の父はアレンの言葉に何の反応も示さなかった。焦点の合っていない白濁した瞳が、ただ無機質にアレンを映し出している。そこには、かつての温かな光も、息子との再会に驚く感情も一切存在しなかった。ただ、自らの歩みを阻む障害物としてのみ、アレンを認識している。
父の右手が再び大剣の柄を握り直す。
殺意のない、純粋な破壊の意志だけが込められた冷たい刃が、動けないアレンに向かって静かに振り上げられた。
空を裂く大剣の軌道を、アレンはただ呆然と見上げていた。避けることなどできない。いや、身体が微塵も動こうとしなかった。父に殺される。その事実が、彼の生存本能すら完全に麻痺させていた。
頭蓋が砕かれることを覚悟した直後、横合いから凄まじい衝撃がアレンの身体を撥ね飛ばした。
泥水の中へ無様に転がり込んだアレンの頭上で、鋼と鋼が激突する甲高い悲鳴が響き渡る。
「何をしてる、アレン!」
怒声と共に視界に飛び込んできたのは、ひしゃげた盾を構え、片膝をついたバルトの姿だった。彼は歯を食いしばり、黒鉄の騎士――父の凶刃を間一髪で防いでいた。しかし、その顔は苦痛に歪み、盾を支える腕は限界を超えた軋み音を立てている。
「立て! 殺されるぞ!」
バルトの叫びにも、アレンの焦点は定まらなかった。泥まみれの視界の中で、ただ割れた仮面の奥の、虚無に包まれた父の目だけを見つめていた。
父は、邪魔に入ったバルトを冷徹に見下ろした。大剣をわずかに引き、再び無造作に振り上げようとする。バルトの盾は既に使い物にならず、次の防ぎ手はなかった。
だが、父の腕はそこから下りてくることはなかった。
不意に、後方から王国軍の陣形を大きく崩す怒号と悲鳴が連鎖して聞こえてきた。右翼の防衛線が完全に決壊したのだ。平原を覆う無数の帝国兵たちが、堰を切ったように王都方面へと雪崩れ込んでいく。
父はピタリと動きを止め、バルトとアレンから視線を外した。
まるで、足元の石ころに対する興味を失ったかのように。
父は泥にまみれたブーツの踵を返し、崩壊した右翼側へと向き直った。そして、倒れている息子には一度も振り返ることなく、無表情のまま、重々しい足取りで再び歩みを進め始めた。向かう先は、王国の心臓部である王都。
行く手を阻む王国兵が一人、また一人と無造作に斬り捨てられていく。その血しぶきの中を進む背中は、かつてアレンが幼い頃に見上げた、あの大きくて温かい父のものと同じはずだった。しかし、今のその背中からは、圧倒的な冷気と死の匂いしか感じられなかった。
「退け! 全軍、第二防衛線まで後退しろ!」
ウォレス団長の悲痛な撤退の合図が、ルビコン平原に鳴り響いた。
「アレン、立て! 退くぞ!」
バルトがアレンの胸ぐらを掴み、泥の中から強引に引きずり起こした。アレンは抗うこともせず、ただ引きずられるままに後退の列に加わった。彼の視線は、遠ざかっていく父の背中に釘付けになっていた。
なぜ生きているのか。
なぜ帝国の兵器として、味方を無慈悲に殺しているのか。
そしてなぜ、自分を見ても、その瞳には何の感情も浮かばなかったのか。
答えの出ない問いが、泥濘に沈むようにアレンの思考を黒く塗りつぶしていく。ただ一つ確かなことは、彼がこれまで十年間、ただ一つの心の支えとしてきた「復讐」という大義名分が、音を立てて完全に崩れ去ったということだけだった。
第二防衛線として急造された陣地には、敗残兵たちの重苦しい沈黙と、負傷者のくぐもった呻き声だけが充満していた。
夜を徹した雨は上がっていたが、灰色の雲が重く垂れ込め、平原の気温は容赦なく兵士たちの体温を奪っていく。
アレンは野戦病院の外れにある木箱に腰掛け、両手のひらをじっと見つめていた。爪の間に入り込んだ泥と血は、すでに黒く乾ききっている。いくら布で擦っても落ちないその汚れが、今の自分の内面を象徴しているように思えた。
「手当は受けたか」
頭上から降ってきた低い声に、アレンはゆっくりと顔を上げた。
ウォレス団長が立っていた。平原での激戦で甲冑は泥に塗れているはずだが、その立ち姿には微塵の揺らぎもない。背後には数名の護衛が控えていたが、ウォレスは彼らを身振りで遠ざけた。
「かすり傷です」
アレンは立ち上がろうとしたが、ウォレスは手でそれを制した。
「座ったままでいい」ウォレスはアレンの隣にある別の木箱に腰を下ろし、葉巻を取り出した。火はつけず、ただ指先で転がしている。「右翼が完全に崩壊した。敵の先陣は歩みを止めず、王都の喉元まで迫っている。本隊の到着を待たずに王都を落とす腹だろう。防衛線を再構築する時間はない」
淡々と戦況を語るウォレスの声は、まるで他人事のように冷ややかだった。
「前線で、お前があの黒鉄の騎士の面を割ったという報告を受けた」ウォレスの視線が、アレンの顔を鋭く射抜いた。「お前はそこで動きを止め、危うく命を落としかけたそうだな。バルトがいなければ、今頃は泥の中で肉塊になっていたはずだ」
アレンは答えなかった。視線を再び自分の両手に落とす。
「何を見た、アレン」
静かな、しかし有無を言わさぬ尋問だった。アレンは乾いた唇を開いた。声は自分でも驚くほど平坦だった。
「父でした」
「十年前の、あの奇襲で戦死したとされる、お前の父親か」
「はい。顔には深い皺が刻まれていましたが、間違いありません。剣の構えも、私に教えたものと同じでした」
ウォレスは短く息を吐き出し、手元の葉巻を無造作にへし折った。乾いた音が響く。
「帝国め。あの時の英雄を捕虜にし、十年間も生かし続けていたのか。そして記憶と痛覚を奪い、生体兵器に改造した。王国の象徴とも言える騎士を、我々自身の防衛線を食い破るための牙として使うとは。悪辣極まりない手口だ」
ウォレスの言葉は論理的で、事実だけを正確に切り取っていた。そこには、かつての英雄に対する哀悼の意も、運命に翻弄された息子に対する同情も含まれていない。組織を動かす人間特有の、冷徹な計算だけがあった。
「アレン」ウォレスはへし折った葉巻を地面に捨て、泥のついた軍靴で踏みにじった。「残酷な言い方になるが、あれはお前の父親ではない。帝国の呪術か薬物で動かされている、ただの肉の人形だ。過去の記憶も、お前への愛情も、そこには一欠片も残っていない」
わかっている。そんなことは、あの虚無の瞳を見た瞬間に理解していた。
だが、理屈で割り切れるほど、十年間胸に抱き続けた思いは軽くなかった。
「我々にはもう、カードが残されていない。あの怪物を正面から止められるのは、同じ剣術を知り尽くしているお前だけだ」ウォレスは立ち上がり、アレンを見下ろした。「私情を捨てろ。王都が火の海になる前に、あのからくり人形を完全に機能停止させろ。これが、第一騎士団団長としての最終命令だ」
それは、アレンに対して「自分の手で父親の息の根を止めろ」という明確な宣告だった。
アレンはゆっくりと立ち上がった。泥に濡れたマントが重く肩にのしかかる。
「承知いたしました」
その声に、感情の起伏は一切なかった。完全に凍りついた湖面のように、ただ冷たく凪いでいる。
「私の剣で、確実に両断します」
ウォレスは無言で頷き、背を向けて野戦病院から立ち去っていった。
一人残されたアレンは、腰の長剣にそっと手を触れた。
守るべきもののために振るえ。父の教えが、呪いのように耳の奥で響いている。
守るべき国のために、その言葉を教えてくれた父を殺す。これほど皮肉で、絶望的な運命があるだろうか。
アレンは空を見上げた。灰色の雲の切れ間から、薄暗い光が戦場を照らし始めていた。
王都へと続く街道は、すでに帝国軍の先陣によって無惨に踏み荒らされていた。
轍には赤黒い水たまりができ、空からは細い雨が降り始めている。
アレンは街道の中央に一人で立っていた。背後には、灰色の空の下に王都の城壁がそびえ立っている。ここを突破されれば、もはや国を守る手立てはない。
地響きのような足音が、灰色の靄の向こうから一定のリズムで近づいてきた。
やがて、ぬかるみの中から巨大な影が姿を現す。
漆黒の鎧。半分に割れた鉄仮面はすでに打ち捨てられたのか、その素顔は完全に露わになっていた。
父だった。
泥と血にまみれ、無精髭を蓄えた顔は、十年前の記憶にある温和な面影をかろうじて残している。しかし、両目は焦点が定まらないまま虚空を見つめ、瞬きすらしていない。まるで精巧に作られた死体だった。
アレンは静かに息を吸い込み、腰の長剣を引き抜いた。
濡れた鋼が鈍い光を放つ。
父の歩みは止まらない。アレンという存在を視界に捉えたはずだが、その顔には何の感情も浮かばなかった。ただ、自らに設定された直線上にある障害物を排除するためだけに、ゆっくりと右手の巨大な剣を上段に構えた。
一切の言葉はなかった。
親子の再会を祝う言葉も、十年の空白を埋める涙も、ここには存在しない。ただ、冷酷な物理法則と殺意だけが二人の間を支配していた。
父が踏み込んだ。
巨体に似合わぬ、滑るような踏み込み。空気を切り裂き、必殺の刃がアレンの脳天へと振り下ろされる。
アレンは逃げなかった。右足に全重心を乗せ、父の剣の軌道を見極める。
激突。
先ほどの平原での攻防とは違った。アレンは父の剣を真正面から受け止めることはせず、刃の腹を滑らせるようにして衝撃を横へと逸らした。金属が擦れ合う甲高い悲鳴が鼓膜を打つ。
体勢が崩れた父の懐へ、アレンは躊躇なく踏み込んだ。
狙うのは心臓だ。
しかし、父の反応もまた常軌を逸していた。振り下ろした大剣の勢いを殺さず、手首の返しだけで強引に軌道を変え、下からアレンの胴を薙ぎ払いにくる。
アレンは後ろへ飛び退いた。鼻先を分厚い鋼が通り過ぎる。
息をつく暇もない。父は機械のように正確な動作で、次々と斬撃を繰り出してきた。
アレンは防御に徹しながら、父の動きを冷静に分析していた。
恐ろしいまでの剣技。だが、それらはすべて、かつて父自身がアレンに教えたものだ。呼吸のタイミング、筋肉の収縮、視線の動き。次にどの角度から刃が飛んでくるか、アレンには手に取るようにわかった。
だからこそ、絶望的だった。
父の剣は、完全に完成されていた。十年前のあの夜から、戦場という狂気の中でひたすらに研ぎ澄まされてきたのだ。だが、その剣に宿るべき「守るための心」だけが、無惨に抉り取られている。
アレンは奥歯を噛み締め、湧き上がる感情を泥の底へ封じ込めた。
ウォレスの言う通りだ。あれはもう父ではない。過去の亡霊だ。国を守るため、自分はこの亡霊を物理的に解体しなければならない。
再び、父が大剣を大きく振り被った。
右手の小指が、柄から微かに離れる。遠心力を最大化するための、あの独特な予備動作。
アレンは待っていた。この一瞬の死角を。
彼は防御の姿勢を完全に解き、自ら死地へと飛び込むように前傾姿勢で突進した。
父の大剣が、アレンの左肩の装甲を砕き、肉を深く裂いた。鮮血が雨の中に舞い散る。
だが、アレンの動きは止まらなかった。肩の激痛を意志の力でねじ伏せ、全体重を乗せた長剣を、無防備になった父の胸当ての隙間――心臓の位置へと一直線に突き出した。
肉を裂き、骨を削る鈍い感触が、剣を握る両手を通してアレンの脳髄に直接伝わってきた。
時間という概念が、唐突に意味を失ったかのように感じられた。
降りしきる雨の音だけが、不気味なほど鮮明に耳に届く。
父の巨体が、わずかに痙攣した。
振り下ろされるはずだった大剣が、力なく右手から滑り落ち、泥水を跳ね上げて地面に突き刺さる。続いて、分厚い装甲に包まれた膝が、重々しい音を立ててゆっくりと折れた。
アレンは柄を握りしめたまま、膝をついた父の身体を真正面から支えるような体勢で立ち尽くしていた。深く突き刺さった剣の刀身を伝い、温かい血がアレンの革手袋を赤く染めていく。
その時だった。
兜の奥、虚無に支配されていたはずの父の両眼が、ゆっくりと瞬きをした。
白濁していた瞳から、分厚い膜が剥がれ落ちるように濁りが消えていく。そこに宿ったのは、殺戮を目的とする機械のそれではない。確かな痛みに耐え、目の前の現実を正確に認識する「人間」の理性の光だった。
「……手を、止めるな」
兜の奥から、血の混じった、しかし聞き覚えのある低い声が漏れた。
アレンは息を呑んだ。胸の奥で強固に築き上げていた冷徹な騎士の防壁が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「そのまま……とどめを刺せ」
父は、自らの胸を貫いているのが誰か――目の前にいるのが自分の息子であると完全に理解した上で、静かにそう言い放った。
アレンの両手が激しく震え始めた。柄を握る力が抜けそうになるのを、歯を食いしばって必死に堪える。
「なんでだよ……!」
絞り出すような声が、冷たい雨の降る街道に響いた。それは王国を守護する副隊長の声ではなく、十年前のあの夜から時を止めていた、ただの息子の慟哭だった。
「なんで、お父さんなんだよ!」
アレンの悲痛な叫びに対し、父はゆっくりと首を横に振った。血に染まった唇の端がわずかに歪み、どこか安堵したような、かすかな笑みの形を作った。
「……それでいい。私の役目は、ここまでだ」
「役目……?」
アレンの喉から、掠れた声が漏れた。理解が追いつかない。頭の中が泥水で掻き回されたように混乱していた。痛覚を消され、兵器として利用されていたからこそ、これほどの惨劇が起きたのではなかったのか。
「役目ってなんだよ。洗脳されて、帝国の操り人形になっていたんじゃないのかよ!」 父は一度静かに目を閉じ、そして再び開いた。その眼差しは、死を目前にしているとは思えないほど、静謐で、そして悲しいほどに澄み切っていた。
「……洗脳など、最初からされていない」
父の淡々とした言葉が、氷の刃のようにアレンの鼓膜を貫いた。
アレンは柄を握ったまま、呼吸すら忘れて硬直した。洗脳されていない。その言葉が意味するものが、即座には結びつかない。
ならばなぜ、無表情で味方の兵士たちを斬り捨てたのか。なぜ、故郷である王国を滅ぼすために一人で王都へと急いでいたのか。
父の息が、わずかに荒くなった。その口から、十年間雪に埋もれていた重く残酷な真実が、静かに語られようとしていた。
父は咳き込み、兜の隙間からどす黒い血を吐き出した。自らの胸を貫く長剣の刀身に両手を添え、痛みを逃がすようにゆっくりと息を吐く。その所作には、かつての王国騎士としての理知的な落ち着きがはっきりと宿っていた。
「十年前のあの夜……私は囮となって敵陣に突っ込み、生け捕りにされた」
雨音に混じるほどの低い声で、父の独白が始まった。
「帝国が欲していたのは、私を処刑して見せしめにすることではない。私の持つ剣術の型と、それを運用するための強靭な肉体だった。彼らは帝都の地下にある研究施設で、捕虜たちの自我を破壊し、痛覚を消し去る実験を繰り返していた」
アレンの背筋を、雨の冷たさとは違う悪寒が駆け上がった。
地下施設。光の届かない場所で、人間の尊厳を徹底的に剥がれ落ちていく兵士たちの姿が脳裏にちらつく。
「激しい拷問と、精神を崩壊させる薬物。それに耐えきれず、狂気に呑まれて本物の『からくり人形』になっていく同胞たちを、私は何人も見た。そこで私は悟ったのだ。どれほど強固な意志で抵抗しようと、いつか必ず脳髄を破壊される、と」
「だから……」アレンは無意識に呟いていた。「自ら、心を壊したふりをしたと?」
父は静かに頷いた。
「精神を弄られる前に、私は自らすべての感情を殺した。痛みに対する本能的な反応を力技で押さえ込み、恐怖を完全に遮断した。肉を焼かれようが、爪を剥がされようが、ただの一度も声を上げず、瞳孔の動きすらも制御して虚無を装い続けた」
どれほどの地獄だろうか。
アレンは想像することすら恐ろしかった。狂気のふりをするために、本物の狂気を自ら飲み込む。痛みを痛みとして感じながら、脳に一切の信号を送らないよう己の肉体を支配する。それは、死よりも過酷な自己欺瞞だったはずだ。
「彼らの与える命令には、一切の躊躇なく従った。それがたとえ、同じ王国の捕虜を斬り捨てる命令であってもだ」
父の言葉に、アレンの肩がビクンと跳ねた。
「……そうしなければ、私はただの実験動物として廃棄され、真の目的を果たす機会を永遠に失うからだ。私は感情のない肉塊になりきり、彼らの最も従順で、最も強力な『兵器』として最前線に投入されるようになった。鉄仮面を被らされ、名前を奪われ、鎖に繋がれた獣として生きる日々だった」
雨が強さを増し、二人の間の血だまりを洗い流していく。
父は顔を上げ、冷たい雨に打たれながら遠く王都の方角へ視線を向けた。
「数年が経つ頃には、帝国の軍上層部は私のことを完全に『完璧に仕上がった生体兵器』として盲信していた。私の行動には一切の人間らしい疑念が持たれなくなった。……それこそが、私の望んだ状況だったのだ」
父の視線が、再びアレンへと戻る。
十年間。光を奪われ、感情を殺し、味方の血を浴びながら、ただ一人の孤独な兵器として生き続けた男の目が、静かな決意を帯びて息子を射抜いていた。
「私は、帝国の最も奥深く、中枢に潜り込む必要があった。警戒の厳しい帝都の奥ではなく、彼ら自身が私を『最強の矛』として最前線の最も重要な局面に投入してくる、その瞬間を待っていたのだ」
父は泥にまみれた右手をゆっくりと持ち上げ、自らの胸当て――アレンの長剣が深々と突き刺さっている、そのすぐ横の分厚い装甲を指先で叩いた。
「帝国は、私の胸の奥に強大な爆発を引き起こす魔術の『核』を埋め込んだ。彼らの目論見は単純だ。王国の防衛線を私に突破させ、王都の城門をくぐった瞬間に起爆させる。私という無敵の兵器を囮にし、王国の心臓部ごと吹き飛ばす気だったのだ」
アレンの呼吸が浅くなった。自爆兵器。それが、上層部が恐れた「黒鉄の騎士」の真の役割だったのだ。
しかし、それならばなぜ父は今、正気を取り戻したように理路整然と語っているのか。
「……なら、どうして」アレンは震える唇を噛み締めた。「どうして、平原であんな真似を……味方を、同胞をあんなに無惨に殺したんだ! あなたが防衛線を突破しなければ、こんなところまで帝国を招き入れることはなかったはずだ!」
責めるような息子の叫びに対し、父は目を伏せた。その横顔には、十年間決して表に出すことのなかった、血を吐くような苦悩と懺悔の色が初めて滲んでいた。
「私が味方を無慈悲に斬り捨て、完全に心を失ったからくり人形として振る舞わなければ……奴らは決して、安全な後方から動こうとはしなかったからだ」
父の重い言葉が、雨音を切り裂いてアレンの耳に届く。
「帝国の皇帝と司令部の上層部は、常に本隊の最後尾、絶対に安全な圏内に身を置いている。彼らを一網打尽にするには、王国の防衛線が完全に崩壊し、『勝利が確定した』と確信させて、前線へと引っ張り出すしかなかった。だから私は……自らの手で同胞の血を浴び、ルビコン平原の右翼を食い破ってみせたのだ」
アレンの脳内で、戦場での奇妙な符合が次々と組み合わさっていく。
夜通しの異常な行軍。補給線を無視した突出。
それは単に「狂ったからくり人形」だったからではない。後方から進軍してくる帝国の本隊との間に、緻密に計算された「距離」を作るための時間調整だったのだ。
「私の真の標的は、王都ではない。……背後から意気揚々と追従してくる、帝国の本陣だ」
父は血の気を失った顔で、静かに、しかしはっきりとした口調で最大の罠の全貌を語った。
「このまま王都へ向かうふりをして歩みを進め、奴らの本陣が完全に私の『核』の射程圏内に入った瞬間……踵を返し、全速力で皇帝の馬車に突っ込んで起爆する。そうすれば、帝国の頭脳は完全に消滅し、この戦争は終わるはずだった。……十年間、ただその一瞬の機会だけを待っていた」
雷に打たれたような衝撃が、アレンの全身を貫いた。
冷たい雨が容赦なく降り注ぐ中、アレンは自分の犯した決定的な「過ち」の輪郭を、絶望的なほど鮮明に理解した。
父は王国を裏切ってなどいなかった。
たった一人で、誰にも真意を悟られず、味方から憎悪されながら、国を救うための巨大な爆弾として敵の懐深くに潜り込んでいたのだ。そして、その十年越しの孤独な作戦が、今まさに結実しようとしていた。皇帝の首に、見えない刃を突き立てるその直前だったのだ。
――それを、自分が止めた。
「ああ……」
アレンの口から、意味をなさない声が漏れた。
自分が「正義」だと信じて振り下ろした剣が、父の心臓を貫いている。父の足は完全に止まり、もう帝国の本陣へ向かって逆走することはできない。
アレンは無意識に、父の肩越しに遠く平原の方角を見た。
灰色の雨の向こう側から、地鳴りのような低い音が響いてくる。先陣の突破を知り、もはや何の障害もないと確信して進軍速度を上げた、無傷の帝国軍本隊が王都へと迫ってくる音だった。
「……なぜ……」アレンの両目から、雨水ではない熱い滴が溢れ出した。「なぜ、俺に言ってくれなかった……俺は、あなたを……」
「お前は、立派な騎士になった」
父は残されたわずかな力を振り絞り、血に染まった右手で、剣の柄を握りしめるアレンの手をそっと包み込んだ。その手はひどく冷たかったが、十年前の記憶にある、あの大きく分厚い手の感触と同じだった。
「王国を守るため……私情を捨てて、最大の脅威であった私を正確に討ち取った。……それでいい。剣は、守るべきもののために振るうのだ。お前は……私の教えを、正しく守り抜いた」
それは皮肉でも何でもなく、息子を誇りに思う父親の純粋な称賛だった。
だが、その言葉こそが、アレンの心に最も深く、最も残酷な刃となって突き刺さった。
父の血に染まった手が、アレンの手を包み込んだまま、ゆっくりと力を失っていった。
兜の奥で微かに瞬きをしていた瞳から、すっと光が抜け落ちる。それは精巧な硝子細工のように無機質なものへと変わり、灰色の空をただ静かに映し出していた。
満足げな、微かな笑みを口元に残したまま、父は息絶えた。
十年に及ぶ壮絶な孤独と、肉体を削り取るような苦痛の果てに、愛する息子の成長をその目で確かめられたという、彼にとって唯一の救いだけを抱いて。
アレンは声を出さなかった。
泣き叫ぶことすら、今の彼には許されていないように思えた。柄を握っていた両手からゆっくりと力を抜くと、支えを失った父の巨体が、重々しい金属音を立てて泥の中へと崩れ落ちた。
胸を貫いていた長剣が抜け落ち、傷口からどす黒い血が雨水に混じって流れ出す。
アレンは泥の上に膝をついた。
目の前にあるのは、国を救うために自らを怪物へと貶め、最後の最後まで孤独に戦い抜いた、真の英雄の亡骸だ。
だが、世界中の誰一人として、その事実を知る者はいない。帝国の人間は「使い捨ての兵器が壊れた」としか思わず、王国の人間は「恐ろしい怪物を打ち倒した」と歓喜するだろう。
父の十年間は、たった今、実の息子の手によって完全に無に帰したのだ。
地鳴りが、はっきりと足元を揺らし始めていた。
街道の向こう側、灰色の靄の奥から、無数の軍旗が姿を現す。帝国軍の本隊だった。
先陣の突破を見届け、絶対的な安全圏から意気揚々と王都の蹂躙へと向かってくる皇帝の軍勢。彼らの歩みを阻むものは、もはやこの平原には何一つ存在しない。彼らにとって最大の脅威であった「反逆の爆弾」は、王国最強の騎士が自らの手で丁寧に処理してくれたのだから。
アレンは、泥の中に転がったままの自分の長剣を見下ろした。
刃には、父の血がべっとりとこびりついている。雨に打たれても、その染みは決して消えようとはしなかった。
『剣は、守るべきもののために振るうのだ』
父の最期の言葉が、ひどく冷たい残響となって脳裏に反響した。
自分はその教えを、一寸の狂いもなく完璧に実行した。私情を殺し、国を守るという正義のために、立派な騎士として剣を振るった。
その完璧な正しさが、結果として父の崇高な犠牲を泥で汚し、王国を完全な滅亡へと引きずり込んだのだ。
全ては論理的で、誰一人として間違った選択などしていなかった。ただ、絶望的なまでに歯車が掛け違っていただけだ。
雨の冷たさが、鎧を通して肌を刺す。
アレンは父の亡骸を抱きしめることもせず、ただ虚無の目で灰色の空を見上げていた。
遠くから、帝国軍の進軍を告げる重々しい角笛の音が鳴り響く。その音が王都の空にこだまする中、アレンの胸の中にぽっかりと開いた巨大な空洞を、冷たい雨水がただ静かに、際限なく満たし続けていた。




