第四話 幸せじゃない記憶
一人の少年がいた。少年は幼くして父親を事故で亡くし、貧しいながらも母親からの愛情を一身に受け成長していった。
しかし、幸せな日々は長く続かなかった。元々病弱であった母親は数年の間に溜まった疲労により倒れ、生活は一気に苦しくなった。それでも少年には仲の良い友人に恵まれ、笑顔だけは絶えなかった。十三回目の冬、祖母に引き取られる前までは。
――
何もない、本当に何もない灰色の空間に柴犬獣人の木剣 倫吾は立っていた。どこまでも広がる無機質な仄暗さは、止まることを知らない不安を煽る。
「……ここが、陽出の精神世界なのか。」
スンスンと、湿った鼻で辺りの様子を探る。一切のにおいも感じられず、無機質な空気が脳髄に吹き込まれる。
どうすることもできず、倫吾は魔法の横笛を片手に歩き始める。
魔物に取り憑かれた錦戸 陽出を探すために彼の精神世界へ入り込んだのいうのに、見渡す限り果てのない灰色の空間が視界を占領する。
「……ヒノッ!どこかにいるなら返事してくれェ!」
遠吠えのように叫びながら歩く。しかし、自分の声を周りの空間が吸収しているかのように全く響かない。取り憑いているはずの魔物も気配がなく、自分一人が世界に取り残されたかのようにすら思えてくる。
「ふぇ……っ、ぐす……っ。」
どれくらいの歩き続けてからかは分からない。ふと、どこかから小さく鼻を啜る声が聞こえてきた。咄嗟に振り返り辺りを見渡すが誰もいない。
ただ、小さくともはっきりと、耳の中で直接響くかのように啜り泣く声が聞こえてくる。
「……ヒノ?いるのか?」
恐る恐る幼馴染の名を呼んでみるが、あいも変わらず口にした音は驚くほど周りの空気に伝わらない。
それどころか自分の出す音の全てが小さくなっているような気さえしてくる。
「お…ぁ……ん、……り…………、……け……。」
「ゃ…………、い…………っ!」
「あ…………ら…………っ!……ぶ………………っ!」
弱々しく響く声は段々と輪唱のように響き、ますます内容を聞き取れなくなってくる。それどころかどんどん音が大きくなり頭の中をかき混ぜるかのような息苦しさが迫る。
「う…ぐぁぁああああ!!!」
咄嗟に目を瞑りながら耳を塞ぐが、頭の中に直接響いているのか音は鳴り止まず、溢れる声に脳が震えて止まない。
ふっと、前触れもなく音が止む。
恐る恐る眼を開けると、先ほどまでは薄暗い灰色の世界がいつのまにかセピア色に霧のかかった空間に移り変わっていた。
「ここは…?」
アスファルトで塗装された地面に、トタンでできた家を隠すように高くつまれたコンクリートの壁。道の脇に生えた電信柱のすぐそばには薄汚れた街灯が立っている。
急すぎる世界の切り替わりに、倫吾は強く体をこわばらせつつ横笛を構える。
元いた世界では見たことがないものが、至る所に溢れていた。慎重に当たりを見渡すすぐそばを、帽子を深く被り黒く光る革の鞄を背負った少年が通り過ぎる。
その刹那、倫吾の鼻先に伝わる匂いに思わず振り返る。陽出と全く同じ匂いをしていたからだ。
「ヒノ……ッ!」
振り返ると少年の姿はなく、景色もまた先ほどいた灰色の空間に移り変わっていた。辺りをキョロキョロと見渡してみても、建物も道も、人の気配もない。
「……一体どうなってんだよ。」
訳もわからず立ち尽くしていると、今度はどこからかカチャカチャと擦れる音が聞こえてくる。とめどなく水の流れる音に乗って石鹸の香りが漂ってくる。
「まったく、洗い物一つまともにできないのね。とんだぬるま湯に浸かっていたのかしら。」
――
酷く冷たい乾いた声がピシャリと鼓膜に突き刺さる。
瞬きの合間に突然、台所で食器を洗う半袖の少年が現れる。
驚きのあまり当たりを見渡すと、今度はどことなく古びた木造の建物の中にいた。
少年は数人分の食器を一度に洗っているのか、乾燥棚の中には不揃いの茶碗や湯呑み、箸などが山のように置かれていた。食器を洗う手は赤く腫れており、切り傷に泡が入り込んでいる。
そんな少年を蔑むように眺める着物姿の白髪女性。
「水の無駄だわ、これなら全て捨てて買い直した方がよほど安く済みそう。」
汚いものでも触るように洗い終わった茶碗をつまみ、床へ放り投げる。茶碗は甲高い悲鳴をあげて割れ、破片が少年の足にかかる。
「本当に…。お前は、何のために生きているの。」
そう言って老婆は少年を突き飛ばし、箒と塵取りを投げつける。少年は顔を歪ませながら唇を噛み、静かに掃除を始める。
老婆は大きなため息をつき、部屋を後にする。乱暴に扉を閉め、ピシャリと音が響いた瞬間、再び目の前の世界が灰色に染まる。先ほどまでいたはずの人の気配は消え、倫吾一人が取り残される。
「今のって……。」
先ほど見た光景に倫吾は呆然と立ち尽くす。ただ、胸の中いっぱいに広がる忌々しさと痛ましさに胸が張り裂けそうだった。
しかし、無慈悲にもこの世界の場面切り替えはこちらの感情を置いてきぼりにしたいらしい。混乱する思考を掻き乱すように、色褪せた茶色の世界が目の前に広がる。
――
ジリジリと忙しなく鳴き続ける蝉の声、屋敷のように大きな建物の前に、硬い土の広がる地面。再び見覚えのない光景が世界を覆い尽くす。
「おい!もっと早く走れねぇのか!」
唐突すぎる大声に電流が走り、倫吾は思わず肩を上げる。
振り返ると照りつける日差しの下で、少年は黒いアンダーシャツに土で汚れた白いシャツとズボン、何やら模様のついたキャップを被りひたすら小さなボールを追いかけていた。
同じ格好をした中年男性がバットを振り回しながら怒声を浴びせている。
「そんなチンタラ走ってたらボールも取れねぇだろ!」
ひたすら怒鳴る男性のそばを、ニヤニヤと嘲り笑う同年代の小僧ども。よたよたと必死で走る少年がよほど面白いのか、腹を抱えて笑っている奴もいた。
痺れを切らした倫吾が近づこうとするが、歩いても歩いても彼らに近づくことはできず、むしろ遠ざかっていくようだった。
「くそ……、なんでだよ。」
まるでぬかるみにはまったかのように脚が重く、まるで舞台に上がることを許してもらえないかのよう。悪戦苦闘している間に、辺りは暗くなり狭い空間に切り替わっていた。
――
ハエの羽音が響く薄暗い石の壁、酷くこべりついたアンモニア臭が漂う湿度の高い空間が現れる。背後には汚物がこべりついた便器が存在感を放っており、思わず鼻をつまみ眉間に皺を寄せる。
「なんか汚ねぇ場所に変わったな…。」
鈍い足を引き摺りながら扉を開ける。すると何人かの人の気配がすぐ隣から響いてくる。
ちらりと覗くと先ほどの小僧どもに囲まれ、少年がトイレの便器に頭を押さえつけられていた。
「うわきったねぇ〜〜!!」
「こいつ今日からウンコマンな!!」
「きっもぉ〜!菌がつくから触らんとこ〜〜!!」
品のない会話をしながらも少年を押さえつけ続け、頭を上げようとしたとたん再び力一杯踏みつける。汚水を飲んで嘔吐しているのか、胃酸と傷口から漏れ出た血が入り混じった臭いが漂ってくる。
「……っ!やめろっ!」
倫吾がどれほど叫んでも、小僧どもに声は届かず、少年をバットで殴りつけたり思い切り蹴り上げたりとやりたい放題であった。少年が力尽きて意識を失っても攻撃は鳴り止まず、結局彼らが飽きるまで無慈悲な粛清は続いた。
倫吾は何もできない自分への苛立ちと無力感で膝から崩れ落ちる。しかし、場面はぐにゃりお切り替わり、救いのない光景が滝のように溢れて止まらなかった。
「くそ……、いつまで続くんだよ……!」
倫吾の悲痛な叫びは空を切り、誰にも届かないまま新たな世界が視界に広がる。
――
皿洗いの時と同じ屋敷なのだろうか。高い塀に囲まれた門を弱々しく引き、少年が小さな歩幅を前に進めていく。
「おばあ…さま、ただいま、帰りました…。」
傷と泥と胃酸でぐちゃぐちゃになった少年が恐る恐る玄関の戸を開ける。最初に見た着物を着た老婆が部屋の奥から現れ、嫌悪感を一切隠さずいきなり顔を引っ叩く。
「なんて臭い…!野球の試合にすら出られないくせに服も綺麗に着れないの!」
「そもそも、そんな格好で表から上がるんじゃありません!他所様に見られたらどうするんですか!」
マシンガンのように老婆は金切り声を一気に浴びせる。少年は再び顔を歪ませながら、肩を震わせる。目にたまる雫を決してこぼさぬよう力を込めながら。そんな姿すら気に入らないのか、老婆は拳を強く握り少年の頬を殴る。
「お前のような根性なしを家に住まわせてやってるのよ!それなのに私を睨むなんて!実娘の子のくせに生意気なのよ!」
「ご……っ、ごめんなさいっ!謝りますっ、謝りますからっ!許してください…っ!」
少年は張り裂けそうな声をあげて顔を庇うが、老婆は少年を壁に押さえつけ、何度も何度も鳩尾や顔に拳を振り上げる。その度に少年の体にはあざが生まれ、耳を塞ぎたくなる声が響き渡る。
「あぁ……、あぁぁ…………。」
倫吾は静かに大粒の雫を流し続ける。手を差し伸べたくても、この世界が許してくれない。ただの傍観者にしかなれない惨めさが辛かった。
そんな倫吾に追い打ちをかけるように、瞬く間に世界がぐにゃりと光を屈折し、場面が切り替わる。
――
先ほどまでとは違い、深々と降り積もる雪がゆっくりと道路を凍り付かせている。
木枯らしの吹く大通りを、少年は歩いていた。最初に見た時と同じ鞄を背負っているはずなのに、刃物で切りつけたような跡や落書きが溢れており、かろうじて物を運べそうな弱々しい姿へと変貌していた。
少年自身も憔悴しきっており、厚着をしているはずなのに服もズボンもボロボロで見るからに寒そうだった。
馬や人が引いていない鉄の塊に似た車が何度も行き交う道路の前、少年は白い息を一つつき立ち止まっていた。明らかにやつれた彼に声をかける人間は一人もいない。楽しそうに会話をしている者、光る板を懸命に見つめる者、退屈そうに空を眺める者など、誰一人として少年に興味を持っていなかった。そんな時。
「……あっ。」
ふと、少年が何かに気がつき道路の真ん中を走り出す。そばにいた光る板を見つめる人間が、気づいて手を伸ばした時にはもう遅い。
ドーーーーーンッ
鈍い音が辺りに響き、少年は高く宙を舞う。夥しい量の血が流れ、倫吾の足元にまで悲しいほど赤い液体が靴を染める。
――
ここで、再び世界は灰色の空間へと戻ってきた。何一つ光るものがない、今の倫吾の感情を表しているかのようだった。
倫吾はただ、その場に泣き崩れる他なかった。何一つ救いのない少年……陽出の痛ましい姿をただ眺めることしかできなかった。その事実がひどく腹立たしく、惨めだった。
「どウ?オもシロカッた?」
不愉快な声が頭の中に響く。ゆっくりと顔を上げると、毛むくじゃらな魔物が金色の目を揺らしながら、倫吾の顔を覗き込んでいた。
「いまノ、陽出のきオク。すゴいけッサクだッたでシょ?」
本当に愉快で仕方がないと言わんばかりに、魔物はその場に転げ回る。はらわたが煮えくり返りそうになりながらも、倫吾は静かに横笛を魔物に向ける。
「……ヒノを返せ。」
魔物は一切怯むこともなく高笑いする。「お前など敵ではない」と言わんばかりに口角を高く吊り上げ、勢いよく前足で倫吾を引っ叩く。
「ぐぉぁッ…!」
咄嗟に受け身の体制を取るも体の動きが鈍く、あっけなく吹っ飛ばされる。
「ココ、オいらノせカい。オまエ、てきジゃナい。」
ニタニタと笑いながら、魔物は泥を体から溢れさす。倫吾の足元にまで侵食し、身動きがさらに取りづらくなる。
魔物は縦横無尽に空間を飛び交い、辻斬りのように何度も何度も殴る。
「ぐぅ…ッ、ガハ…ッぁ!」
爪を立てたり魔法を使ったりもできるはずなのに、窮地に追いやったネズミを弄ぶ猫のようにひたすら飛び回っていた。
魔物の動きに翻弄されながらも、倫吾はポケットから袋を取り出す。
「ヨワいカゼ、モうキカナいゾ。」
魔物はニタニタ笑いながら、毛皮から溢れる泥をグシャリと鼻に押し付ける。
俯きながらも、倫吾は静かに茶葉を宙にばら撒く。ひらひらと宙を舞う葉を横目に、横笛の音を鋭く震わせる。
♪♪〜♫
音色に合わせて茶葉は新鮮さを取り戻し、黄緑、青緑、夕焼け色に輝き始める。
「……“トリックダージリン“。」
呪文に合わせ、針のように尖った茶葉が一斉に魔物へ襲いかかる。
「やッぱりよワい、ぎャはは!」
魔物は大きく腕を振り回し、葉を次々と薙ぎ払う。あっけなく茶葉は地面に落下し、目を細めて倫吾を睨む。
「オまエのばん、オワり。」
魔物は目をギンと光らせ突っ込んでくる。倫吾は攻撃をすんでで交わしながら、ひたすらダージリンをぶつける。その度に魔物は振り払い、合間合間に倫吾へ殴りかかろうもする。
「グニゃァ!?」
しかし、倫吾が飛ばし続ける茶葉が視界を遮り、攻撃は明後日の方角へとから振るばかりだった。
「残念、はずれ。」
茶葉を操りながら魔物の視界を遮り、鈍る足取りをカバーする。まるで踊るように。
「ツマらん、ツマらん!」
大きな咆哮をあげ、倫吾を威嚇する。魔物は全身の毛を掻きむしるかのように荒立てている。
「いいカげン、とどメ、サす!!」
痺れを切らしたのか、魔物は全身の毛を逆立て突撃してくる。今度は爪を大きく尖らせ振りかざしながら。
♪♪〜♯♫
倫吾は静かに笛を構え音色を奏でる。その様子をみた魔物はニヤリと笑い思い切り前腕を振り落とす。
「……“=オータムナル”。」
呪文と共に、先ほど魔物が振り払った茶葉が一斉に襲いかかる。
「ぎャッ!?」
情けない声と共に、あっという間に夕焼け色の茶葉に包まれ、地に落ちる魔物。
モゴモゴともがけばもがくほど、茶葉はその巨体に絡みつき自由を奪う。まるで、茶葉そのものが命を宿しているかのように。
「なんだ、思ったより簡単に引っかかるんだな。」
足元のぬかるみを払いながら、倫吾はゆっくりと魔物に近寄る。魔物は目を血走らせ、荒い息を倫吾にぶつけることしかできなかった。
「トリックダージリンはただの攻撃魔法じゃない。茶葉によって効果が変わる。つまり、収穫時期は俺次第なのさ。」
魔物は乱暴に腕を振り回しながら茶葉を振り解こうと必死な様子。その度に茶葉が毛皮を強く締め付けているというのに、全く気づいていないのだろう。
「な…ンで、オまえなンかに…ッ!」
魔力が少ないお前になんで負けるのか、と牙を剥き出しにする魔物。倫吾は地面に落ちている茶葉を拾い上げる。
「魔力が少ないなら広げればいい、茶葉が湯に染み渡るようにな。」
そう言って倫吾は横笛を構え、音色を奏でる。ばら撒いた茶葉の中から白い光を放つ葉が宙に浮かび、魔物の周りを包み始める。
♩〜♬♪
光が怖いのか、魔物は全身の毛を震わせ始める。
「ぐルにゃぁぁあ!!」
子猫のように鳴き喚くが、もがくたびにダージリンの葉がキリキリと強く縛り上げる。
「……“カモミールリフレッシュ”。」
小さくつぶやく倫吾の声に反応し、茶葉は竜巻のように渦を作りながら癒しの香りがただよち始める。魔物を覆っていた泥が崩れ落ち、次々と邪悪な煙が白く溶かされていく。
「ぐにャああああああぁぁぁぁ………。」
情けない雄叫びと共に、魔物はその身を削られるよう小さく消え去っていく。その様を眺めながら倫吾はポツリとつぶやく。
「おあいにく様、俺はセンスがいいんだよ。」




