第一話 きらめく世界に憧れを抱いて
魔法。それは誰かにとっては幸せで明るく、美しいものであろう。無数のきらめきの中から一つ、強い輝きを放つ力に、錦戸陽出幼少の頃より憧れを持っていた。
白銀の魔導着に身を包んだヒーローが光り輝く宝石をかざし、辺りの魔物を一掃するその様が忘れられなかった。いずれは己もその力をもつものとして世界を動かしたい。そんな漠然とした憧れが己の肉体を操っていた。
……そう、思っていたのだが。
「……浮かべ!」
雲ひとつない空の下、幼さの香る草原で陽出は叫んだ。対して岩の上の本は、聞こえないふりをしているのかぴくりともしない。
「……浮かべ…ったら!」
うんと肩を持ち上げて瞼を強くにぎるが、それは一向に動く気配がない。
「はぁ、ダメだぁ……。」
陽出はヘナヘナと膝をつく。
魔法、それはあって当たり前の存在。この世界に生まれ持ったすべての人は魔力を持ち、皆平等に扱えるようになるもの…のはずなのだけれど。
陽出は生まれて一度も魔法を扱えたことがない。ずっと、憧れの域を出ないまま十四回目の誕生日を迎えた。どれだけ分厚い本を読み込んでも、これっぽっちの物を浮かすことも動かすことすらままならない。
あの日見た、キラキラと輝く世界とは無縁な生活を送り続けていた。
「ヒノ、もっと肩の力を抜いてみろ。そんなガチガチじゃ浮くもんも浮かせねぇよ。」
そばの岩に腰掛けていた柴の犬獣人が鼻をヒクヒクさせる。
「肩の力って言ったって……、リンゴみたいにセンスないから分かんないよ……。」
バツが悪そうに呟き、陽出は目を背ける。
柴犬獣人の木剣倫吾は陽出の幼馴染で、祖父に弟子入りをしている少年だ。
瞳はその名前の通り林檎のように赤く、透き通るような光を放っている。
「ヒノは力の入れ方が間違ってるだけだ。もっと柔らかく、滑らかに魔力を体中に巡らせてみろ。」
それでもって冷静沈着なやつ、実に。倫吾からのまっすぐ且つざっくりとした回答に、陽出は益々表情を曇らせる。
「その力の入れ方が分からないから困ってるんだよ。」
そもそも魔力を巡らせる感覚すらよく分かってない。体のどこに意識を向ければいいのかすら分からないのに、柔らかくもなめらかにもしようがないじゃないか。
「ったく、仕方ねぇな」
倫吾はため息をひとつ、尻尾を振りながら「よっ」と岩から飛び降りる。陽出のすぐそばに立ち、そっと本に向かって手をかざす。
「まず、軽く呼吸を整えて魔力を心臓から血流に乗せるよう促す。」
すると、倫吾の周囲にキラキラと眩い光が漂い始める。
「で、目標物に狙いを定めて深くイメージするんだ。本を持ち上げるように、な。」
柔らかな声色で陽出に目を向け、ふわりと指を動かす。
するとどうだろう。さっきまで頑なに動こうとしなかった本が、ふよふよと浮かび始める。そのまま本は倫吾の目の前までゆっくりと移動し、手の中に収まる。
「……と、まぁこんな感じだな。簡単だろ?」
優しく微笑みかける彼をよそに、陽出は倫吾の手の平の中に残る僅かな光に心を奪われていた。夜空に星空を映したような瞳を一層きらきらと輝かせる。
あの日見たものと同じ、憧れの塊がそこにあった。
「……なぁ、ヒノ。分かったか?」
問いかけに対し、陽出はまっすぐと答える。
「全然分かんない。」
――
その日の夜。
「ははは、そうか。今日も上手くいかなかったか。」
草原にそびえる一軒家から1人の笑い声が響く。
「もう、おじいちゃんまで……。僕だって頑張ってるのに。」
陽出は頬を膨らませて、火元の前立つ白髪の細長い男性に文句を垂れる。
彼は陽出の祖父、浩宇。陽出の憧れを生み出したきっかけになった存在だ。どうやら街でも有名な魔法使いのようだが、詳しいことはよくわからない。
「まぁ、魔法も実技だけじゃなくて座学も必要だからな。……そっちはヒノも得意だろ?」
せっせとテーブルを拭きながら、倫吾に声をかけられる。浩宇に弟子入り中の倫悟も同じ屋根の下で生活をしているのだ。……将来的には浩宇の後継ぎになるのだとか。
「別に得意ってわけじゃないよ……、ただ魔法を使うヒントが欲しいだけだし……。」
俯きながら陽出はランチョンマットを並べる。
倫吾の優しさが、最近は痛くて苦しい。彼のその冷静な様が陽出は羨ましく、胸の奥深くを削られる思いが募る一方だった。
「じいさん、今度ヒノの魔法久しぶりに見てやってくれよ。俺の教え方じゃどうにも上手く伝えられなくてな。」
そう言って倫吾は浩宇の方を見る。
「えっ。」
どきりと、陽出は祖父に目を向ける。「ほぉぅ?」と目を光らせる瞬間と見合ってしまった。
「そうか、確かにここ最近陽出の実技を見れていないし良い機会だな。次の週末に見せてみなさい。」
「えぇっ、いきなりぃ!?……まだまともに物も動かせないのに見せるも何も無いよぉ。」
突然の祖父からの提案により、陽出の口はへの字に曲がる。みるみるうちに青くなる孫なんてお構いなしに、浩宇はカラカラと笑う。
「なぁに、何処でつまづいているのか分かるかもしれないだろう?できていても、できなくても、君にとってもいい機会になるさ。」
冷めざめとした陽出をよそに、浩宇はウキウキとを食卓へ運ぶ。もちろん魔法で浮かせながら。
スープはつゆ一つこぼれていないし、ハンバーグや付け合わせの野菜は形一つ崩れていない。パンは浮かせた包丁で軽く切り分け、盛り付けまで抜け目がない。
それを見ながら陽出はどんと肩が重くなるのを感じた。
浩宇は指で軽く椅子を突き、するりと座る。
「さぁ、夕食にしよう。2人とも席について。」
「腹減ったよもう。ほら、ヒノも早く。」
二人が座るのを見届けてから、陽出も椅子を引きずる。
「……ところで倫吾くん。私のことは師匠と呼びなさいよ。」
「別に俺だって尊敬はしてるぜ。」
二人の会話をよそに陽出は黙々と、スープを口元に運ぶ。
……週末、おじいちゃんに今の成果を見せなくちゃならない。それまでに少しでも魔法を使えるようになっていないと。
陽出は空になったスープを飲み干して、パンに手を伸ばした。
――
その日の真夜中、陽出は自室の魔導書を漁っていた。
『まほうにゅうもん』、『たのしいまほうつかい』、『魔法の歴史』、『星を操る魔法』、『循環と放出』……。
本棚にある本はどれもくたびれており、シワの寄ったものばかりだった。本の内容はだいたい頭に入っているし、ある程度の説明ができるだけの自信がある。そのはずなのに、実技になるとこれっぽっちも活かせないのだ。
「やっぱりここの本だけじゃ分からないよなぁ…。」
ため息をひとつ付き、陽出はちらりと祖父の部屋の扉に目をやる。
いつの頃か思い出せないほど前の話。陽出は薄暗い霧の中で魔物の群れに襲われたことがあった。どれだけ逃げてもそいつらは決して眼を離さず、影にしがみつくように迫ってきていた。
もうダメだと思ったその時、遠くから飛んできた浩宇が不思議な宝石を胸にかざし、真っ白な魔導着に身を包み魔物と対峙したのだ。あの日の衝撃は忘れられない。圧倒的な眩い光を放ち魔物を消滅させるその様は、まさしくヒーローそのものだった。
「……僕もあんな風に、誰かを守れるすごい魔法使いになりたい。」
そんな壮大な夢を掲げ今日まで鍛錬に励んできた。しかし、いつまで経っても魔法は上達しなかった。それどころか魔力を扱うことそのものが理解できず、ただ無慈悲に時間だけが流れていった。難航しているうちに、弟子入りしていた倫吾が頭角を表し始め、一ヶ月も立たないうちに小さな魔物を捕らえて帰るまでに至った。
あの時の祖父が倫吾に向けたかつてない満足そうな笑みは、自分に向けられることはなかった。
陽出は首を振り、再び祖父の部屋の扉に目を向ける。祖父の部屋には自分の本棚には無い、より専門的な文献が揃っている。きっとヒントになる情報が数多く眠っているだろう。
そっと近づき、壁に耳を当てる。……中から聞こえる寝息を聞く限り、簡単には起きないだろう。勝手に入ったら怒られるけれど、まぁバレなければ問題ない。
「ごめんおじいちゃん……、ちょっとだけ見たらすぐ出てくから……!」
小声で謝り、そっと扉を開いた。
祖父のベッドの向かいに並ぶ本棚、そして机に散らばった無数の本の山。もしかしたら魔法を上手に使うヒントがあるかもしれない。抜き足差し足とつま先を立て、ゆっくりと近づく。
『魔力の根源』、『覚醒と属性の関係性について』、『質量と魔力の空間拡張における結びつき』……。
明らかに陽出の部屋にある本棚よりも、より難しい内容を書き記していそうなものばかりだ。
「……これ読んだら、本くらいなら動かせるのかな。」
祖父を一瞥し、「ごめんっ」と手を合わせてから、気になる本をいくつか抜き取っていく。2,3冊ほど手にした後、ふと、机の上に広げられた一枚の新聞記事が目に入った。
『ノーザンミュウダンの神秘、学者たちの調査急ぐ!~願いを叶える泉か?それとも魔物の巣窟か~』
「……願いの、泉?」
『ノーザンミュウダンに位置する森の奥深く、不思議な泉に関する噂が王都パーリンズで広まりつつある。この泉では、小指一滴分の血を額に塗り、願いを囁いて飛び込むことで願望が叶うというのだーー』
「ぐぅ……?」
「げっ、まずい。」
ゴトリ、と祖父が寝返りを打ち覚醒の波が近づいていることに陽出は慌てふためく。
陽出は本を抱えてそそくさと部屋を後にした。
「……ノーザンミュウダンの森の奥深く、か。」
ノーザンミュウダンとは、ちょうどこの家がある草原のことだ。森へも歩いて行けない距離じゃない。…近づくなと言われてるから行ったことないけれど。
陽出はごくりと唾を飲む。
もしかしたら、魔法を使えるようになるかもしれない。そんな甘い希望を胸に、陽出は自分の部屋のベッドに潜る。朝早くに出かければ、きっと昼までには戻って来れるだろう。
呑気にそんなことを考えていた。…しかし、あの新聞記事には続きが書かれていた。焦って部屋を出てきたがばかりに、陽出は気づくことができなかった。そんなことも梅雨知らず、弾む心臓をおさえながら、ゆっくりと寝息を立て始めるのだった。
――
翌朝、まだ日も登る前の時間。陽出は森の中を慎重に探索していた。辺りには聞いたこともない鳥のような、爬虫類のような声が響き、見たこともない花や木が不気味に咲き乱れている。
「……大丈夫、危なくなったら引き返せばいいんだ。」
自分に言い聞かせるように呟き、近くの木の枝にリボンを結ぶ。遭難しないよう目印として持ってきたものだが、もう二十回は結んでいる気がする。しかし、進んでも進んでも同じような薄暗い景色が広がるだけで、泉らしきものは一切見当たらない。
それどころか、怪しげな植物やら鳴き声やらが自分の周りをやたらと囲んできているようにすら感じる。まるで誰かに見られているかのような……。
そこまで考えて頭を振り、陽出は己の頬を叩く。
「弱気になっちゃだめだ!二人に褒めてもらうためにも頑張るんだ……っ!」
己を奮い立たせ、ひたすらまっすぐ先へと進む。それでも、やはり水一滴の気配も感じられず、森の中はますます陽の光が届かない闇に包まれていく。もうどれくらいの距離を歩いたのかも分からない。気がつけばニ時間以上経っていた。
それに不思議と息も苦しく、体中が痺れるような不快な空気がまとわりついているような感覚が現れ始めた。
一歩足を踏み出すたびに、内臓を抉るような不快なぬかるみが足を奪う。まるで頬を引っ叩くような風と、針で突き刺されるかのような冷気に陽出も限界を迎えそうだった。
「……やっぱりもう、帰ろうかな。」
そう呟いて振り返ったその刹那、陽出は硬直してその場から動けなくなった。たった5歩ほど離れた木の隙間から、"それ"は存在していた。不自然なほど丸い金色の目玉を大きく見開き、三日月よりも裂けた口から微かに牙をのぞかせている。こちらの様子を伺うように、鋭く天を向く二つの大きな耳をピクピクと振るわせ、針のような髭をちくちくと揺らしている。静寂を超えた突き刺すような無音の毛むくじゃらな顔と、目が合った。…合わせてしまったのだ。
「ひッ……!?」
未知なるその存在に、陽出は小さく悲鳴をあげ思わずたじろぐ。
背後の監視者の存在など、何一つなかった。奴が動いた時の足音も、草木をかき分ける音も。そいつはただ、表情を一切変えず、静かにこちらを見つめているだけだ。それなのに生きてここから出すつもりがまるでないことを陽出に告げているかのようだった。
「ひっ…ひぃぁぁぁああああ!!!!」
恐怖のあまり、一目散に森の奥へと突っ走る。祖父がなぜ森へ近づくなと言っていたのか、嫌というほど理解させられた。自分の命を弄ぶ無慈悲が、そこに存在してがいたからなのだと。
当然走りながら目印のリボンを結ぶこともできず、闇雲に走り続ける。後ろを振り返る余裕などまるで無いが、なぜかかの化け物が何一つ隙を見せることもなく接近していることを感じていた。
「はぁっ、はっ…ぁ…っあぁぁっ……!!」
今にもちぎれそうなほど暴れ回る心臓を抑え、ただ、しがみつくように脚を前に出す。
陽出はこの感覚を知っていた。霧の中を逃げ回っていたあの時と同じように、魔物に襲われていたのだ。
殺される
憧れで蓋をしていたあの恐怖が、緊張感が陽出の体に鞭をふるい、心臓が破けそうなほど大地を蹴り飛ばさせる。途中木の枝に引っ掛れ、ズボンも肌も至るところが傷や泥でぐちゃぐちゃになったが構わなかった。
「あ……っ!」
ズシャアアアアッッ
木の根に引っかかり、顔から転んでしまった。今すぐ立ち上がって逃げないといけないのに、ぬかるみにはまってうまく足が動かない。
「ひっ…やだ……っ、やだぁぁあああ!!」
どれだけ泣きじゃくろうと、怪物はどんよりと濁った瞳のまま、静かに無慈悲に迫り来る。
「あっち…あっちいってよぉぉおぉぉお!!!」
手をかざし必死で念じるが、聞こえていないようで目と鼻の先まで怪物は飛び込んでくる。
「おじいちゃ…っ、、リンゴぉぉぉ!!!」
――次の瞬間
「オまエ、なンのたメにイキてルの?」
魔物が突然、流暢に語りかけてくる。急な展開に陽出は呆然と立ち尽くし、大きな魔物の金色の瞳を見つめることしかできない。そんな陽出を気にせず、魔物は続ける。
「オまエはナニもでキない。まホーもツカえナい。オまエとイツもイっシょにイるイヌはまホーツかエル。マちのニンげンもミンなまホーツかエル。」
「……え。」
陽出の中にあるどす黒い感情が、ずっと目を背けてきた事実が、何も知らないはずの怪物が表情一つ変えず陽出の胸を抉り取る。
街へ出かけるたびにいつも感じていた。お店の人も、行き交う人も、小さな子供でさえも魔法を容易く扱っている。息をするように物を浮かせられるし、自分自身に力を込めることだってできる。魔法とはこの世界にとって身近という言葉が不要なほど、当たり前な存在なのだ。
「オまエ、コのせカいのニンげンなのニ、ナニもでキない。トリつクろッてばカりで、ダレもオまエ、キョうミもたナイ。」
「やめて…、やめてよ……。」
ジリジリと詰め寄ってくる魔物に対し、陽出はただぬかるみにハマった足をジタバタと動かすことしかできない。
「オまエ、なンのたメにイキてルの?」
魔物はただ、先ほどと同じ問いを繰り返す。陽出は答えることができず、ぐにゃりとその場にしゃがみ込んでしまう。
自分が憧れたこの世界の常識に、陽出は首を切られたかのような思いだった。
思えば魔法には振り回されてばかりだった。たった一冊の本でさえ動かせず、モタモタしていたらたった一人の友人の背中を追い続ける日々。久しぶりに街へ出てみれば自分より小さい子どもたちが、当たり前のようにキラキラとした光を身に纏っていて、自分の手を見るのが嫌になった。
いつしか憧れは醜く腐り果て、惨めさと後ろめたさに押しつぶされてしまいそうになっていた。もしかしたらと、なんども頭で黒く塗りつぶした結末が過ったけれど、たった一つの希望を胸に宿してきた。
しかし、この絶望的な状況に自分は何もできない。今までやってきた事は全て無駄だったのだ。何のためにここまで生きていたのか、何のために生きているのか……。何のために……。
何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、何のために、
何のためなのか、分からなかった。
「オまエのカらダ、オイラなラゆーイぎにツかエル。」
毛むくじゃらはむくむくと体を膨らませ大きく口を開け、陽出に覆い被さる。黒く冷たく、腹の中に隠していた醜い感情が身体中に駆け巡る感覚に支配されていく。
その刹那、走馬灯のようにこれまでの日々が陽出の瞳の中を駆け巡る。初めて倫吾と出かけた中央都市、祖父の魔法で空高く舞い踊った夜、母が作ってくれたお弁当……。
「……おかあ、さん?」
そう、呟いたところで陽出の目の前は暗いぬかるみの中へ消えるように溶けていった。
――数時間前のこと
「ヒノがいなくなった!?」
陽出が出かけて数時間後、草原にそびえる小さな小屋から倫吾の声が響き渡る。
浩宇は顔を青くしながら頭を抱える。
「……扉に張った結界にあの子の反応はあったが、……本を取ってるようでね。また勉強をするのかとそのまま知らんぷりして寝てしまったんだ。」
言い訳を探りながら、浩宇はいそいそと着替え始める。倫吾は呆然としながら立ち尽くす。
ただ部屋に陽出がいないだけなら、ここまで心配はしない。過去にも同じように、早朝から陽出が外出することは幾度としてみられた。
しかし、いつも朝食の時間までには必ず帰ってきており、何時間経っても帰ってこないことは一度もなかった。
「……ひょっとしたらノーザンミュウダンの森に行ったのかもしれない。」
浩宇はボソリと呟く。浩宇は新聞の切り抜きを一枚、倫吾に手渡した。
それは中央都市より依頼されたクエストの情報収集にて集めていたものの一つだった。
『ノーザンミュウダンに位置する森の奥深く、不思議な泉に関する噂が王都パーリンズで広まりつつある。この泉では、小指一滴分の血を額に塗り、願いを囁いて飛び込むことで願望が叶うというのだ。
しかし、この泉には危険が潜んでいる。森には結界の外より迷い込んだ凶悪な魔物が生息しており、王国は六賢者による調査と魔物討伐を急いでいる。専門家らは「この出所不明の噂は単なる都市伝説か、あるいは魔物の仕業か」と議論を交わしている。王国政府は市民に対し「不用意な探索は命の危険につながる」と警告している。』
「何だよこれ……。」
倫吾は紙切れを強く握りしめ、牙を強く締め合わせる。
もし、これっぽっちの出鱈目を信じていくとしたらただの盲目であろう。日頃から本を読み漁っている陽出が、そのような愚行に走ることに違和感が拭えなかった。
しかし、昨夜の青く張り詰めた表情を思い出すと、否定する勇気が湧かなかった。
「あの子のことだ、私が期待を煽るようなことを言ったがばかりに、そんな噂を信じて危険に飛び込んだのかもしれない。」
倫吾は思わず拳を強く握りしめたが、ふっと力が抜けていく。元はと言えば自分が陽出の指導を申し出たのだ。もし本当に噂を信じて出かけたのであれば、辻褄が合うであろう。そうなると陽出は凶悪の魔物の縄張りへ足を踏み入れたことになる。魔法もまともに扱えない彼が、魔物の餌食になることは想像に容易かった。
「……俺が森へ行く。」
いても経ってもいられなくなり、倫吾はそばにかけてあったコートを手に取る。その瞬間、咄嗟に浩宇が腕を掴む。
「待て、君まで行ってミイラ取りがミイラになったらどうする。それにまだ決まったわけじゃないんだから……。」
倫吾を嗜めるが、浩宇の手は薪割りの如く振り解かれてしまう。倫吾は鼻を荒くしてコートを身に纏う。
「俺は鼻が効く。俺ならヒノを正確に追うことができるだろ。……ダチが死にかけてるかもしれねぇのに待ってられねぇよ。」
そう吐き捨て、倫吾は扉を蹴り飛ばし森へと駆けていく。
弟子が走り去る様子を、浩宇は頭を掻きながら見送る。
「……まったく。なんで君たち若者はそう生き急ぐかな。」
そう言って浩宇は、やれやれと首を振りつつ、手のひらの上に摩訶不思議な光を生み出す。サイケデリックな光は箱の形に変わり、そっとポーチの中にしまった。
「……まぁ、ついでにクエストの調査もしたかったし丁度いいか。」
――
倫吾は森の中を颯爽と駆けていた。ところどころ木の枝に結び付けられたリボンと、嗅ぎ馴染みのある匂いが散らばっていた。
……間違いない。ヒノはこの森にいる。
彼が残した道標をもとに、飛び跳ねるように地面を蹴り飛ばしていく。陽出の匂いが強くなる一方で鉛とドブが混ざったような腹を抉る臭いが混ざり始める。
徐々にリボンの間隔も広くなっていき、次第に血の臭いだけが強く辺りに残っていった。しかし、その割には当たりがあまりにも静かすぎる。まるで何かから身を潜めているような……、そんな不気味さが充満していた。
友の危険に血の気が引くのを感じながら、倫吾はぬかるみの森の中を踏み荒らしていく。
「待ってろよヒノ、何があっても君を助けるからな。」
コートの袖を握りしめ、倫吾はより一層強く脚を動かす。
倫吾は昔からずっと、陽出以外の友人がいなかった。辺境の地に住む浩宇に弟子入りしたからということもあったが、街に出るといつも口を固く結び、店員とでさえ深く関わろうとしなかった。そんな中、陽出は壁を作ることもなく次々と人の輪に飛び込んでいってしまう。
分け隔てなく手を差し伸べることができる陽出の存在がとても眩しかった。純粋無垢でこの世の汚れを何一つ知らないであろう彼が、羨ましかった。自分が何気なく使った魔法に対しても、陽出は必ず目を輝かせ、何度も何度もせがんでくる。その無邪気さに倫吾はいとも容易く絆されてしまった。
「おじぃ……っ、、リンゴぉぉぉ!!!」
次の瞬間、聞き馴染みのある声が倫吾の耳元まで微かに届く。
「っ……!!」
声の居場所まで一直線に駆け抜ける。血の臭いがキツくなり、ぬかるみが足をすくうが関係なかった。たった一人の友人が消えてしまうことの方が、ずっと耐え難かった。
暗闇の中を一心不乱に駆け続ける。臭いのキツさが最高潮に達したその時、しゃがみ込んだ陽出の姿を見つけた。
「ヒノ……っ!」
やっと見つけたと安堵した次の瞬間、黒く毛で覆われた巨大な塊がドプンと、陽出に覆い被りそのままぬかるみの中に消えた。
「……は?」
突然のことで頭の中の整理が追いつかなかった。たった一人の友人が、目の前で巨大な怪物に丸呑みにされた。思考が停止している中、魔物はこちらを見つけると丸い目を切り裂くかの如く細め、ニタリと首を傾げる。
「ヤッと、つカまえタ。」
そう言ってどろりと溶け出し、ズブズブと大きく倫吾の背丈の何倍にまで膨れ上がる。
黒い霧が魔物の周囲を包み込み、血の臭いが辺りに充満する。魔物は毛で覆われた巨大な腕のようなものを振り翳す。
「おマエでたメそ。」
呆然と立ち尽くす倫吾をよそに、魔物は力いっぱい手を振りかざす。反応が遅れ、もうダメだと目を瞑る。
その瞬間ーー。
「"クリスタル・チェンジ"!!」
光り輝く真っ白な魔力が、黒い霧を一気に吹き飛ばす。強烈なエネルギーに、魔物は思わず顔を覆う。何が起こったのか分からず、倫吾は光の源に目をやる。
「全く…、倫吾くんは足が速すぎるよ。もっと私という老いぼれを労ってもらいたいところだ。」
カラカラと笑いながら、白い光を纏った男はゆっくりと魔物と対峙する。
「……じいさん。」
倫吾は白い魔導着に身を包んだ彼の名を呼ぶ。
白い中折れハットに銀色に輝くシルクのコート、金色に輝く光を象る刺繍、そして左胸にあてがわれた魔力を放つダイヤモンド。かつて、陽出が見たという師の姿そのものであった。
「ふむ……。泥に覆われた毛むくじゃらな体に金色の瞳。調査報告の通り、君が願いの泉の魔物だね。」
「グルルルニャァアアアアア!!!!」
魔物は唸り声をあげ、泥飛沫を上げながら浩宇に飛び掛かる。大きな体からは想像もつかない跳躍力。辺りの木々を蹴散らしながら繰り返し標的へ突進する。浩宇は老人とは思えないほどヒラリと身を翻す。
まるで一筋の糸が岩を受け流すように、ドカン、ガシャンと爆発音を響かせながら魔物自らが傷ついているかのようだった。
「すげぇ……。」
泥一つ付けずに飛び回る浩宇の姿に、倫吾は思わず感嘆の声を漏らす。
浩宇はボロボロの魔物へゆっくりと近づき、その様をじっくりと眺める。
「おやおや、身に余る力を振り回すだけかい。記者がスクープした割には大したことないね。」
「グギギギィィ…ッ、アアオォォォオオオオ!!!」
余裕な笑みに煽られ魔物はさらなる雄叫びを上げ、泥を身にまとう。さらに巨体を太らせながら、大きな牙を向ける。一発、二発と突っ込み無意味に地面へ頭突きしてしまう。魔物は血走った眼で鋭く睨み、巨大な手を振りあげる。
浩宇は動じることなく指先に小さな光を生み出し、踊るように攻撃を受け流す。
「さて、そろそろ私の孫を返してもらおうか。」
浩宇は魔物に指をかざし、呪文を叫ぶ。
「"シルバーフラッシュ"!」
カッ!!と指先から銀色の光が溢れ出し、巨大な魔物をそのまま包み込む。
「グギャァァァアアアオオ!?」
魔物は悍ましい声を上げながら浩宇に飛びかかろうとするが、聖なる力に邪魔され動けない。それどころかみるみる体が小さくなる。
「ま…ダ、きエタクな…ぃ……。」
魔物の断末魔と共に、黒いモヤは徐々に陽出の姿へと変わり始め、ふわりふわりと地面へと落下を始める。
「……っ!ヒノ!」
倫吾は咄嗟に駆け寄り、陽出を抱き抱える。陽出の頬は黒く薄汚れており、微かにまつ毛が湿っていた。
ところどころ傷を負ってはいるが、息はしている。気を失っているだけのようだ。
「ヒノっ、良かった…本当に……。」
倫吾はホッと一息つき、その場に崩れ込む。全身の毛は依然逆立っており、手は強く拳を握り続けていた。
二人をよそに、浩宇は近くの泥を調べていた。手のひらからサイケデリックな瓶を作り出し、魔物から飛び散った泥を採取する。
「ふぅ、面倒だから避けていたが……。これで正式に“泉の噂は魔物の罠”ってことで報告できそうかな。」
サンプルの小瓶を手の中にしまい満足そうに笑う一方で、浩宇の中に疑問が頭に浮かんでいた。
「……しかし、あの魔物は図体の割には随分と幼い様子だった。擬態して噂を流すなんて高度な知能があるとは思えない。なら誰が……?」
浩宇は腕を組みながら瓶を眺める。
ノーザンミュウダンの森は本来、強力かつ知能の高い魔物が生息する危険地帯だ。奴らが人類に擬態し、噂を流すこと自体は考えられなくもない。
しかし、今回の魔物は魔力量に対しあまりにも弱すぎる。まるで歩き方を知らない幼子のようだった。
「……報告とは別に調査の必要が出てきたな。」
額を抑え軽くため息をつく。そんな中、倫吾が陽出を抱き抱え近寄ってくる。
「……なぁじいさん、早くこの森抜けようぜ。あまりいい気がしねぇんだよ。」
口を僅かに開け、若干震えながら倫吾は体を掻く。
辺りは依然黒い鉛のような霧に覆われている。強力な魔力を持つ魔物がいなくなったことにより、鳴りを潜めていた他の魔物が動き出してもおかしくはない。
「……そうだね。倫吾くん、陽出を抱えたまま私に捕まってもらってもいいかい。」
そう言って浩宇は倫吾の肩を抱き寄せ、手を空にかざす。
「"シルバーテレポーテーション"!」
そう叫び、空から光の帯が降りてきて3人を包み込む。その瞬間、パッと光と共に全員の姿が消える。
思わず倫吾が瞬きをしたその刹那、気がつけば見慣れた小屋の前に立っていた。
「か…帰ってきたのか。」
倫吾は陽出を抱き抱えたままヘナヘナと地べたに座り込む。浩宇はカラカラと笑いながらダイヤモンドを胸から外し、家を出る前の姿に戻る。
「さぁ、朝食にしよう。」
そう言って浩宇は優しく微笑んだ。
はい、どうも。初めましてですね。
とのぶんつ、と申します。
この媒体を触るのは初めてなのでとても緊張しております。
毎週金曜日更新で続けていく予定です。
しばしの間お付き合いくださいまし。




