影と、非アクティブ
布団に入った。
暗さは昨日と同じで、棚の位置も同じで、
人形の影もきっちり人形の形のまま畳に沈んでいるはずだった。
見ない、と決めている。だから確かめない。
匂いは来ない。線香の匂いは来ない。
代わりに、枕元で唸っている。
扇風機の唸りがする。
低く、遠いまま回るはずの音が、頬のすぐ横で唸っている。
耳ではなく、枕の中に小さな羽根が入っているみたいに。
扇風機はここには無い。昨日も無かった。なのに、音だけが「ある」みたいに近い。
息を吸うと、喉の奥が少しだけ乾いた。
昨日もそうだったかもしれない、と考えた瞬間に、その“昨日”が手から抜ける。
思い出せない。思い出せないことだけを思い出す。
唸りがふっと弱くなる。
その静けさの縁で、陶器の欠けた感触が指に戻る。線香立ての右縁。くすんだ縁。
昨日も同じだったのに、思い出せなかった。
思い出した瞬間、何かが閉まった。
障子なんてないのに、どこかで障子が閉まる音がした。――一回だけ。
音が消えても、閉まったままだ。
唸りはまた枕元で回り始める。近いまま。
明日はもっと酷くなる。そういう確信だけが、匂いみたいに遅れて来た。
朝になった。
昨夜、何がおかしかったのか、もう分からない。
匂いも音も思い出せないのに、“詰んでいた”という手触りだけが残っている。
侵食だ、と名付ける前に、名付ける力が削れていく。
朝食を咀嚼しているあいだ、口の中にあるものだけが現実で、
飲み込むという動作だけが昨日の続きみたいに重い。
飲み込む前に、頬の内側が勝手に緩む。
食べ物が、言葉みたいにいったん舌の上で形を作って、それから――前へ落ちる。
布人形のほうへ。
棚の上じゃない。近くに置いていた覚えもないのに、卓の端にいる。動かない。影も正しい。
それでも手は、雛を慈しむみたいに、距離を測ってしまう。
吐き出す。
口の中のものを、飲み込まずに、そっと渡す。
恥ずかしさも嫌悪も遅れて来ない。来る前に、行為だけが終わる。
何事もなかったように、次の一口を噛む。
チャイムが鳴る。
友人が来る。
友人は玄関で靴を揃えて、部屋に入る。
棚の布人形は動かない。影も正しい。
友人は人形にだけ丁寧に言う。
「お邪魔します。急に来てすみません」
家主のほうは見ない。家主は挨拶を出した。拾われない。礼儀が、家主を避けて通る。
友人は返事のない相手に話し始める。天気のこと、寒さのこと、昨日の帰り道のこと。
言い回しの端に、家主が昔よく使った癖が一滴だけ混じる。
それでも視線は家主に止まらない。
友人が帰ったあと、ホームアプリの履歴を開く。
Home/Away が並ぶ。Reason:「inactivity」。
「A phone came home」みたいな匿名の行が、整った顔で居座る。
家主の在宅は、そこに数えられていない。
棚の人形は動かない。影も正しい。
それでも、履歴のほうが先に「普通」を並べてしまう。
※本作はnoteにも掲載しています(重複投稿)




