第94話 地獄のヘッドバッド
「レベル1でクリムゾントライボアに挑むなんて、おいたが過ぎますよ。うふふふふ☆」
野太い、しかし甘ったるい声が、鼓膜を直接震わせる。
視界はピンク色(肌色多め)に埋め尽くされ、全身は万力のような力で締め上げられている。
だが、先師京介にとって、最大の地獄は「痛み」ではなかった。
「よしよし、いい子ですねぇ~♡」
自称・魔法少女ラブリー(身長2メートル超、髭面)が、キョウの頭を、丸太のような腕で撫で回し始めた、その時だった。
(……く、臭いッ!!)
京介の脳内を、警報級の悪臭が駆け巡った。
それは、部室のロッカーに放置された運動着の饐えた匂いと、満員電車の中年男性特有の脂の匂いが混ざり合った、化学兵器レベルの刺激臭。
(な、なんでアバターから加齢臭とか、汗の匂いがするんだよ……! 最新鋭のVR技術! 無駄にリアルすぎるんだよ! そこはカットしろよ運営ぇぇぇ!)
HPは回復している。
だが、京介のメンタルポイントは、音を立てて崩壊しつつあった。
薄れゆく意識の中で、京介は走馬灯のように過去を振り返る。ああ、ミノタウロスの息の方が、まだ獣臭いだけでマシだったかもしれない……。
「んっ……ふぅ……♡ もう大丈夫そうですね☆」
永遠にも思える地獄の抱擁の末、ようやく拘束が解かれた。
キョウの体は、ラブリーの「愛の抱擁」によって、HPが全快していた。
(ぶはぁっ! はぁ、はぁ、はぁ! し、死ぬかと思った……!)
酸素と、まともな空気を求めて、京介が喘ぐ。
助かった。とりあえず、圧死と窒息死は免れた。
京介が心の底から安堵し、すぐにでもこの場から全力ダッシュで逃げ出そうとした、その時。
ぬっと。
視界の端から、整えられたカイゼル髭が迫ってきた。
「これでもう安心ですよ! キョウ様☆」
ラブリーが、キョウの頬に、自らのジョリジョリとした頬を擦り寄せたのだ。
戦慄する京介の耳元で、吐息混じりの猫なで声が囁かれる。
「私が守って、あ・げ・る♡ ……ふぅ〜っ」
ビクリ、とキョウの肩が跳ねた。
耳の穴に、生温かい湿った息が吹き込まれる感触。
背筋を駆け上がる悪寒。
(やめろおおおおおおおおお!!! 今まで経験したことない種類の地獄だ! 物理攻撃の方が100倍マシだ!)
その生理的嫌悪感は、理性のない狂戦士アバターにも伝播したらしい。
キョウは、全身の毛を逆立てると、本能的な拒絶反応として、目の前の顔面に向かって頭突きを繰り出した。
「ウガァッ!!」
ゴチンッ!
鈍い音が響く。
STR550のキョウによる、渾身の頭突き。
普通なら頭蓋骨陥没コースの一撃だ。
だが。
「きゃっ♡」
ラブリーは、少しのけぞっただけで、全くダメージを受けた様子がなかった。
それどころか、その頬をさらに赤らめ、両手で口元を覆って身悶えし始めたではないか。
「額を合わせるなんて……! それって、愛の誓い!? ああん、もう! 情熱的すぎますわ! キャー! キョウ様のえっちー!」
(違う! 殺意だ! 純粋な殺意の頭突きだ! どういう脳内変換したらそうなるんだよ!)
京介のツッコミが間に合うよりも早く、ラブリーは「恥ずかしい!」と叫びながら、その太い腕を振り上げた。
「バカバカっ! はしたないですわ!」
そして、照れ隠しのつもりなのか、キョウの頬に向かって平手打ちを放った。
バチコォォォォォン!!!
落雷のような音が、平原に轟いた。
首がねじ切れんばかりの衝撃。
レベル1にしては化け物級のステータスを持つキョウの体が、まるで紙切れのように吹き飛び、地面を三回バウンドして転がった。
(ぎゃああああああああああ!!! 首! 首が取れたかと思った!)
「も、ものすごいパワーだニャ!」
HPバーが、一撃でレッドゾーンまで消し飛ぶ。
なんだその攻撃力は。魔法少女のビンタじゃない。これこそが真の狂戦士の一撃ではないか。
「あら、いけない! つい乙女の恥じらいが力に乗ってしまいましたわ! やりすぎちゃった! てへぺろ☆」
ラブリーが、可愛らしく(?)舌を出して頭をコツンと叩く。
地面に伏したキョウは、白目を剥いてピクピクと痙攣していた。完全にグロッキー状態だ。
(……悪夢だ。これは悪夢だ……)
遠のく意識の中で、京介は見た。
再び、あのピンク色の巨体が、満面の笑みでこちらに駆け寄ってくるのを。
「大変! また回復してあげますねっ☆ すぐによくしてあげますからぁ〜♡」
(やめろ……来るな……! 回復しなくていい! いっそ殺してくれ……!)
魔王城の門番に殴り殺される日々。
お婆さんの家の壺を割り続ける虚無の時間。
それらが、今となっては、輝かしい黄金の記憶のように思えた。
(あっちの方が……100万倍マシ、だっ、た……)
京介の魂の慟哭は、加齢臭と湿った吐息の中に飲み込まれ、再び暗黒の底へと沈んでいくのであった。




