第89話 壺の異変
「英雄の湯」の湯けむりの中で、残り7日でのゲームクリアという無謀な決意を固めた先師京介と、不敵に笑う妖精猫ポヌル。
まるで少年漫画の再起回のような、熱い空気が流れた、その直後だった。
ザバッ!!
湯船に浸かっていた狂戦士キョウが、何の前触れもなく立ち上がった。
そして、身体についたお湯を拭くことすらせず、全裸のまま(※安心してください。システム上、腰布は自動装備されています)、脱衣所を駆け抜け、表へと飛び出した。
(うおっ!? 急にどうしたんだ!? まさか、僕の決意を感じ取って、早速レベル上げに向かう気か!?)
京介が淡い期待を抱いたのも束の間、キョウの足が向いている方角を見て、彼は即座に頭を抱えた。
その進行方向にあるのは、魔王城へと続く平原ではない。
村の中央。
そう、このゲームを開始してから幾度となく通い詰め、数え切れないほどの壺を割り、数え切れないほどの悲鳴を上げさせてきた、あのお婆さんが住む民家の方角だ。
(またか! また行くのかよ! もう壺はいいだろ! さっき決意したばっかりなんだ! 早く魔王城方面へ向かってスライムでも狩れよ! 僕には時間がないんだ!)
京介の悲痛な叫びがアバターの内部で木霊する。
受験まであと7日。一分一秒が惜しいこの状況で、またしても無意味な器物損壊に時間を費やすなど、正気の沙汰ではない。
すると、キョウの後を追って、ずぶ濡れのまま飛んできたポヌルが、やけに冷静な声で言った。
「京介、落ち着くニャ。焦っても仕方ないニャ」
見れば、自慢のふさふさした毛並みが水分を含んでペシャンコになり、まるで雨に濡れた野良猫のように貧相な姿になったポヌルが、重そうに翼を羽ばたかせている。威厳のカケラもないその姿に、京介は少しだけ冷静さを取り戻した。
(で、でもポヌル! 残り一週間しかないんだぞ!)
「だからこそだニャ。今のキョウはレベル1だニャ。この状態で魔王城へ向かったところで、あのミノタウロスにデコピンで軽く捻り潰されて終わりだニャ。秒殺コース確定だニャ」
(うぐっ……それはそうだけど……)
「まずは、クリアまでのロードマップが必要だニャ。それを壺を割っている間に考えるのも悪くない選択だニャ」
ポヌルの言葉はもっともだった。今のキョウは、STRカンストのゴリラでもなければ、SPDカンストの神速ランナーでもない。ただの、初期装備の狂戦士だ。いきなり強敵に挑むのは無謀すぎる。
(わかったよ……。じゃあ、壺を割っている間に相談しよう)
京介が提案を受け入れた頃、キョウはすでにお馴染みの民家の前に到着していた。
そして、挨拶代わりとばかりに、右足を高く振り上げる。
ドガァァァァンッ!!
凄まじい破砕音が響き渡った。
いつものように蹴り飛ばされたドアは、蝶番から外れて飛んでいく……などという生易しいものではなかった。
キョウの蹴りを受けた木製のドアは、その衝撃に耐えきれず、空中で木っ端微塵に粉砕され、木屑となって霧散したのだ。
(えええええ!? 前より酷くなってるじゃないかぁぁ!!!)
数え切れないほどのドア破り経験を経て、ドアに対するクリティカルヒットのコツを掴んでしまったのか。
家の中に土足で侵入するキョウ。
そこには、いつものように編み物をしているNPCのお婆さんがいた。
爆散したドアの木屑を頭から被りながらも、彼女は慈愛に満ちた(ように設定された)表情を崩さず、相変わらずのテンプレ台詞を口にした。
「おやまあ、旅の方かね? こんなボロ家でよければ、ゆっくりしていきなされ……」
(ボロ家にしたのはこいつです! ごめんなさい!)
京介の謝罪を置き去りにして、キョウは迷うことなく部屋の奥へと進んでいく。
目指すは、いつものタンスと壺が置かれている場所だ。
(はいはい、壺ね。さっさと割って……)
京介が、もはや作業と化した破壊行為を見守ろうとした、その時だった。
彼の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
(つ、壺が!!)
隣を飛んでいたポヌルも、あまりの光景に驚き、どこからか取り出して齧ろうとしていた煮干しを、ポロリと床に落とした。
「こ、これはひどいニャ……」
そこにあったのは、いつもの慎ましい数個の壺ではなかった。
部屋の床から天井まで、壁一面を埋め尽くすように、大小様々な、色とりどりの壺が、まるで落ちものパズルのゲームオーバー寸前のように隙間なく、うず高く積み上げられていたのである。
素焼きの壺、釉薬のかかった高そうな壺、無駄に装飾の多い壺、もはや壺と呼べるか怪しい巨大な甕……。
ありとあらゆる種類の「割れ物」が、物理演算の限界に挑戦するかのようなバランスで、山のように鎮座していた。
(増えてるうううううううう!!! なんだこれ!? 業者か!? このお婆さん、壺の卸売業者だったのか!?)
京介は絶叫した。
これはどう見ても異常事態だ。今までは、せいぜい部屋の隅に数個置かれていただけだったのに。
「……なるほどニャ。運営も小賢しいことを考えたものだニャ」
ポヌルが、床に落ちた煮干しを拾って齧りながら、呆れたように呟いた。
「プレイヤーがあまりにも同じ場所で効率的に稼ぎすぎたり、特定のNPCに粘着したりすると、自動的に難易度調整が入るシステムがあるとは聞いていたが……まさか、物理的にオブジェクトの数を増やして足止めにかかるとはニャ」
(対策されてるじゃねーか!!!)
京介は、天を仰いだ。
この狂戦士アバターの習性は、「目の前にある壊せるものを全て壊すまで、そこから動かない」ことだ。
つまり、この天井まで届く壺タワーを全て粉砕し尽くすまで、キョウはこの家から一歩も出ようとしないだろう。
(このゴリラは、全ての壺を破壊するまで、ここから離れないんだぞ! 運営の悪意を感じる!! これ全部割るのに何時間かかるんだよ!)
残り一週間の貴重な時間が、壺割りという虚無の作業に費やされようとしている。
京介が絶望に打ちひしがれている間にも、キョウは、目の前に現れた大量の破壊対象に、目をキラキラと輝かせていた。
それはまるで、プレゼントの山を前にした子供のような純粋さだった。
「ウガッ!」
キョウは、手慣れた手つきで、手近にあった手頃なサイズの壺を一つ掴み取った。
そして、それを床に叩きつけるために、勢いよく頭上へと振り上げる。
その瞬間、お婆さんがいつものように血相を変えてキョウの足元にすがりついた。
「やめとくれーー!! その壺はおじいさんの――」
そこまでは、いつも通りの光景だった。
キョウが壺を振り上げ、お婆さんが止め、キョウがそれを無視して床に叩きつける。
その一連の流れが行われるはずだった。
だが。
パリンッ。
乾いた、小気味よい音が、頭上で響いた。
(……え?)
キョウの手が、空中で止まる。
彼の手には、何も握られていなかった。
いや、正確には、「取っ手の部分だけ」が残されていた。
キョウが床に叩きつけるよりも早く。
頭上に持ち上げられたその瞬間に、壺は自ら命を絶つかのように、空中で粉々に砕け散ったのだ。
パラパラパラ……。
キョウの頭上から、陶器の破片が雨のように降り注ぐ。
粉々になった破片は、キョウのたくましい肩や頭に当たり、虚しい音を立てて床に転がった。
「ウガ?」
頭から壺の破片を浴びたキョウは、きょとんとした顔で、両手に残された壺の取っ手を見つめていた。
握りつぶしたわけではない。
天井にぶつけたわけでもない。
ただ、持ち上げただけで、壺が自壊したのだ。
(なんだ! 何が起こったんだ!?)
京介は、目の前の超常現象に言葉を失った。
キョウの足元にすがりついていたお婆さんも、涙を流すのを忘れて、ポカンと口を開けている。
そして、ポヌルもまた、齧っていた煮干しを再びポロリと落とし、目を見開いて凝視していた。
「……今の割れ方、数を増やした分だけ、厚みを減らしたのかニャ? コストダウンだニャ」
ポヌルの冷徹な分析に、京介は言葉を失う。
するとキョウは、「まあいいか」とばかりに気を取り直し、隣にあった別の壺に手を伸ばした。
パリン。
触れた瞬間に弾け飛ぶ壺。
さらにその隣も。
パリン。パリン。
まるでシャボン玉を突くかのように、キョウが指を触れる端から、壺たちは次々と自壊していく。もはや破壊活動ですらない。ただの虚無な作業だ。
「あぁ……おじいさんの形見が、空気の読めない最期を……」
お婆さんが、なんとも言えない表情で呟いた。その悲しみは、どこか的を射ていない。
(そんな馬鹿なコストダウンあるか!!! それと、おじいさんの形見多すぎだろ!)
京介は、ポヌルと相談することも忘れ、「これなら壺割りが早く終わりそうだ」と、安堵のツッコミを入れるのであった。




