第87話 セーブ
ズリズリ……ズリズリ……。
魔王城の中間地点。
静まり返った広大な空間に、何かを引きずる乾いた音が響き渡っていた。
音の主は、我らが狂戦士キョウ。
彼は、先ほどの戦闘で地面から無理やり剥ぎ取った、クシャクシャになった黄金の魔法陣(粘着力強め)を、まるで戦利品の毛皮でも引きずるかのように、無造作に握りしめて歩いていた。
そして、その引きずられる魔法陣の上には、一人の男が、なぜか背筋をピンと伸ばし、神妙な面持ちで正座していた。
マスター護衛隊長、チョットツだ。
「マスター! ご安心ください! この魔法陣は、このオレが命に代えても守り抜きます!」
チョットツは、地面の凹凸に合わせてガタゴトと揺れながらも、大真面目な顔で叫んだ。
(あんた何言ってんだ! 守るも何も、ただ乗っかってるだけじゃないか! というか、その魔法陣、もうただのビニールゴミだぞ! あと、お前の仕事はマスターの護衛であって、ゴミの護衛じゃない!)
アバターの内部で、先師京介は、相変わらずのボケ倒しに全力でツッコミを入れた。
だが、今の京介には、そんな茶番に構っている余裕などなかった。
彼の視線は、ただ一点。
50メートルほど先に鎮座する、あの紅蓮に輝くオーブ――セーブポイントだけに釘付けになっていたのだ。
(ようやく……ようやく辿り着いたぞ……)
京介の胸に、熱いものが込み上げてくる。
長かった。ものすごぉぉく長かった。
あの日、受験勉強の息抜きにと、軽い気持ちでVRヘッドセットを被ってから、一体どれだけの時間が経っただろうか。体感では、もう数年は経過している気分だった。
(ログイン直後の操作不能発覚、始まりの村での器物損壊、ミノタウロスによる瞬殺ループ、謎の温泉掘削、豆腐まみれのダンジョン、そして強制ゴリラ化……)
走馬灯のように駆け巡る、理不尽と苦難の記憶。
その全てが、今、報われようとしている。
(あそこに触れれば、セーブができる。この、レベル100まで育ったステータスを、固定できるんだ! もう、死んでもレベル1に戻ることはない!)
それは、京介にとって、単なるゲームデータの保存以上の意味を持っていた。
それは「希望」であり、「証明」であり、そして何より、現実世界への帰還――すなわち「ログアウト」への、確かな第一歩だった。
(受験にも、まだ間に合う……! ここでセーブして、あとはラスボスを倒すだけだ!)
京介の思考は、ポジティブな未来予想図で埋め尽くされていた。
そんな京介の心境など知る由もなく、隣を歩いていた天才軍師ロジックが、眼鏡をクイッと押し上げ、感心したように独りごちた。
「ふむ……。ようやくセーブポイントですか。ここまで長かったですね」
ロジックは、感慨深げに周囲を見渡すと、前を行くキョウの背中に、崇拝の眼差しを向けた。
「それにしても、さすがはマスターだ。この魔王城の中間地点、事実上のゲームクリア目前の地まで、ただの一度もセーブすらせずにたどり着くとは……。これぞ、究極の縛りプレイ。退路を断つことで、自らの潜在能力を極限まで引き出しておられたのですね」
(違う! 断じて違う! 縛りプレイじゃない! 操作できないだけだ! セーブしたくてしたくて震えてたんだよこっちは! いい加減気づけ!)
京介の悲痛な叫びは、もちろんロジックには届かない。
さらに、その後方からは、別の種類の熱っぽい視線が注がれていた。
腐女子プレイヤー、リアリーだ。
彼女は、並んで歩くキョウとロジック(と、引きずられるチョットツ)の後ろ姿を眺めながら、恍惚とした表情で呟いた。
「あぁ……! なんて尊い……! ロジック様とマスターが、二人並んで歩いているわ……! この薄暗い回廊、そして道の先に待つ赤い光……。まるで、教会で行われる、背徳的な結婚式でヴァージンロードを歩いているみたい! ロマンチックだわぁ……♡」
(眼科行け! どこをどう見たら教会に見えるんだ! 魔王城だぞ! しかも引きずられてるチョットツがリングボーイか何かか!? 世界観がバグってるんだよ!)
京介は、周囲の勘違いに頭を抱えつつも、今はとにかくセーブだ、と心を落ち着かせた。
一行は、ついにセーブポイントの目の前までたどり着いた。
近くで見ると、その紅いオーブは、心臓の鼓動のように脈打ち、神秘的な光を放っていた。
「さあ、マスター。まずはマスターからセーブをしてください。我々はその後で」
ロジックが、恭しく手でオーブを示し、キョウを促した。
キョウは、いつものように「ウガッ」と短く吠えると、オーブの前に立った。
そして。
京介が念じるまでもなく、キョウは自らの意志で、ゆっくりと、その右手をオーブへと伸ばしたのだ。
(おっ……!)
京介は、その滑らかな動作に目を見張った。
以前のキョウなら、オーブを見た瞬間に「敵か!?」と殴りかかるか、「食えるか?」と舐め回すか、あるいは完全に無視して通り過ぎていただろう。
だが、今のキョウは違う。
静かに、目的を持って、手を伸ばしている。
(やはり、INTの効果が出てるぞ! 知性が宿ったんだ! いつもより行動が少しだけ知的だ! 『セーブポイント=触れて記録するもの』という因果関係を理解しているんだ!)
京介の胸に、感動が広がる。
ついに、この脳筋アバターとも意思疎通ができる日が来たのだ。
さあ、触れるんだ。その手で、僕たちの未来を掴み取るんだ!
キョウの指先が、オーブまであと数センチに迫った、その時だった。
ヒラヒラ……。
どこからともなく、一頭の蝶が舞い降りてきた。
魔界に生息するのか、羽が蛍光ブルーに輝く、幻想的で美しい蝶だ。
その蝶が、キョウとオーブの間を、ふわりと横切った。
(……ん?)
キョウの手が、ピタリと止まる。
そして。
キョウの視線が、オーブから外れ、ひらひらと舞う蝶に釘付けになった。
(……え、ちょっと待て)
嫌な予感が、京介の脳裏をよぎる。
まさか。
(そんな、赤ん坊みたいな反応をするわけが……)
「ウガァ……」
キョウは、だらしなく口を開け、夢見るような瞳で蝶を見つめると、伸ばしかけていた手を、ふらふらと蝶の方へと向けた。
そして。
セーブポイントに背を向け、ひらひらと逃げる蝶を追いかけて、よろよろと歩き出したのだ。
(嘘だろおおおおおおおおおおっ!?)
京介は、アバターの内部で絶叫した。
(ちょっと待てよ! 蝶を追いかけるのは後にしなさい! 今はセーブだろ! 目の前に目的のものがあるのに、なんで目の前のヒラヒラに気を取られるんだよ! お前のINTは飾りか! 乳児並みなのか!?)
京介の必死の尻尾操作も、今のキョウには届かない。
彼は、完全に「蝶々追いかけモード」に入っていた。
無邪気に蝶を追いかけるレベル100の狂戦士。
その姿は、ある意味で恐怖映像だ。
キョウが、進路にいたチョットツを「邪魔だ! どけ!」と言わんばかりに突き飛ばし、蝶を追って数歩進んだ、その時。
彼が踏んだ床の石畳が、わずかに沈み込んだ。
カチリッ。
静かな空間に、不吉な機械音が響き渡る。
(あっ! やば!)
京介の直感が、警報を鳴らす。
この音は、罠の作動音だ!
ヒュオオオオオッ!!
頭上から、風を切る音が聞こえた。
今までの「だまし絵」や「クッション」のような生温るいものではない。
もっと、物理的で、殺意の高い何かが来る!
見上げれば、上空の闇の中から、巨大な鉄の塊――数トンはあろうかという、バカでかい「分銅」が、キョウの頭上めがけて、一直線に落下してきていた!
(こら! 馬鹿! 上だ! 早く避けろ!)
京介は、必死に尻尾でキョウの背中を叩き、危険を知らせようとした。
だが、キョウは。
「ウガァ〜♪」
頭上の死神になど気づきもせず、幸せそうな顔で、まだ蝶を追いかけていた。
分銅が、迫る。
回避は、間に合わない。
(終わっ……)
京介が目を閉じた瞬間、轟音と共に、世界が暗転した。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオン!!!!!




