第83話 ゴリラと魔法2
(ヤバい!)
『オモラシーン』。京介は、その絶望的なまでにいい加減な魔法のネーミングに、ツッコミを入れるのも忘れ、反射的に動いた。
キョウは突進の勢いを殺せない。このままでは、水の刃に胴体を両断される!
京介は、進化した尻尾「精密操作用マニュピレーター」を、限界まで伸ばした。
狙うは、右側のテラスの柵!
ガシィッ!
尻尾の先端が、鉄製の柵をガッチリと掴む。
京介は、渾身の力で尻尾を収縮させ、キョウの巨体を、無理やり右方向へ、テラスの外側へと引っ張った!
「ウガッ!?」
キョウが、尻尾に引かれバランスを崩す。
次の瞬間、水の刃が、キョウが先ほどまで存在していた空間を、恐ろしい速度で通過した。
ジョバアァァァァァン!!!
水の刃は、キョウが立っていた床の黒大理石タイルを、まるで温かいナイフでチーズを切るかのように、深く切り裂き、そのまま後方の壁まで達して、壁に一直線の亀裂を走らせた。
(切れ味良すぎるだろおおお!!! なんだそのウォーターカッターは! 産業用か! 名前のニュアンスと威力が釣り合ってないんだよ!)
京介は戦慄した。もし当たっていたら、上下真っ二つになっていた。
しかし、安堵する暇はない。
京介がキョウを引っ張った先は、テラスの外側。
つまり。
(……あっ)
キョウの足元には、床がなかった。
あるのは、遥か下に見える、紅蓮に輝くセーブポイントと、吸い込まれそうな奈落の闇だけ。
キョウの体が、宙に浮く。
(やば。早く戻らないと……落ちたらシャレにならない!)
キョウが重力に従って落下を始める寸前、京介は、柵を掴んでいた尻尾に、火事場の馬鹿力を込めた。
尻尾一本で、ゴリラの体重を支え、懸垂のように引き上げる!
ギギギギ……ッ!
尻尾が悲鳴を上げるが、なんとか耐えた。
京介は、振り子の要領でキョウの体を振ると、勢いをつけてテラスの内側へと放り投げた。
ドサッ。
キョウが、無様に床に転がる。
「ふぅ……危なかった……」
京介が、アバターの内部で冷や汗を拭った、その時だった。
床に転がったキョウは、すぐにむくりと起き上がると、何事もなかったかのように、再びレッドの方を向いた。
その目には、恐怖の色など微塵もなく、あるのはただ、獲物を狩る獣の闘争心のみ。
「ウガァッ!」
キョウは、懲りもせず、再びレッドに向かって突進を開始した。
(待て! 待てってば! もう少し作戦とか……!)
京介の制止も虚しく、脳筋ゴリラは直進する。
レッドもまた、即座に反応し、バックステップで距離を取りながら、再び詠唱に入った。
さっきと同じパターンだ。
(学習しろよ! INTが無いってこういうことか! 同じ攻撃を何度も喰らいに行くな!)
だが、今度は距離が近い。
(このタイミングなら、詠唱完了前に懐に入れるか……? いや、レッドの詠唱速度も速い! さすがはINT補正済み!)
キョウが、レッドまであと2メートルという距離に迫った、その瞬間。
レッドの口が動いた。
「オモラシーン!!」
(またその魔法かよ! ……って、待てよ!?)
至近距離で放たれる魔法の名前が、京介の脳内で不吉な連想を引き起こした。
(オモラシーン……お漏らし……股間!? まさか、股間を狙う魔法なのか!? 名前的に!)
そんなわけはない。ただのウォーターカッターだ。
だが、極限状態の京介の思考は、その最低なネーミングに誘導され、致命的な勘違いを起こしていた。
レッドの手のひらから、死の水の刃が放たれる。
(守らなきゃ! 男としての尊厳を!)
京介の視界の端に、瓦礫の陰に転がる「聖遺物」が映った。
あのプラスチック製の、黄色いアイツ。
(あれだ……!)
京介は、一か八かの賭けに出た。
尻尾を、限界まで伸ばす。
狙うは、黄色いカエルの風呂桶。
(カエルの風呂桶ぇぇぇぇぇぇッ!!!!)
京介の尻尾が、風呂桶を掴む。
そして、迫りくる水の刃と、キョウの身体の間に、コンマ1秒のタイミングで割り込ませた!
顔面ではない。
京介が本能的な恐怖に従って守った場所、それは――
股間だ。
ビシュッ!
高圧の水流が、なぜかキョウの股間……にセットされた風呂桶の底に直撃する。
普通のプラスチックなら、一瞬で両断されていただろう。
だが。
この風呂桶は、ただの風呂桶ではなかった。
あの「不動の鉄巨人」戦において、超高速の小石の跳弾を受け止め、なおかつ無傷だった、奇跡の強度を持つ、謎のオーパーツ(あるいはバグアイテム)だったのだ!
カポォォォォーン!!
水流が、股間の風呂桶に当たり、銭湯で響くような小気味よく、そしてどこか情けない音を立てて、四方八方へと激しく飛散した。
まるで、股間から放たれた何かが弾け飛んだかのように、水が拡散し、その威力が霧散する。
ザバァァァ……。
水しぶきが晴れる。
キョウは、びしょ濡れになりながらも、無傷でその場に立っていた。
足を開き、胸を張り、堂々たる仁王立ちで。
ただ一点。
その股間に、尻尾で器用に黄色いカエルの桶を押し当て、大事なところを隠しているという、銭湯から飛び出してきた変質者のような姿を除けば。
「…………」
一瞬の静寂。
レッドが、信じられないものを見る目で、股間に桶を当てたゴリラを見つめている。
その視線は、明らかに困惑していた。「え、今、隠した?」と言いたげだ。
後方では、ロジックが眼鏡をずり落としながら、震える声で叫んだ。
「ま、まさか! あれは東方の島国に伝わる、入浴時の礼儀作法『隠し湯』の構え!? 敵の攻撃に対し、あえて『入浴』という無防備な姿を晒すことで、『今までのことは全て水に流してやろう』という精神的余裕を見せつけたというのか!? これぞ神の煽り!!」
(違う! ただの変態だ! というかあんたもその東方の島国在住だろ! なんで股間守っちゃったんだ僕は!)
京介の魂のツッコミと、ロジックの深読み解説が響く中、神速の狂戦士はその隙を見逃さなかった。
「ウガァァァァァッ!!!」
キョウは、股間の桶をポイッとかなぐり捨てる(ちゃんと腰布があります)と、驚愕とドン引きで硬直するレッドの懐に、深く、鋭く、踏み込んだ。
右の拳が、唸りを上げる。
魔法使いに転職した元ゴリラの、薄い防御を貫く、必殺の一撃が放たれた。




