第6話 岩とのガチバトル
デスペナルティによる強制送還の白い光は、もはや先師京介にとって、日常の一部となりつつあった。ミノタウロスのため息、ゲームオーバーの無機質な文字、そして始まりの村の石畳。この無限ループは、彼の精神を着実に、だがしかし確実に削り取っていた。
(また……ここか……)
もはやツッコミを入れる気力すら湧いてこない。キョウは復活するや否や、もはや呼吸でもするかのように自然に魔王城のある方角へと走り出す。おばあさんの家への押し入りを省略したその合理的な判断に、京介は感謝すべきか悩んだが、もはやどうでもよかった。
「また行くのかニャ……。我輩、もうミノタウルスの顔は見飽きたニャ……」
キョウの横を飛びながら、ポヌルが心底うんざりしたように呟く。京介も全く同感だった。あの牛面の顔は、夢に出てきてうなされるレベルで脳裏に焼き付いている。
そんな諦観に満ちた道中、事件は起こった。
村の出口を出てすぐの街道脇。そこには、いつもキョウが目もくれずに通り過ぎる、馬車ほどの大きさの苔むした大岩があった。京介にとっても、それはただの背景の一部。何の変哲もない、ただの岩オブジェクトだ。
しかし、今日のキョウは違った。彼はその大岩の前で、突然ピタリと足を止めたのだ。
(ん? どうした?)
京介が訝しむ間もなく、キョウは戦闘態勢に入った。そして、次の瞬間。
ゴッ!
あまりにも鈍い音が、のどかな平原に響き渡った。キョウは、その巨大な岩に向かって、真正面から拳を叩きつけたのだ。
(何やってるんだよおおおおお! その岩がお前の親の仇か何かか!? 昨日までただの石ころだったじゃないか! お前とこの岩の間に、僕の知らないどんな因縁があったんだよ!)
京介の脳内で、激しいツッコミの嵐が吹き荒れる。ポヌルも慌ててキョウの周りを飛び回った。
「やめるニャ! 相手はただの岩だニャ! 無機物に喧嘩を売って、一体何になるというのだニャ!」
だが、狂戦士の耳に説得の言葉は届かない。キョウはただひたすらに、無言で拳を岩に叩き込み続ける。ゴッ、ゴッ、と、見ているこちらの拳が痛くなりそうな音が、一定のリズムで繰り返された。
そして、京介は恐ろしい事実に気づいてしまった。
【キョウは 1のダメージを うけた!】
【キョウは 1のダメージを うけた!】
キョウのHPが、ほんの少しずつ、だが確実に減っていく。硬いものを殴った際の、反動ダメージらしい。
(嘘だろ……。ミノタウルスに吹き飛ばされるより、巨大な猪に踏み潰されるより、ただの動かない岩に殴り負けて死ぬ……? そんなRPG史上、最も情けなく、最もダサい伝説の幕開けだけは絶対に嫌だ!)
キョウの奇行は、当然ながら他のプレイヤーや村のNPCたちの注目を集め始めていた。遠巻きに集まった人々が、ヒソヒソと噂話をしているのが聞こえてくる。
「おい、あれが噂の『英雄』様か?」
「岩と戦っている……? あれが最新の修行法なのか……?」
そんな中、京介の心を最も深く抉ったのは、NPCの親子連れの会話だった。
「ママー、あの人なにしてるのー?」
「しっ! 見ちゃいけません。いいこと、坊や。どんなに辛いことがあっても、ああいう大人にだけはなっちゃダメですよ」
母親の言葉が、鋭利な刃物となって京介のガラスのハートに突き刺さる。
(やめて! 頼むからその純粋な瞳で僕を見ないでくれ! 弁解させてくれ少年、僕の中身は品行方正を絵に描いたような受験生なんだ! 僕だって、僕だってこんな大人にはなりたくないんだあああ!)
京介が精神的に打ちのめされ、うなだれたその時だった。
ピシッ、と岩に小さな亀裂が入った。キョウの執拗な攻撃は、ついに岩の耐久値に影響を与え始めたのだ。亀裂は見る見るうちに広がり、やがて岩全体に蜘蛛の巣のように広がっていく。
そして、岩の隙間から、白い湯気がシューッと立ち上り始めた。
「ニャ?」
異変に気づいたポヌルが、不思議そうに岩に近づく。
次の瞬間、キョウが全身のバネを使った最後の一撃を叩き込むと同時に、地響きのような轟音を立てて岩が砕け散った! そして、その跡地から、天を衝くほどの勢いで巨大な湯柱が噴き出したのだ。
「熱っ! ニャんだこれは!? お湯だニャーッ!」
近くにいたポヌルが、温泉のしぶきを浴びて猫のように飛び上がる。そう、それは紛れもなく温泉だった。
自らの拳の反動ダメージによって、HPが残り1となったキョウ。彼は噴き出す温泉を背に、まるで偉業を成し遂げたかのように天を仰ぎ、高らかに咆哮した。
「ウガァァァァァァァァッ!!」
その雄叫びを合図にしたかのように、ポヌルがすっと前に出て、集まった人々に聞こえるよう大声で叫んだ。
「『我が身を削る痛み、それすなわち民への恵みとならん! 我が拳は大地を穿ち、尽きることなき癒しをもたらさん!』……と、申しておりますニャ! 見よ! このお方は自らのHPが尽きる寸前まで拳を打ち込み、この地に温泉を掘り当てなさったのだニャ!」
その場にいた誰もが、息を呑んだ。ただの奇行だと思っていた岩殴りが、実は村のための地域開発事業だったというのか。
「す、すげえ……! 村の発展のために、自らの身を削って温泉を!」
「我々は彼を誤解していた! あれは岩との戦いなどではなく、大地との対話だったのだ!」
騒ぎを聞きつけた村長らしきNPCが駆けつけ、その場でキョウの前にひれ伏した。
「おお、荒ぶる開発の神よ! このご恩は決して忘れませぬぞ!」
(違う! こいつはそんな崇高な奴じゃないんです! ただの戦闘狂で、たまたま殴った岩から温泉が出ただけの、ただのラッキーパンチなんですー!)
京介の魂の叫びも虚しく、キョウは「荒ぶる開発神」という新たな称号を(不本意ながら)手に入れてしまった。
そして当の本人は、湧き出る温泉にも、ひれ伏す村人たちにも一切興味を示すことなく、くるりと踵を返す。
その足は、一直線に魔王城へと向かっていた。
残されたのは、歓喜に沸く村人たちと、新たな観光名所となった「英雄の湯」、そしてまた一つ増えた、あまりにも迷惑な伝説だった。
(せめて掘り当てた温泉に一回くらい浸かってから行けぇぇぇ!)
京介も、そして神を称える村人たちも、まだ気づいていなかった。
神の御業には、相応の「対価」が支払われるという、この世界の理に。




