第3話 門番との死闘(?)
「う、うぷ……き、気持ち悪い……」
先師京介の精神は、もはや風前の灯火であった。彼のアバター「キョウ」が、サポートキャラクターである妖精猫ポヌルの尻尾を鷲掴みにして走り始めてから、既に一時間が経過している。京介の視界と完全にリンクしたこのVR空間では、ポヌルの体が上下左右に不規則に揺れるたび、彼の三半規管には、物理の教科書が燃えるレベルで法則を無視したベクトルが直接叩き込まれていた。
「も、もう……無理ニャ……我輩の妖精としての尊厳が……遠心力で宇宙の彼方に飛んでいくニャ……」
キョウの腕の中で、ポヌルがぐったりとしながら、か細い声で呟いている。その姿はもはや偉大なる妖精猫などではなく、洗濯機で十分間脱水にかけられた後の雑巾のようだった。京介も全く同じ気持ちだった。苦手な古文の参考書を三冊同時に音読させられる方が、まだ精神的にマシかもしれない。
だが、その地獄のフルマラソンは、唐突に終わりを告げた。
キョウの猛烈なダッシュが、ふと、緩やかなジョギングへと変わったのだ。
(お? どうした? ついにこの脳筋アバターのスタミナも尽きたか? そうか、そうだよな! いくらなんでも一時間も全力疾走すれば疲れるよな!)
一筋の光明。希望という名の毛細血管が、京介の脳内でかろうじて繋がった。このまま止まってくれれば、ポヌルに現状を説明し、この理不尽な状況から抜け出すヒントをもらえるかもしれない。
京介の淡い期待を乗せて、キョウは鬱蒼とした森を抜けた。
そして、目の前に広がった光景に、京介は繋がったばかりの毛細血管がブチ切れる音を聞いた。
「…………は?」
そこにそびえ立っていたのは、天を突くほど巨大な黒鉄の城門。見るからに邪悪なオーラを放つ紫色の茨が絡みつき、門の上部には巨大な竜の頭蓋骨が飾られている。どう見ても、どう考えても、100人がかりで攻略するレイドダンジョンの入り口であり、どう見ても、サービス開始初日に初心者が訪れていい場所ではなかった。
そう、魔王城の正門である。
(やっぱりこっちだったじゃないかあああああ!)
京介の絶望的なツッコミが内心で響き渡るより早く、城門がギギギ……と不気味な音を立てて開き始めた。門の奥から現れたのは、一体の巨大なモンスター。その影だけで、周囲の木々が小さく見えるほどの巨体だ。
月光に照らし出されたその姿は、牛の頭を持つ巨人。筋骨隆々の肉体は鋼鉄のようで、その両手には、キョウの身長よりも巨大な戦斧が握られている。鼻からは憤怒の蒸気を噴き出し、血のように赤い瞳が、侵入者であるキョウたちを冷たく見下ろしていた。
(あ、これ絶対勝てないやつだ……!)
人並み以上のRPG知識を持つ京介には、奴の「格」が嫌でもわかってしまった。オープニングで主人公パーティーを全滅させたり、中盤の山場でプレイヤーの心を折るために配置されたりする、いわゆる「詰みイベント用の中ボス」というやつだ。
「あれは……魔王城の門番、ミノタウルスだニャ……」
いつの間にか地面に解放されていたポヌルが、震える声で解説する。その表情は絶望に染まっていた。
「か、勝てるのか……? レベル1で」
京介の問いは、ほとんど独り言に近かった。答えなど分かりきっている。だが、万が一、億が一にも、何か特殊な攻略法があるのかもしれない。そんな藁にもすがる思いだった。
「レベル1じゃ絶対に無理ニャ。あれは推奨レベル50のパーティが、満身創痍でようやく倒せるかどうかの相手だニャ……! 逃げる以外の選択肢は……」
ポヌルの言葉は、そこで途切れた。
彼らの狂戦士キョウは、あろうことか、そのミノタウルスに向かって堂々と歩みを進めていたからだ。
(待て待て待て! 話聞いてたか!? 推奨レベル50だぞ! こっちはスライム一匹分の経験値しか持ってないレベル1だ! 算数どころじゃない、アルファベットを習いたての小学生が、英語で書かれた大学の卒業論文に挑むようなもんだぞ!)
京介の必死の制止も虚しく、キョウはミノタウルスの足元にたどり着くと、その巨大なスネを、おもむろに見上げた。そして、次の瞬間。
ゴッ!
あまりにも、あまりにも軽い音だった。
キョウは、己の全存在を拳に乗せたかのような渾身の右ストレートを、ミノタウルスのスネに叩き込んだのだ。
しかし、ミノタウルスはピクリとも動かない。それどころか、自分が攻撃されたことにすら気づいていないようだった。ただ、何かが足元でモゾモゾしていることに気づき、億劫そうに視線を下ろしただけだ。
「……?」
ミノタウルスの赤い瞳が、米粒ほどの大きさのキョウを捉える。その表情は、まるで「なんだこの虫は?」とでも言いたげだった。
(ノーダメージ! 1ミリも効いてない! むしろ殴った方のキョウの拳が骨折してないか心配になるレベルだ!)
ミノタウルスは、ふん、と鼻を鳴らすと、巨大な人差し指をゆっくりと持ち上げた。そして、哀れな狂戦士キョウの額を、軽く、本当に軽く、ちょん、と弾いた。
そう、デコピンである。
パチンッ!
【キョウは 149のダメージを うけた!】
【キョウのHP:150/150 → 1/150】
(いやHP1だけ残すなあああああ! そういう手加減は、もっとドラマチックなライバル対決とかでやるやつだろ! ただの虫ケラを見る目でやるな! 絶望感が5割増しなんだよ!)
絶対に勝てない! これは戦闘ですらない! 人間がアリを踏み潰すのと同義だ! 一度村に戻って、地道にレベル上げをするんだ! それがRPGの鉄則だろう! 京介の心の叫びが木霊する。
その叫びが届いたのか、キョウはふらりと体勢を立て直すと、くるりとミノタウルスに背中を向けた。
(おっ、わかってくれたのか!? そうだよな、さすがにこの戦力差は理解したよな! よし、帰ろう! 始まりの村へ帰って、おばあさんに無事を報告しよう!)
安堵した京介の期待は、次の瞬間に木っ端微塵に粉砕された。
キョウは深く、深く息を吸い込むと、天に向かって咆哮した。
「ウガァァァァァァァァッ!!」
それは、戦意喪失の雄叫びではなかった。反撃の狼煙だった。
キョウは踵を返すと、HP1の瀕死の状態のまま、再びミノタウルスに向かって猛然と突進を開始したのだ。
(なんでだよおおおおお!?)
そのあまりに無謀な、いや、無謀という言葉すら生ぬるい自殺行為に、ミノタウルスは心底呆れたように、ため息をついた。
ふぅーーーーーっ。
ただの、ため息。
しかし、その吐息は暴風となってキョウの体を捉え、まるで紙切れのように宙へと舞い上げた。
「あ」
京介の視界が、スローモーションで回転する。星空、魔王城、木々、そして地面。全ての景色が入り混じり、最後に背中への強烈な衝撃と共に、視界がブラックアウトした。
ゴシャッ!
【GAME OVER】
無機質なシステムメッセージが、暗転した視界の中央に浮かび上がる。
次の瞬間、京介の視界は真っ白な光に包まれ――気づけば、見覚えのある場所に立っていた。石畳の道、素朴な家々。開始数分で京介に前科をつけた、あの「始まりの村」である。
こうして、京介の人生初のVRMMO体験は、ログインからわずか一時間強で、あまりにも理不尽かつ、まったく栄光なき初デスを迎えたのであった。
「ログアウトさせてくれえええええええええええ!!」
彼の魂の絶叫が、のどかな村に虚しく響き渡った。もちろん、誰に届くわけでもなかったが。




