第23話 尻尾に関する論理的考察
フェルンリ、そしてマッスルブレインゴリラとの連戦を終え、狂戦士キョウは珍しくその場に留まっていた。レベルが2に上がったこと、そしてバーサクドラッグの効能が切れたことによる気だるさからか、彼はただ静かに平原の風に吹かれている。
そのアバターの内部で、先師京介は、人生で最も真剣な課題の一つに取り組んでいた。
(まずは基本の五十音からだ……。あ、い、う、え、お……。だめだ、五十音の練習すらままならない! これじゃあ、英単語のスペルやフィボナッチ数列なんて夢のまた夢だぞ!)
彼の意識は、完全に腰から生えた一本の尻尾に集中していた。ピクピク、ブンブンと、キョウの尻尾が不規則に動き回る。それは、彼がこの理不尽な世界で唯一見出した、希望の光を制御するための、地道なリハビリテーションだった。
「うーん……。まだ、大雑把な動きしかできないな。アイテムを口に運ぶなんて、もう一度やれと言われても無理そうだ」
京介が弱音を吐くと、隣を飛んでいたポヌルが、呆れながらも励ますように言った。
「当たり前だニャ。今まで使ったことのない身体部位なんだから、赤子がハイハイを覚えるようなものニャ。仕方ないから、我輩が練習に付き合ってやるニャ」
京介とポヌルの、どこか長閑な特訓風景。
しかし、その光景を、少し離れた岩陰から、鋭い視線で見つめる一人の男がいたことを、彼らはまだ知らなかった。
◇
天才軍師ロジックは、息を殺してその光景を観察していた。
彼の師である破壊神キョウが、戦闘後にもかかわらず、その場を動かずにいる。そして、彼の身体の一部である尻尾が、今までに見せたことのない、複雑で微細な動きを繰り返している。
「あの動き……」
ロジックの脳が、高速で回転を始める。
今まで、マスターの尻尾は、ほとんど動かなかった。あるいは、動いたとしても、それは威嚇や感情表現といった、単純なものだったはずだ。だが、今の動きは違う。明らかに、何らかの意図を持って、精密にコントロールされている。
「そうだ……。先ほどのフェンリル(彼はまだフェルンリだと気づいていない。恐らく一生気付く事はない)との戦闘。あの時も、彼は尻尾の一撃で敵の弱点を的確に突き、勝利への活路を開いた。あの動きは、ただの攻撃ではなかったのだ」
ロジックの脳裏に、一つの仮説が浮かび上がる。
「あれは、戦場のヘイト値を自在に操るためのメタ・インターフェース……! 尻尾の微細な動きで敵の敵対心をコントロールし、味方(この場合はマスター自身)の攻撃が最も効果的になる瞬間を創り出す、神がかった論理的な戦術指揮だったというのか……!」
しかし、彼はすぐにその考えを打ち消した。それでは、今の、敵もいない平原での不可解な動きの説明がつかない。
「いや、待てよ。もっと深い意味があるはずだ。あの細かく、断続的に繰り返される動き……。まるで、何かの符号のようだ。まさか……」
ロジックの眼鏡の奥の瞳が、カッと見開かれる。
「モールス信号? いや、違うな。もっと根源的で、高次元の言語体系だ……。そうか! あれは、マスターが独自に編み出した、尻尾言語による、我々弟子への講義なのだ! 言葉という不完全な伝達手段を捨て、純粋な動きだけで真理を伝えようとされている!」
そうだ、その可能性が最も論理的だ!
ロジックは、自らの閃きに打ち震え、アイテムボックスから羽ペンと羊皮紙を取り出した。
◇
「右に二回、小さく振って……左に大きく一回転……そして、地面を三回叩く……」
ロジックは、キョウの尻尾の動きを一瞬たりとも見逃すまいと、その全てを羊皮紙に克明に記録し始めた。
「なんと……なんと複雑な暗号体系だ……! 単純な二進法ではない。動きの大小、速度、回転、打突……その全てに意味が込められている。マスターは、あえてこの複雑な構造にすることで、私に試練を与えてくださっているのだ!」
京介が「もっと滑らかに動かせないかな……あ、攣った!」などと、くだらない試行錯誤を繰り返しているとは露知らず、ロジックの勘違いは、もはや天元を突破していた。
「そうだ……。ただ答えを待つのではない。『考える力』こそが重要だという、マスターからの無言のメッセージなのだ。なんと深いお考えだ……!」
京介が、尻尾の付け根の、どうしようもない痒みに耐えかねて、尻尾を地面に擦り付けようと、小刻みにプルプルと震わせ始めた。
その、あまりにも情けない動きすら、ロジックは「この不規則な振動……! これは……暗号の『レイヤー』が違うのか!? 通常帯域の裏に隠された、高周波のメッセージだとでもいうのか……!」と真剣な顔で書き留めていた。
やがて、尻尾の練習にも飽きたのか、キョウはふと顔を上げた。その視線は、もはや一点――魔王城――を捉えてはいない。新たな獲物を、まだ見ぬ強敵を求めるかように、その紅い瞳がゆっくりと広大な平原を睥睨する。そして、今までとは違う、未知の方角へと、確かな足取りで歩き始めた。
ロジックは、書き留めた膨大な「暗号」を胸に抱きしめ、師が去っていくその背中に向かって、深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、マスター……。この課題、必ずや、このロジックが解き明かしてみせます」
彼は、それからの数日間、ギルドハウスの自室に閉じこもり、京介の尻のリハビリテーション記録という名の、この世に解読者など存在しない『死海文書』の解読に、その明晰な頭脳の全てを費やすことになるのだった。




