第21話 マグレ尻尾アタック
ブウウウウウウウウウウウウンッ!!!!
背後から迫る、無数の巨大蜂の羽音。それは、この世の終わりの始まりを告げるオーケストラのようだった。
「ひぃぃぃぃ! 来るな! こっちに来るな!」
先師京介の絶叫も虚しく、狂戦士キョウはただひたすらに、森の中を爆走していた。その隣では、ポヌルが必死に翼を動かしながら叫んでいる。
「蜂の縄張りはこの森の中だけニャ! 森を抜ければ、追ってこないはずニャ!」
その言葉に、京介は最後の気力を振り絞った。彼は、唯一操作可能な身体部位――尻尾を、まるで蝿叩きのように振り回し、背後から迫る蜂の群れを叩き落とそうと試みる。
ペシッ! ペシッ!
数匹の蜂が、尻尾の一撃を受けて地面に落ちる。しかし、大群を前にしては、その抵抗はあまりにも無力だった。
「ダメだ! 暖簾に腕押し! 焼け石に水! 糠に釘だあああああ!」
京介の悲痛な叫びと共に、ようやく森の出口の光が見えてきた。あと少し。あと少しで、この地獄から解放される!
希望の光に向かって、キョウが最後のスパートをかけた、その時だった。
ガサァッ!!!
森の出口、その真正面の茂みから、一体の巨大なモンスターが、まるで待ち構えていたかのように姿を現した。
それは、月光を浴びて銀色に輝く毛並みを持つ、巨大な狼。その口からは鋭い牙が覗き、血に飢えた赤い瞳が、こちらを冷たく見据えていた。
◇
京介は、そのモンスターの頭上に表示された名前を見て、完全に思考がショートした。
【フェルンリ】
(北欧神話に出てくる、終末を告げる最強の魔狼じゃないか! なんでこんな序盤の森に、ラスボス級のフェンリルがいるんだよ! バランス調整どうなってんだ、このクソゲーは!)
「ヤバいヤツがいる! 前門のオオカミ、後門の蜂だ! 終わった嗚呼ああああああ!!!!」
京介の絶望的な叫びが木霊する。もはや、進むも地獄、退くも地獄。完全に詰みの状況だった。
フェルンリは、キョウを獲物と定めたのか、低く唸り声を上げると、その巨大な顎で噛みつこうと襲いかかってきた。
ガチンッ!
しかし、キョウは狂戦士としての本能か、あるいはただの偶然か、その必殺の一撃を紙一重で回避していた。
だが、次の攻撃を避けられる保証はない。
(うわあああああ! どうすればいいんだ!?)
完全にパニックに陥った京介は、もはや何の考えもなく、ただただ生き延びたい一心で、唯一の武器である尻尾を、無我夢中で振り回した。右に、左に、上に、下に! もはや、それは戦術などではなく、ただのパニック発作だった。
そして、その無秩序な尻尾の乱舞が、奇跡を起こした。
もはやヤケクソで振り回された尻尾の先端が、まるで引力にでも引かれたかのように、再び噛みつこうと迫っていたフェルンリの鼻先に、ペチッ! と、あまりにも軽い音を立ててクリーンヒットしたのだ。
「キャンッ!!」
甲高い悲鳴。巨体に似合わぬ情けない声を上げ、フェルンリは鼻を押さえて苦しみ始めた。どうやら、そこが弱点だったらしい。
そして、その千載一遇の好機を、狂戦士キョウが見逃すはずもなかった。
敵がひるんだその一瞬の隙に、キョウは猛然と懐に飛び込むと、嵐のような拳の連打を、フェルンリの腹部に叩き込んだのだ。
「ウガウガウガウガウガウガウガァッ!!」
ゴッ! ゴッ! ゴッ!
レベル1とは思えぬ、重い打撃音が連続で響き渡る。そして、連打の最後の一撃が叩き込まれた瞬間、フェルンリの巨体はくの字に折れ曲がり、大地に倒れ伏した。
◇
静寂。
背後でブンブンと鳴っていた蜂の羽音も、いつの間にか聞こえなくなっている。
京介は、目の前で光の粒子となって消えていくモンスターの姿を、ただ呆然と見つめていた。
「た、倒したのか……? 僕が……いや、僕たちが、あのフェンリルを……?」
信じられない、という思いと共に、じわじわと達成感が込み上げてくる。初めて、まともに敵を倒した。それも、伝説級のモンスターを。
しかし、そんな京介の感動を、ポヌルの冷静すぎる一言が、木っ端微塵に粉砕した。
「……落ち着いてよく見るニャ、京介。伝説の魔狼は『フェンリル』だニャ。こいつは『フェルンリ』。文字の順番が変わっただけの、全くの別人ニャ」
「……え?」
京介は、もう一度、頭の中に残っていたモンスターの名前を反芻する。
フェンリル。フェルンリ。
「紛らわしい名前にするな、運営ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
京介のツッコミが、月夜の森に虚しく響き渡った。
そして、その背後。物陰から戦いを見守っていた信徒たちが、歓喜の声を上げていた。
「見たか! マスターが、あの神話級の魔狼フェンリルを、尻尾の一撃で弱らせ、素手で討ち取られたぞ!」
「レベル1でフェンリルを……! もはや、この世界のパワーバランスは、マスターを中心に回っている!」
勘違いの伝説は、こうしてまた一つ、新たなページを刻んでしまった。
その時、京介の目の前に、祝福のファンファーレと共に、これまで一度も見たことがない、黄金のシステムメッセージが躍り出た。
【LEVEL UP!!】
【EXP:1000を獲得しました】
【キョウのレベルが 2 に上がった!】
【ステータスポイントを5獲得しました】
(…………上がった)
レベル1という、この世界の絶対法則だと思っていた呪縛から、ついに、ついに解放された瞬間だった。
そして、ステータスポイント! そうだ、レベルが上がれば、自分の手でキャラクターを強化できる! このポイントをSPD(速さ)に振れば、キョウの暴走を少しはコントロールできるかもしれないし、INT(知力)に振れば、いつか言葉を話せるようになるかもしれない!
京介の脳内に、一瞬にして光明が差し込んだ。しかし、その希望の光は、次の瞬間に無慈悲なシステムメッセージによってかき消される。
【キョウは獲得したステータスポイントを全てSTR(筋力)に割り振りました】
「勝手に割り振るな! この脳筋がぁぁぁ!! これも操作出来ないのかよおおおおお……」
京介は、自分の意のままに動く尻尾を、じっと見つめた。
(だがしかし、こいつは……使えるかもしれない)
マグレかもしれない。偶然かもしれない。
それでも、彼は初めて、自らの意志で、この理不尽な世界の運命を、ほんの少しだけ動かしたのだ。
これから京介は、この希望の尻尾の、無限の可能性を探るべく、来るべき大学受験と同じくらい真剣に、その活用方法の研究に、密かに取り組んでいくのである。




