第19話 この尻尾、動くぞ!
熱狂する信徒達をよそに、狂戦士キョウは、再び魔王城へと向かういつもの道を、いつものように走っていた。
そのアバターの内部で、先師京介の精神は、もはや完全に燃え尽きた灰のようだった。
(もう……やめてくれ……)
賞賛、奇跡、神罰、考察。周囲がどれだけ盛り上がろうと、彼にとっては全てが無意味だった。ただ、この不毛なループから解放されたい。その一心だけが、かろうじて彼の意識を繋ぎとめている。
(思考そのものが、無駄だと脳が学習してしまった。もう何も考えたくない。頼むから、僕をそっとおいてくれ……!)
京介が、もはや悲鳴とも祈りともつかない叫びを心の中で上げた、その時だった。
今まで猛然と走っていたキョウが、何の脈絡もなく、ピタリと足を止めたのだ。そして、まるで自分の体にお尻から尻尾が生えていることを初めて知ったかのように、ゆっくりと振り返り、その一本の尻尾を、じっと見つめ始めた。
(ん……? どうしたんだ? いつもは、僕が何を考えても完全に無視するくせに……)
京介の微かな困惑。これまで前進と破壊しか知らなかったはずのアバターが、初めて見せた予測不能な『静止』だった。
「おい、京介。今、キョウの尻尾が少しだけ、ピクリと動いたニャ」
ポヌルの言葉に、京介は内心でため息をついた。
「尻尾? それが動いたからって、なんだっていうんだ。もう、どんな珍現象が起きても驚かないぞ、僕は」
しかし、ポヌルは真剣な表情を崩さない。
「いや、今の動きは、ただのオート反応とは少し違ったニャ。なんというか……お主の意志が、ほんの少しだけ漏れ出たような、不自然な動きだったニャ。だから言うておるのニャ。もう一度だ、京介。試しに、その尻尾を動かすことだけを、強く意識してみるニャ」
「そう言われてもなぁ……」
京介はまだ半信半疑だった。だが、ポヌルの真剣な眼差しに、彼はもう一度だけ、この不毛な世界で奇跡を信じてみることにした。
(尻尾よ、動け……動け……!)
ダメ元だった。ほとんど、やけくそに近い祈りだった。彼は、ペンを握る指先に指令を送るように、あるいは、参考書のページをめくる時のように、自分の体の、尻尾の付け根あたりに存在するはずの、未知の筋肉へと意識を、全神経を集中させた。
その瞬間。
ペシッ!
キョウの尻尾が、まるで生き物のようにしなり、地面を軽く叩いた。
「……動いたニャ」
ポヌルが、驚きとも確信ともつかない声で呟く。
「え? 偶然キョウが動かしたんだろ?」
京介はまだ信じられなかった。そんな都合のいい奇跡が、このクソゲーで起こるはずがない。
「違うニャ! 今のは完全にお主の意志だ! もう一度やってみるニャ、今度はもっとハッキリと!」
ポヌルに促され、彼は、もう一度、今度はもっと強く、尻尾を動かすことを念じた。
(動け! 右だ! 右に動いてみろ!)
ブンッ!
彼の意志に呼応するように、キョウの尻尾が、力強く右に振られた。続けて、左に念じる。
ブンッ!
今度は左に。まるで、長年連れ添った自分の手足のように、尻尾は彼の意のままに動いた。
京介の思考が、一瞬、完全に停止した。
そして、次の瞬間。彼の乾ききった精神の砂漠に、灼熱のマグマが噴き出すような、あまりにも熱く、あまりにも純粋な歓喜の感情が突き上げてきた。
「動く……! この尻尾……僕の意志で、動くぞッ!」
「ウガァァァァァァァァッ!!」
京介の歴史的な大発見に、水を差すかのように。
満足したのか、あるいはただ飽きたのか、キョウは再び魔王城へ向かって猛然と走り始めた。
いつもの絶望的なデスマーチの再開。
しかし、今の京介にとっては、もはやその道は、ただの死への一本道ではなかった。
彼の視界の端で、意志を持って揺れ動く一本の尻尾。
それは、あまりにも小さく、非力な部位かもしれない。
だが、この完全操作不能という名の暗闇の中で、彼が初めて見つけた、唯一、自分の意志でコントロールできる「身体」だった。
(この尻尾……このたった一本の尻尾で、何ができる? 壺を割るキョウの邪魔はできるか? ミノタウルスの気を引くことは? どこかにあるはずの、ログアウトボタンを押すことは……?)
それは、蜘蛛の糸よりも細く、脆いかもしれない。
それでも、それは紛れもなく、京介がこの世界で初めて自らの手で掴んだ、「希望」という名の糸だった。




