第18話 最初の奇跡
いつもの道。いつもの森。いつもの、魔王城へのデスマーチ。
先師京介の精神は、もはや悟りの境地……ではなく、単純に思考を放棄するという省エネモードに移行していた。
しかし、その日、彼の擦り切れた精神に、微かな違和感が警鐘を鳴らした。
(……静かすぎる)
始まりの村からこの森に至るまで、いつもなら道の両脇に、まるでアイドルの出待ちのように陣取っているはずの信者たちの姿が、今日に限って一人も見当たらないのだ。あれほど熱狂的だった彼らが、ピタリと姿を消している。
その不自然なまでの静寂が、京介の心にじわりと広がっていく。
◇
村と森の中間地点にある、緩やかな窪地。キョウの足がその中央付近に差し掛かった、その時だった。
(なんだろう……、この感じ)
京介が言い知れぬ不安を口にしたのと、隣を飛んでいたポヌルが眉をひそめたのは、ほぼ同時だった。
「……なんか、嫌な予感がするニャ」
ポヌルの言葉が、全ての始まりを告げる合図となった。
次の瞬間、前方の森の茂みが大きく揺れ、一体のモンスター――巨大な牙を持つ猪、クリムゾン・ボアが姿を現した。
(うわっ、出た! ……あれに勝てるのか?)
京介の目にも、そのモンスターが満身創痍であることが明らかだった。HPゲージは風前の灯火のように点滅し、もはや立っているのがやっとという様子で、時折よろけている。どう見ても、信者たちに散々痛めつけられた後、ここに「配置」された生贄だった。
「なんか弱っていそうに見えるニャ……」とポヌルが呟く。
しかし、一体だけではなかった。
右の岩陰から、左の林から、そして後方の丘の上から。次から次へと、同じように手負いのモンスターたちが、まるで示し合わせたかのように姿を現したのだ。ゴブリン、ウルフ、巨大蝙蝠……。その数は瞬く間に増え続け、あっという間にキョウの周囲360度を完全に包囲していた。
(これはマズイぞ……!)
「完全に、取り囲まれたニャ……!」
京介が青ざめる中、モンスターたちの包囲網のさらに後ろ、遠くの茂みの中から、無数の人影がこちらを窺っているのが見えた。見覚えのある顔ぶれ……あれは、キョウを「破壊神」と崇める、あの信者たちだ!
(そういうことか! あいつらの仕業か!)
京介が全ての状況を理解した時、絶体絶命の状況に置かれた狂戦士キョウは、天に向かって咆哮した。
「ウガァァァァァァァァッ!!」
その雄叫びを、ポヌルが待ってましたとばかりに、周囲に響き渡る大声で「翻訳」する。
「『愚かなる贄の群れよ! 我が神域を穢す不敬、その身をもって償うがいい! 我が名は破壊神! その理不尽なる神罰の前に、ひれ伏すがいい!』……と、最後の警告を発しておりますニャ!」
その神々しい(ように聞こえる)通訳は、信者たちの熱狂をさらに煽り立てた。
「おお……! マスターが、ついに本気をお出しになるというのか!」
「マスターの『天罰』!? 是非とも拝見したい!」
◇
包囲網は、ゆっくりと、だが確実に狭まっていく。
モンスターたちとの距離が、残り5メートルにまで差し迫った、その瞬間。
信じられない光景が、京介の目の前で繰り広げられた。
ズズズズズ…………
何の予兆もなかった。魔法のエフェクトも、地響きも、何一つない。
ただ、キョウを取り囲んでいた全てのモンスターたちが、まるで底なし沼に足を取られたかのように、一斉に、ゆっくりと、地面の中へと沈み始めたのだ。
「「「「「グエエエエエッ!?」」」」」
断末魔の叫びを上げる間もなく、モンスターたちは次々と地面に飲み込まれ、最後にはその姿を完全に見えなくしてしまった。後には、静寂と、何事もなかったかのような窪地が残されただけだった。
呆然とする京介の隣で、ポヌルが、まるでこの世の真理を語るかのように、静かに解説を始めた。
「……やれやれ。この世界のプログラムは、相変わらず作りが甘いニャ。まさか、創世記のバグがまだ残っていたとはニャ。この一帯の地形データには、致命的なバグがあるのニャ。一定数以上のオブジェクトが密集すると、座標計算のスタックがオーバーフローを起こし、物理演算が破綻。結果、全てのオブジェクトが座標ゼロ……つまり、この世界の奈落の底へと落下してしまうのニャ」
(オブジェクトの密集で物理演算が破綻する!? どんな豆腐建築だよ、この世界のプログラムは!)
京介のツッコミも虚しく、もちろん、バグで消滅したモンスターからの経験値は1ポイントたりとも入らなかった。
静寂の中、キョウが、短く、しかし威厳に満ちた声で、一言だけ吠えた。
「ウガッ」
ポヌルが、厳かに通訳する。
「『見たか、我が信徒たちよ。これが神罰だ』……と、申しておりますニャ」
その言葉は、信者たちにとって、まさに神の御言葉そのものだった。
彼らは、自分たちの計画が失敗したことなどすっかり忘れ、目の前で起きた最初の奇跡に、ただただひれ伏し、感激の涙を流すのだった。
(僕の耐久力はもうゼロだ……)
京介が、もはや何の感情も浮かばない虚無の表情で天を仰いだ、その時。
彼の絶望に呼応するかのように、キョウのお尻から生えた一本の尻尾が、ほんのわずかに、京介自身の意志で、「ピクリ」と動いた。
信者たちが偽りの奇跡に熱狂する中、この世界で最初の、そして唯一の『本物の奇跡』が、誰にも気づかれることなく、静かに産声を上げた瞬間だった。




