第14話 ポヌルの胃痛
「キョウ様、万歳!」
「あんたこそ真の英雄だ!」
盗賊団を(結果的に)壊滅させた後、森の中はキョウを称える歓声で満ち溢れていた。助けられた中堅プレイヤーのワッキヤックは感激のあまり涙を流し、元からのファンたちは我がことのように胸を張っている。その熱狂の中心で、当の狂戦士キョウは、そんな騒ぎなどどこ吹く風と、次の目的地である魔王城へ向けて走り出す準備をしていた。
しかし、そのアバターの内部にいる先師京介の心は、周囲の熱気とは裏腹に、氷点下まで冷え切っていた。
(なんで……なんで僕が、こんな目に遭わなくちゃならないんだ……)
周囲が騒げば騒ぐほど、彼の思考は暗く、深い沼の底へと沈んでいく。
そりゃあ、大学受験という人生の一大事を前に、「息抜きも戦略のうちだ」などと自分に言い訳をしてVRMMOに手を出した僕にも非はあっただろう。だが、その罰が「人生そのもののゲームオーバー」だなんて、あまりにも理不尽すぎやしないか。
(ほんの少しだけプレイして、雰囲気だけ味わったら、すぐに勉強に戻るつもりだったんだ。ログインして、数時間後にはログアウトして、また英単語の暗記に戻るはずだったんだ……!)
それなのに、現実はどうだ。ログアウトは不可能。キャラクターは操作不能の脳筋狂戦士。毎日毎日、おばあさんの家の壺を割り、魔王城に特攻してはミノタウロスのデコピンで死ぬ。そんな不毛なループを、もう何十回と繰り返している。
周囲の賞賛の声が、今はただの騒音にしか聞こえない。彼らが「破壊神」と崇める英雄の正体が、ただの暴走プログラムと、その中で絶望している哀れな受験生だと知ったら、一体どんな顔をするだろうか。
(ああ、もう嫌だ……。何もかも……)
京介の思考が完全にネガティブに振り切れた、その時だった。
「まぁ、フインキはたっぷり味わえたニャ」
いつの間にか隣に来ていたポヌルが、茶化すように言った。京介の心の落ち込みを、少しでも和らげようとしての発言だったのかもしれない。だが、今の京介のささくれた心には、その軽口すら棘のように刺さった。そして、彼の真面目すぎる性格が、無意識に言葉の誤りを指摘させていた。
「……すまないけど、『フインキ』じゃなくて、『雰囲気』だ。そういう細かいところが、後で合否を分けるんだ」
「……」
ポヌルの動きが、ピタリと止まった。その猫の顔からスッと表情が消えた。慰めでも同情でもない。「ああ、こいつ、今一番めんどくさいタイプの人間だニャ」という、あまりにも純粋な感情だけが、そこにはあった。京介には、その心の声が聞こえたような気がした。
ポヌルは一つ咳払いをすると、気を取り直して言った。
「ま、まぁ、受験勉強は、このゲームからログアウトしたらやればいいニャ! 今はとにかく、この状況を打開してログアウトする方法を、一緒に考えるニャ!」
しかし、その前向きな言葉も、今の京介には届かなかった。
「ログアウト? こんな操作もできない状態で、どうやってログアウトするって言うんだよ! 話すことすらできないんだぞ!」
「だから、それを我輩と、お主で一緒に考えると言っているのニャ!」
ポヌルが必死に励ます。京介にとって、この妖精猫が唯一の理解者であることは分かっていた。だが、一度溢れ出したネガティブな感情は、もう彼自身にも止められなかった。
「無理だよ。絶対に無理だ。僕はこのまま、受験に間に合わず、志望校にも行けず、かといってログアウトすることもできず、来る日も来る日も、ただ見知らぬおばあさんの家の壺を割り、ミノタウルスに殺されるだけの毎日を送って、この仮想空間で老いていくんだ……」
「そんなことないニャ! きっと、なんとかなるニャ!」
「どうせ、ポヌルだって面白がってるだけなんだろ。バグ持ちの面倒なプレイヤーが、どんどんおかしなことになっていくのを、安全な場所から観察してるだけなんだ。飽きたらどこかへ行っちゃうに決まってる」
もはや、ただの被害妄想だった。だが、京介にはそうとしか思えなかった。
その時だった。走り出すタイミングを計っていたキョウが、出発の合図のように、天に向かって咆哮した。
「ウガァァァァァァァァッ!!」
その雄叫びを聞いたポヌルが、これ幸いとばかりに、パッと顔を輝かせた。
「ほら見ろニャ! キョウだって、『俺に任せろ! なんとかなる!』って言ってるニャ!」
「……もういい」
京介は、ポヌルの苦し紛れの翻訳を、全てを諦めた声で、冷たく遮った。
「その咆哮に、そんな高尚な意味なんて何一つない。ただの獣の声だ。僕が一番よく分かってる。だから、もうやめてくれ」
唯一の理解者である妖精猫は、めんどくさいモードに入っている京介を、どのようにしたら面白い遊び道具にできるかと、いたずらっぽく思うのであった。
ポヌルは、小さな前足でそっと自分の胃のあたりを押さえた。
「はぁ……。まったく、お主のせいで胃が痛いニャ……」
その小さな呟きは、しかし、騒がしい歓声の中でも、不思議とハッキリと京介の耳に届いた。
(僕の……せい……)
ほんの少しだけ、彼のささくれた心に罪悪感がチクリと刺さる。
その表情の変化に気づいたのか、ポヌルがちらりと京介 (のアバター)の顔を見上げた。その口元には、先ほどまでの苦痛の色はなく、まるで狙い通りの反応を引き出せたことを喜ぶかのように、小さく、そしていたずらっぽく笑っていた。
「キョウ様! 我々もご一緒します!」
「そうだ! 破壊神様の戦いを、最後まで見届けようぜ!」
京介の芽生えたばかりの罪悪感も、ポヌルの愉快ないたずら心も、熱狂するファンたちの前では、あまりにも些細な出来事だった。




