第104話 ネゴシエーション
「グルァァァァァァァァッ!!!」
装甲竜の怒号が、魔王城のダンジョンに轟く。
その爬虫類特有の縦に割れた瞳孔は、もはやキョウを見てはいなかった。
完全に、後衛にいた無防備な少女――ヒメをロックオンしていた。
「ひっ……!」
ヒメは腰が抜けたようにその場へへたり込み、震える足で後ずさりすることすらできない。
鋼鉄の鱗に覆われた巨大な質量が、一歩、また一歩と、死神のように彼女との距離を詰めていく。
(まずい! ヒメちゃん! 早く逃げて!)
アバターの内部で、先師京介は絶叫した。
だが、その声は届かない。京介ができることと言えば、唯一操作可能な尻尾をバタバタと振ることだけだが、今の装甲竜は完全にヒメに夢中(もちろん殺意的な意味)で、そんな些細な動きになど目もくれなかった。
(くそっ……! 動けよ! 僕のアバターだろ! なんでこういう時だけ動かないんだ!)
京介が己の無力感に歯噛みし、絶望に打ちひしがれた、その時だった。
彼の意志とは全く関係なく、狂戦士キョウが動いた。
「ウガッ!」
キョウは、ヒメを狙って歩き出した装甲竜の背中に向かって、猛然とダッシュを開始した。
その目は、いつになく真剣で、コンビニの新刊コーナーに走る少年のように、強い意志に燃えていた。
(おおっ! キョウ! 分かってるじゃないか! そうだ、女の子がピンチなんだ! 助けに行くぞ!)
京介は、アバターの予期せぬ男気に感動した。
装甲竜がヒメの目の前まで迫り、その巨大な口を開いて「グルァ!」と威嚇の声を上げた、まさにその瞬間。
キョウは、装甲竜の太い尻尾を踏み台にして高く跳躍すると、その背中を駆け上がり、瞬く間に肩の上へと躍り出た。
そして、躊躇なく、装甲竜の肩口を、拳でバンバンと叩いた。
ドゴォ! ドゴォ!
「グルルッ!?」
突然の衝撃に、装甲竜が驚いて振り返る。
その肩の上には、仁王立ちするキョウの姿があった。
キョウは、装甲竜の注意が自分に向いたことを確認すると、ひらりと身軽に地面へと飛び降りた。
ドスン。
着地したキョウを、装甲竜がギロリと見下ろす。
その瞳から、ヒメへの興味は消え失せていた。
完全に、ヘイトがキョウに再固定されたのだ。
「た、助かった……!」
ヒメは、震える声で安堵のため息をついた。
彼女の目には、キョウの背中が、身を挺して自分を守ってくれた英雄のように映っていただろう。
「ありがとうございます! キョウさん!」
ヒメは、感謝の言葉を叫ぶと、フラつく足取りで懸命に走り、ロジックたちが畳を敷いてくつろいでいる安全地帯へと避難した。
一方、戦場に残されたキョウと装甲竜。
二体の巨大な影が重なり合い、さらに装甲竜が大きく翼を広げたことで、後方にいるヒメたちからは、二人が何をしているのか完全に見えなくなってしまった。
巨大なシルエットの陰から、低い唸り声だけが聞こえてくる。
「ウガァ!」
キョウの声だ。いつになく、何かを訴えかけるような響きがある。
その声に応えるように、装甲竜も唸り声を上げる。
「グルァ!」
「ウガガァ」
「グルルァ」
殴り合う音はしない。
ただ、獣同士の、短い鳴き声の応酬だけが続く。
その異様な空気を察知したのか、畳の上で優雅に抹茶を啜っていた天才軍師ロジックが、急に真剣な表情になり、茶飲み茶碗をコトリと置いた。
そして、懐から大急ぎで羊皮紙と羽根ペンを取り出し、猛烈な勢いで書き込み始めたのだ。
サラサラサラサラッ!
避難してきたばかりのヒメが、その様子に気づいて息を切らせながら尋ねた。
「ろ、ロジックさん……? 何を書いているんですか? キョウさんは……?」
ロジックは、眼鏡をクイッと押し上げ、羽根ペンを走らせたまま、興奮を抑えきれない声で答えた。
「静かに。……今、歴史的瞬間が訪れています」
「え?」
「耳を澄ませてみなさい。戦闘音が止んでいるでしょう」
言われてみれば、先ほどまでの激しい打撃音は聞こえない。聞こえるのは、二体の怪物の「ウガ」「グル」という掛け合いだけだ。
「マスターは、あの竜との対話を始められたのです!」
「た、対話……ですか!?」
ヒメが目を丸くする。
ロジックは、確信に満ちた瞳で装甲竜の影を見つめた。
「マスターの言語体系はまだ解読途中ですが、あの抑揚、あの間合い……。あれは単なる威嚇ではありません。おそらくマスターは、我々信徒たちに手を出さないよう、あのドラゴンと高度な政治的折衝を行っていると思われます!」
ロジックは、羊皮紙に『多角的安全保障体制』『包括的平和協定』『領土分割』『非核三原則』といった単語を書き連ねながら、震える声で断言した。
「これぞ、力による支配を超えた、王者の振る舞い……! 暴力という野蛮な手段を捨て、言論によって世界を統べる……! 神の外交交渉です!」
「す、すごいです……!」
ヒメは、両手で口元を覆い、感動に打ち震えた。
言葉の通じないモンスターとすら心を通わせ、仲間を守るために平和的解決を模索する。
その姿は、まさに彼女が夢見た「王子様」そのものだった。
「キョウさん……私なんかのために、そんなことまで……!」
ヒメの瞳が、再び涙で潤む。
信徒たちもまた、「おお……」「さすがマスター……」と感嘆の声を漏らし、お茶請けの煎餅を食べる手も止まっている。
――そんな中。
アバターの内部で、全ての真相を目の当たりにしている先師京介だけは、心底呆れ返り、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
(……アホか)
京介の視界には、ロジックたちの妄想とはかけ離れた、あまりにもシュールな現実が広がっていた。
装甲竜の巨大な背中の陰。
そこでは、キョウと装甲竜が、地面に座り込み(ヤンキー座り)、頭を突き合わせるようにして、一冊の分厚い雑誌を覗き込んでいたのだ。
そう。
先ほど、京介の尻尾アシストによって発見された、『週刊少年ノウキン 合併特大号(付録付き)』である。
「ウガァ!(おい、ここ! ここ見てみろ!)」
「グルァ!(マジか! 俺まだそこ読んでなかったんだよ!)」
「ウガガァ(ここの展開、熱いよな!)」
「グルルァ(わかるわー! この必殺技のとことか最高だよな!)」
(……コンビニの前でたむろしてるヤンキーかよおおおおおおお!!)
京介の魂のツッコミが炸裂する。
キョウがヒメを助けるために突進した? 違う。
彼はただ、さっき見つけた漫画が気になって、「おい、一緒に読もうぜ!」と装甲竜にアプローチしただけだったのだ。
肩を殴ったのも、「ねえねえ」と呼び止めるためのスキンシップ(ゴリラ基準)に過ぎない。
そして今、二人は戦いを忘れ、少年のように肩を並べてページをめくっている。
装甲竜に至っては、器用に鋭利な爪先でページをめくりながら、「ここ、伏線だったんだよなぁ」みたいな顔で深く頷いている始末だ。
(お前ヒメちゃんを助けたんじゃなくて、「面白いのあるから一緒に読もうぜ!」って誘っただけだろ! 戦闘中に2人で漫画を読むな! 緊張感どこ行った!)
しかも、驚くべきことに。
キョウのステータス画面には、燦然と輝く【INT:1】の文字がある。
知力1。
それは、文字が読めるかどうかも怪しいレベルの数値のはずだ。
(INTが1でも、漫画は読める事が分かった……。漫画という文化の偉大さを、こんなところで実感するとは……)
京介は、この世界のあまりにもガバガバな設定と、漫画の普遍性に、妙な感心を覚えてしまった。
だからなんだ、という話だが。
その時、装甲竜が「グルッ(ゴクリ……)」と短く鳴いて、慎重に次のページをめくった。
そこには、厳重に糊付けされた、付録の「袋とじ」があった。
「ウガッ!!」
「グルァ……!」
キョウと装甲竜が、同時に目を輝かせ、身を乗り出す。
そこには、種族を超えた、男としての熱い連帯感が生まれていた。
(……もういいよ。好きにしてくれ)
京介は考えるのをやめた。
ロジックたちが「神の外交交渉」に感動している間に、この場が収まるなら、それはそれで結果オーライなのかもしれない。
ただし、この後、読み終わった漫画の所有権を巡って、あるいは「どっちが袋とじを開けるか」という一点を巡って、再び血で血を洗う争いが勃発する可能性については、今は考えないことにした。




