第9話 天才軍師(?)現る
銀縁の眼鏡をくい、と中指で押し上げながら、その男――ロジックは静かに森の木陰に佇んでいた。彼の名は、VRMMO「ミステイク・ダストボックス・オンライン」において、一部のトッププレイヤーたちの間で畏敬の念を込めて囁かれている。「天才軍師」の異名を持つ、クールな頭脳派プレイヤーである。
「破壊神キョウ……。レベル1の素手でフィールドボスを退け、岩を砕いて温泉を湧かせる……。論理的に考えれば、あり得ない現象の連続だ。しかし、噂がこれほど具体性を帯びている以上、無視はできない」
彼の口癖は「論理的に」だ。あらゆる事象をデータと確率で分析し、最適解を導き出す。そんな彼にとって、「破壊神キョウ」の噂は、彼の論理体系に対する挑戦状にも等しかった。
「噂が真実か、あるいはプレイヤーたちの集団幻想か。この目で直接観測し、論理的に分析する必要がある」
ロジックは、キョウが必ず通るであろう、始まりの村から魔王城へと続く街道を見据えていた。彼の緻密な情報収集と分析によれば、対象は間もなくこの地点を通過するはずだった。
そして、彼の予測通り。しばらくして、森の道の向こうから、一人のプレイヤーが猛然と走ってくるのが見えた。
筋骨隆々の肉体。装備は初期装備のまま。ケットシーを連れている。間違いない。あれが「破壊神キョウ」だ。
ロジックは、完璧なタイミングで木の陰から姿を現し、キョウの進路上に穏やかに立ち塞がった。
「はじめまして、キョウ君。私の名はロジック。この世界の理を解き明かす者……しがない一介の軍師だ」
優雅なお辞儀と共に、彼は完璧な自己紹介を披露した。彼の計算では、ここで相手は足を止め、何らかの反応を示すはずだった。しかし――。
キョウは、ロジックの存在などまるで意に介していないかのように、一切速度を緩めることなく彼の真横を駆け抜けていった。
(無視するなあああああ! せっかく人が格好つけて挨拶してるんだから、ちょっとは反応しろ! 失礼だろ!)
先師京介の内心のツッコミも虚しく、キョウは風のように去っていく。
残されたロジックは、しかし、全く動じていなかった。彼は再び眼鏡の位置を直すと、不敵な笑みを浮かべた。
「なるほど……無意味なコミュニケーションを排し、本質的な行動のみで意思を問う……。これが『破壊神』の流儀か。実に合理的だ。面白い。ならば、君の行動原理、最後まで見届けさせてもらおう」
言うが早いか、ロジックはキョウの後を追いかけ、全力疾走を開始した。
それから数十分後。天を突く魔王城の門の前で、二人の対照的な姿があった。
一人は、息一つ乱さず仁王立ちする狂戦士キョウ。
もう一人は、両膝に手をつき、ぜえぜえと肩で息をする天才軍師ロジック。彼のクールな表情は見る影もなく、汗だくで髪も乱れていた。
「はぁ……はぁ……。私のINTはカンストしているが、SPDは初期値のままだったか……。そ、それにしても、なんというスタミナだ……。レベル1のステータスとは到底思えん。噂は……全て真実だったというわけか」
ロジックが何とか呼吸を整えた、その時だった。
ギギギ……と、魔王城の巨大な門が開き、中からあの絶望の象徴、ミノタウルスが姿を現した。
ロジックの目の前で、キョウは天に向かって咆哮した。
「ウガァァァァァァァァッ!!」
すかさず、横にいたポヌルが、まるで待ってましたとばかりに通訳を始める。
「『恐れるな。我が前に道はない。そして我が歩んだ後に、道はできる!』……と、その魂が叫んでおりますニャ!」
そして、キョウは一歩、また一歩と、レベル50相当の門番に向かって、臆することなく歩き始めたのだ。
そのあまりにも無謀な光景に、さすがの天才軍師も冷静ではいられなかった。
「馬鹿な! 相手はミノタウルスだぞ! 論理的に考えてレベル1で敵う相手ではない! 無謀だ!」
(僕もそう思いますッ!! やっと話のわかる常識人が現れた! そうです! 言ってやってください!)
京介が、ロジックという名の救いの神の登場に、心の中で快哉を叫んだ、その瞬間。
ロジックは、キラリと眼鏡を光らせると、ハッとしたように呟いた。
「……いや、待てよ。あの『破壊神キョウ』が、何の策もなしに突撃するはずがない。レベル、装備、ステータス……そういった既存のデータに囚われていた私の思考が、まだ浅かったということか」
彼は、まるで真理を見つけたかのように、一人深く頷いた。
「そうだ……。これは我々凡人の常識を遥かに超えた、何か深い戦略が隠されているに違いない。あの突撃は、論理的に計算され尽くした神の一手なのだ!」
(この人、キョウ以上に話が通じないタイプのヤバい人だったあああああ!)
京介の悲痛な叫びは、天才軍師のあまりにもポジティブすぎる分析の前には、あまりにも無力だった。
だが、天才軍師の分析はこれでおわりではなかった。




