其ノ壱 414号室 五③
「先生も疲れているんだよ。休日くらいしっかり休まなきゃ」
「……そうですね。私、張り切り過ぎたみたい」
言いながら、先生はスマホをいじり始めた。
まさか俺のことを警察に通報したりなんてしないよな⁉
「うわっ。LANEがたくさん届いてる。まずったなぁ……」
「祭りの打ち合わせ?」
「ええ。今から行っても大遅刻だわ。他の先生や町内会の人になんて言われるか」
「もう休んじゃいなよ。幻覚見るほど疲れているんだから、絶対それがいいって」
「……そうね。そうする」
先生はいくつかの操作をした後、スマホを布団の上に投げ置いた。
そして、苦笑いのまま俺を見据える。
「あ~あ。仮病で休むってことにしちゃったわ」
「そりゃまた教師らしからぬ行為で」
「仕方ないでしょう。あんな幻覚を見るくらい疲れているのだから、少しでも体を休めて明日の仕事に支障ないようにしないと」
「ああ、金曜は平日――学校あるんだっけ。連休だったらよかったのに」
なんだか今の先生はとてもリラックスしていて、教師と話している気がしない。
プライベートの先生ってこんな感じなのか。
なんというか……ぐっとくるな。
「ところで先生、何があったんですか?」
「それが……バスルームで髪を洗っている時、何かが頭に触れたの。その時は気のせいだと思ったのだけれど、頭を上げたら鏡に……か、顔が映っていたから驚いちゃって」
「顔?」
「ええ。あれはたぶん……女の人の顔」
「それって自分の顔じゃないの?」
「私じゃないわ! 私の真上にいるのが見えたんだもの‼」
うわぁ。
それって怪談でよく聞くシチュエーションじゃないか。
疲れやストレスでその類の幻覚が見えたってこと?
先生、やっぱり休んだ方がいいな。
「それで飛び出してきたんだ。いきなりだったからマジで驚いたよ」
「ご、ごめんね! 床も水浸しにしちゃって……っ」
「いいってそんなの。それより先生が怪我しなくて良かったよ」
午後の予定がなくなったということは、これからどうするんだろう。
もう少し一緒にいれたら嬉しいけど……先生には、これ以上この部屋にいる理由なんてないんだよな。
「先生。その、もう少し自炊について教えてほしいんだけど」
「いいですよ! せっかくだし、夕飯も一緒に作りましょうか」
「いいの⁉」
「何か食べたいものはありますか? 好きなもの作ってあげますよ」
「それじゃハン――」
その時、俺の声を遮るように突然バスルームから何かが割れる音が聞こえた。
俺と先生はその音に身が強張ったが、幻聴ではなくしっかりと聞こえてきたので無視するわけにもいかない。
そして、状況を確認するのは俺の仕事だろう。
先生と顔を見合わせた後、改めてバスルームを覗いてみると――
「なんだこりゃ⁉」
――鏡に大きなヒビが入っていた。
まるで何か硬い物を叩きつけたような割れ方だ。
何の前触れもなく、いきなり鏡がこんな割れ方をすることなんてありえるのか?
「いやあぁぁぁっ! た、助けてぇぇっ‼」
今度は洋室の方から先生の悲鳴が!
バスルームから出た俺が見たのは、窓を開けてバルコニーに出ていく先生の姿だった。
「先生⁉」
その光景は明らかに不自然なものだった。
先生は俺に顔を向けた状態で、引っ張られるように後ろ歩きをしていた。
しかも窓を開けたのは先生自身ではないようにも見えた。
一体何がどうなって――と困惑する中、先生は手すり壁に背中をぶつけて、ブリッジするように壁にもたれかかってしまう。
「うわあああぁぁっ! 何やってんだよぉぉぉ‼」
慌ててバルコニーに飛び出し、先生の体を抱きしめて洋室へと引きずり戻した。
今のはマジでギリギリだった。
背中を手すり壁に乗せていたところだったので、あと一秒でも引っ張るのが遅れたら落下していたかもしれない。
「ひいぃっ」
「何やってんのさ、先生⁉」
先生は大粒の涙を浮かべて俺に抱き着いたまま離れない。
胸の弾力が心地いい――じゃなくて、これはマジで洒落にならないぞ‼
「この部屋はダメよ! すぐに出ましょう‼」
「えぇ? 部屋がダメってどういう……ってか、先生どうしてこんなことを」
「説明できることじゃないわ! 今すぐここから出るのよ‼」
俺は訳も分からず、先生に引っ張られて玄関口へと向かった。
ドアを開いて、外廊下へと二人揃って裸足で飛び出す。
「ちょっと待って! せめて靴くらい履かせてよっ」
「そんな余裕なんてないのっ‼」
エレベーター前まで突っ走った後、後方から大きな音が鳴った。
まるでドアを蹴り開けたような音に、俺はとっさに振り向こうとした……が、それを先生が遮る。
「振り返っちゃダメ‼」
そう言う先生の顔は見るからに青ざめていた。
この人、俺の後方に何を見ているんだ?
「ああ、そんな……嘘でしょう⁉」
「何⁉」
「ダメ、あれは絶対……ダメッ」
「先生、しっかりしてっ」
先生はガタガタと震えていた。
全身が竦み上がっていて、その場からまったく動けない様子。
それが俺の不安を駆り立てていく。
「ヲォ……クォ……セェ……」
背後からくぐもった声が聞こえてきた。
聞いた傍から鳥肌が立つような不気味な声に、嫌な汗が滲み出てくる。
「冗談じゃないわ……!」
先生は誰と喋っているんだ?
「ウァアァ……シィノォ……」
また同じ声で、不気味な言葉が聞こえてくる。
「渡さないから‼」
渡さない?
それってどういうこと?
「この子は私の生徒よ! 絶対に守ってみせる‼」
先生が俺を力強く抱きしめた。
触れ合う胸から、彼女の心臓の鼓動が聞こえてくる。
それほど俺達は密着していた。そして――
「ォノォ……イィ……ンヴァイ……ガッ……」
――耳元でそう囁かれた直後、俺の脇の下を何かが通り抜けた。
それは槍のように真っすぐと先生の脇腹へと突き刺さり、その体を勢いよく壁へと叩きつけてしまう。
「な……っ⁉」
あまりにも非日常な光景を目にして、まともに声すら出せなかった。
……今ならわかる。
俺にも感じる。
俺の後ろに、何かがいる‼
「逃げ、て……宗像、くん……」
先生に突き刺さっているのは槍ではなく、折りたたまれた黒い傘だった。
先生はなんとかそれを引き抜こうとしたが、抵抗空しく傘はさらに体の奥へと押し込まれていく。
腹部には鮮血が滲み、スカートを赤色に染め上げていく。
血の臭いに眩暈がし始めた頃、俺は混乱する頭で何をするべきか必死に考えた。
これは夢?
それとも現実?
どちらにしても、俺は――
「に、げ、て……っ」
――先生を助けないと‼
「やめろぉーーーっ‼」
押し込まれていく傘を掴み取り、叫びながら背後へと振り向く。
その瞬間――
「ネンネ」
――その一言を最後に、俺の視界は真っ暗になった。