其ノ壱 414号室 五①
「あっきれた! それで昨夜はネットカフェに泊まったんですか⁉」
朝、駅前で合流した桜野先生に昨日のことを話すと、心底呆れた顔をされた。
「他人事だからって先生、こっちはマジでビビったんだよ?」
「お化けなんているわけがないでしょう。月岡くんも飛田くんも疲れていたのですよ」
「そうですかね?」
「月岡くんは道場の稽古が厳しくて大変と言っていたし、飛田くんに至ってはほとんど毎日あちこちの運動部に顔を出しているそうじゃないですか。疲労が溜まっていても不思議じゃありません!」
「う~ん。まぁ、そう考えるのが妥当ですよね」
「まったく、そんなことで貴重なお金を無駄にするなんて……」
言いながら、先生は俺の額をつついた。
「あ、そうだ。きみ――」
言うが早いか、先生がいきなり顔を近付けてきた。
びっくりして固まっていると、彼女は俺の服に鼻を近付けて、あろうことか臭いを嗅ぎ始める。
……どういうこと?
「――ふむ。ちゃんと洗濯はしているようですね」
「し、してるよっ! 洗濯機だって買ってんだからっ」
周りに人がたくさんいる中でそんなことをされたものだから、俺は恥ずかしくて顔が熱くなってしまった。
洗濯しているかどうか知りたいなら、臭いを嗅ぐんじゃなくて口で聞けっての!
「学生服と違って、私服はその人の人となりがあらわれますからね。ちゃんと洗剤を使って日干ししないと、変な臭いがついちゃいますから注意してくださいね」
「母親かよ!」
「せめてお姉さんと言ってくださいよ」
今日はゴールデンウィーク初日。
駅前は祝日にも拘わらず大勢の人が行き来していた――いや。祝日だからこそ、か。
「10時か。お昼にはまだ早いから、少し寄り道をしていきましょうか」
「寄り道? どこに行くのさ」
「近くに商店街とかありません? せっかくですし、そこで食材を買っていきましょう。どうせ冷蔵庫には料理できるようなものは入っていないのでしょう?」
そう言われて、ギクリとした。
「やっぱり。結局今まで自炊しなかったのですね!」
「その、色々と忙しくて」
「まったくもう。コンビニ弁当も良いですけど、ちゃんと家計簿はつけているのでしょうね?」
「家計簿?」
「……状況いかんでは、ご両親に連絡する必要がありそうですね」
「えぇっ⁉」
もしかしてこの人、親に言われて俺の生活環境をチェックしにきたのか⁉
自炊を教えるってのは建前か‼
「ほら、行きましょう!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
先生に言われるがまま、俺は最寄りの商店街へと足を向けた。
商店街なんて、本屋とゲーセンくらいでしか足を運んだことがない。
道すがら周りをよくよく見ると、精肉点やスーパーなんかがけっこうあったんだな。
意識してみてようやくそれに気付いた。
そりゃ人がいっぱいいるわけだ。
「キャベツとほうれん草はさっきのお店が一番安いみたいですね。お肉はここが一番かしら。じゃがいもは……どこも変わらないみたい」
料研の買い出しでもそうだったけど、先生はずいぶん手慣れた様子で食材をチェックしている。
行く店行く店でいちいち値札を見て回るなんて、けっこうな拷問だと思うけど……食品の買い出しってこれが普通なのかな。
「とりあえず一通り回って値段のチェックは終えました。それじゃ戻りましょう」
「俺ん家に行くの?」
「まだ早いですから! レシピに必要な食材を、これから最安店で買っていくのです!」
「えぇ~」
「もう11時を回ってしまったし、急ぎましょう。私、遅くとも2時までしかいられないので」
先生は俺の手を引いて商店街を足早に歩き始めた。
なんだか言われるがままになっている俺って……格好悪い?
と言うか、女性に手を握られたのって――母親以外では――初めてかも。
そう考えるとちょっと気恥ずかしい。
先生は休みの日ということもあってか、フリフリしたブラウスにロングスカートという出で立ちをしていた。
普段、学校で見る教師然としたスーツ姿とは違うカジュアルな格好に、駅で見かけた時は別人かと思ったくらいだ。
髪も後頭部で結ぶポニーテールではなくストレートにしているし……ものすごく異性を感じてしまう。
今は俺も普段着だし、もしかして周りから見たらこの状況って――
「デェト……⁉」
「え、何?」
「な、なんでもないっす!」
――思わず思ったことを口に出してしまった。
何をテンパっているんだ、俺は。まったくもって恥ずかしい。
それから必要なものを買い込んだ後、先生を案内しながら自宅マンションへと向かう。
到着したのは、12時に差し掛かる頃だった。
「ふぅん。ここがきみのお家ですか。なかなか良いところに住んでいますね」
「まぁ安かったもんで」
「あなたがお金を出しているわけじゃないでしょうに。ご両親に感謝してくださいね、こんなマンションで暮らさせてもらっていること!」
「そっすねー」
適当に返事をしたら、また額をつつかれた。
エレベーターから四階に出た時、どこからかドアが閉まる音が聞こえた。
外廊下を眺めても明かりがついている窓は見られない。
まぁ昼頃なら電気をつけない人もいるだろうから、別におかしな話じゃないか。
「あなたのお部屋は?」
「414号室」
「あら。もしかして角部屋? ますます良い部屋じゃないですか」
「日当たりも良いよ」
言いながら、414号室へ。
途中、413号室の暗い窓に人影があるのを目にした。
薄暗いキッチンで料理でもしているのかな? 目が悪くなりそう。
414号室のドアはしっかりと施錠されていた。
昨日、部屋を飛び出す時に鍵を掛けた覚えはないんだけど、無意識に鍵を掛けていたのかな。
まぁ一人暮らしも慣れてきたってことか。
それよりも、これから俺の部屋に先生が入ることの方が問題だ。
中は雷門達が来てからまったく片付けていない。
布団も敷きっぱなしだし、ゴミだって散らかったままだった気がする。
また先生の小言を浴びそうだなぁ。
俺がドアを開け渋っていると、先生が肩をつついてきた。
「別に部屋が汚いことを気にする必要はないですよ? 男の子の部屋なんて、散らかっていて当然ですから」
「そ、そうすか?」
「そうですよ」
そうは言っても、人生で初めて自分の部屋に女の人を上げるんだぞ。
しかも、それが校内屈指の美人女教師――なんかこの言い方エロいな――とくれば、緊張だってする。
今さらながら、掃除しておけば良かったと後悔した。
「ほら、早く開けてお部屋を見せてくださいよ。オープンオープン!」
……学校では見せないキャラだな。正直、可愛いと思わざるを得ない。
小言もやむなし、と覚悟を決めて部屋に入ると――
「あれ」
――洋室の状態にちょっと驚いた。
「あら。思っていたよりずっと綺麗にしているじゃないですか!」
床に敷いたままだったはずの布団が丁寧に畳まれている。
散らかっていると思っていたゴミがきちんとゴミ箱に入れられている。
……片付けた覚えはないんだが、どうしてだろう?
もしかして昨日、三人のうちの誰かが律儀に片付けてくれたのかな。
あの時は別のことに気を取られていて、まったく気が付かなかったけど。
「料理の前にお掃除だろうなと思っていたけれど、その必要はありませんでしたね。もしや私が来るから事前に掃除していたとか?」
「そういうキャラに見える?」
「あはは、見えませんね。きみって大雑把だから!」
そう言う評価なのね、俺って。
「それじゃあ早速自炊を実践してみましょうか!」
「そうっすね。せっかくの機会だし、よろしくです」
「炊飯器はどこですか?」
「あっ。俺ん家、炊飯器ねーや」
結果、予定していた料理に変更が加わることに。
俺はと言うと、先生にはまたもや額をつつかれてしまった。
その後、先生に手取り足取り教わりながら初めて真っ当な料理に挑戦。
包丁の扱いに少々苦戦したものの、先生の指導の賜物か、なんだかんだ上手い具合に料理を作り終えることができた。
その中で、彼女のことも少し知ることができた。
「先生って包丁を扱う時、小指を立てるんすね」
「あら、よく見ているわね。昔からの癖なんです、小指を立ててしまうの」
それから俺と先生は洋室で実食に移り、その間も色々な料理のコツを教わった。
まぁ料研の時間と同じような感じだけど、二人っきりなので自然と先生とのやり取りに特別感が増す。
……彼女にするなら、こんな家庭的な女性がいいな。
「先生、彼氏いるの?」
「いませんよ。どうしてです?」
「えぇっと……料理が得意だから、しょっちゅう作ってるのかなって」
「毎日作っていますよ。私も一人暮らしですから」
彼氏なしと聞いて、ホッとする自分がいる。
なんか俺、ちょっと先生を意識し過ぎ?
「きゃっ⁉」
気分よく食事を進めていると、先生が突然悲鳴を上げた。
彼女が窓の外を見ていたので、俺も釣られて同じ方向へ向く。
しかし、バルコニーには何も変わったものなどなかった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもありません。勘違いです、たぶん……」
先生は料理の置かれたテーブルに視線を戻して、それからバルコニーの方を見ることはなかった。
何事もなかったかのように振る舞っているけど、明らかに表情が強張っているのがわかる。
そう言えば、月岡もバルコニーに顔が見えたって言っていたよな。
まさか本当に隣人が部屋の中を覗いているなんてことないよな?
月岡は道場で頑張り過ぎて疲れているから、幻覚を見たってことでいいんだよな?
……よな⁉