町を覆う発酵の盾
赤い星札が、俺の頭へ刺さった。
「痛っ!」
「大将、危険圧!」
「見れば分かる! 今、危険が直接刺さった!」
頭から札を引き抜く。
その瞬間、白い管の奥で金属が軋んだ。
ぎぎぎぎぎ――。
低い音が壁を這い、六本脚から腹へ上がってくる。
試験の布筒とは違う。
管そのものが、内側から膨らんでいる。
「全員、配置!」
叫ぶより早く、二号の警報糸が鳴った。
ぼん、ぼん、ぼーん!
白い粉の三音。
町中の壁と床が、同じ低い拍で震える。
「幼体、学校の滑り台へ!」
「もう入った!」
ピコの声が返る。
「食堂、鍋へ蓋!」
「硬焼きも片づけた!」
バルグ。
「今日は穴へ詰めるなよ!」
「二度はやらん!」
「一度やった自覚はあるんだな!」
「学習する男や、俺は!」
「学習した結果が硬焼き隠し食いはやめろ!」
「あれは学習前の俺!」
「昨日の話だろ!」
北壁へ走る。
白い管が、太った蛇みたいに震えている。
青い丸札はとっくに落ちた。
黄色い三角も床。
残っている赤い星が、一枚、二枚――。
ばらばらばらっ!
「全部落ちた!」
ジロが叫ぶ。
「想定最大圧の一・七倍。まだ上昇中!」
「本番で数字を増やすな、この装置!」
「装置へ言っても下がりません!」
「分かってる! でも言わせろ!」
ガルダン王が滑車の中央へ立つ。
「第一弁、閉鎖!」
深根隊が糸を引く。
人間の留め具が回り、針の軸が低く唸る。
ぎゅるるるるっ。
巨大弁が白い管へ食い込んだ。
がこんっ!
「第一弁、閉じた!」
「第二弁は待て!」
俺は管へ触角を向ける。
第一と第二を同時に閉めれば、間へ溜まった圧が逃げない。試験で決めた通り、横の再処理穴へ半分流してから閉じる。
「逃がし穴、開け!」
チュウタ隊が土栓を引く。
ぶしゅうううっ!
白い粉が脇穴から噴き、濡れた隔離壺へ流れ込んだ。
粉が水を吸う。
さらさらだった白が、ぼこぼこと膨れ、重い泥団子へ変わる。
「壺一、満杯!」
「二へ切り替え!」
「二も速い!」
「三を出せ!」
「三は食堂の漬物壺や!」
二号が壺を抱えて走ってくる。
「中身は!?」
「全部食った!」
「いつの間に!」
「非常事態や!」
「非常食をお前一匹で非常にするな!」
叱っている間にも壺は必要だ。
「後で腹を調べる! 今は置け!」
「何で腹まで!?」
三つ目の壺へ粉泥が落ちる。
管の震えが、少し弱くなった。
「第二弁、今!」
ガーロ隊が反対の糸を引く。
がららららっ!
循環菌床が回り、弁の隙間へ厚い発酵菌の帯が入る。
白い粉が菌床へぶつかった。
じゅわっ。
茸味噌に似た、少し甘く、少し酸っぱい匂いが広がる。
白い粉の吸着力が落ち、さらさらの灰みたいに崩れた。
「第二弁、閉鎖!」
がきんっ!
二重弁が閉じた。
防壁の外布が大きくへこむ。
ぐぐぐぐっ、と低く押され、左右の逃がし穴が一斉に白く煙る。
「耐えてる!」
「菌床帯、一列目交換!」
ガーロが片翅の身体を滑車台へ固定し、前脚で糸を引く。
汚れた菌床が下へ。
新しい菌床が上から回る。
「二列目!」
「まだ早い!」
俺は触角を菌床へ向ける。
酸っぱい発酵臭の奥に、白い粉特有の乾いた魔力のざらつきがある。
「一列目の上半分は生きてる! 下だけ替えろ!」
「帯は一周つながっている」
「途中で止めて、半分だけ重ねる!」
「やってみる」
ガーロ隊が滑車を逆へ少し戻す。
新旧二枚の菌床が、壁の中央で重なった。
薄い方だけを使い切り、まだ働く部分を残す。
「交換時間、半分。菌床消費、四割減」
ジロが叫ぶ。
「大将も一つ役に立ったな」
ガーロが言う。
「一つって言うな! 今から増やす!」
北壁は耐えている。
これなら止められる。
そう思った。
俺の右触角が、北ではない震えを拾った。
足元。
細い。
でも、一つじゃない。
ぴしっ。
学校へ続く石床に、白い線が走った。
「全員、床から離れろ!」
ぴし、ぴしぴしっ!
亀裂が枝分かれする。
次の瞬間、町の床が白く噴き上がった。
ボシュウウウウッ!
細かな浄化材が何十本もの柱になり、農園、食堂、学校前へ噴き出す。
「防壁を回り込まれた!」
「違う!」
先生の頭蓋骨が手押し台の上で回る。
『古い分配管だ! 北の主配管を閉じたため、休止していた枝管へ圧が逃げた!』
「聞いてないぞ!」
『私も今、思い出した!』
「先生の記憶、本番で追加される仕様やめて!」
『三十一年前の設備へ言ってくれ!』
白い粉が床を這う。
触角へ乾いた痛みが刺さった。
びりっ。
先が痺れる。
俺は腹を床から浮かせた。呼吸孔へ入れば、魔力どころか息まで持っていかれる。
「濡れ布!」
食堂から布が飛んでくる。
チュウタが咥えて投げ、ゴキブリ隊が空中で受ける。
自分たちの腹へ巻く。
幼体の滑り台入口へ詰める。
先生の骨へ巻きつける。
『私は包帯の見本ではない!』
「骨にも粉がつく!」
『もっと丁寧に巻け! 肋骨が全部一束になっている!』
「生きて帰ったら直す!」
農園側から叫び声。
「七番区画へ粉が入った!」
俺は壁を走る。
床は白い粉で覆われ始めた。人間なら靴で踏んで進める。今の俺は、腹が床から数ミリしか離れていない。
一粒一粒が、触れれば魔力を奪う石だ。
六本脚の爪先だけを壁の細かな凹みへかける。
右、左、右。
身体を薄くし、粉の上ではなく垂直の壁を道にする。
「こんな時だけは、壁を走れる俺が格好いい!」
「自分で言うな!」
同じ壁を走る二号が後ろから叫ぶ。
「誰も言う余裕ないだろ!」
「あとで言ったるから今は走れ!」
「約束だぞ!」
「忘れたら二号の歌に『格好つけたのに忘れた大将』って追加するからな!」
「その脅し、地味に効く!」
速度が少し上がった。
農園へ着く。
白い枝管が、畑の中央で口を開けていた。
粉が七番区画へ降り注ぐ。
最初に芽を出した作物。
何度も水をやりすぎ、乾かしすぎ、虫へ食われ、それでも育てた畑だ。
葉が白くなる。
魔光苔の光が弱くなる。
「菌を撒け!」
「そのまま撒いたら、作物の根まで食べる!」
農園係クルが止める。
「じゃあ畑を諦めるのか!?」
「諦めない! 根と菌を分ける!」
クルが畝の横へ走る。
「七番区画を掘り上げて!」
「畑ごと?」
「薄い根床を一枚にする! その下へ交換菌床!」
チュウタたちが土魔法を流す。
ごごごごっ。
畑の縁が揺れ、根を抱いた土が薄い板のように持ち上がった。
ゴキブリ隊が隙間へ潜る。
白い粉の真下。
乾燥殻粉を混ぜた菌床を、根へ触れない高さで敷いていく。
「狭い!」
「ゴキブリの出番や!」
二号が菌床を押す。
「もっと右!」
「大将の右? 俺の右?」
「地上から見た右!」
「誰が見とるん!」
「俺たちの進む方!」
「それ前や!」
「じゃあ前!」
言葉が崩れる。
でも、触角は隣の動きを拾っている。
クルの脚音。
チュウタの土が緩む前触れ。
二号が菌床を押す拍。
見えなくても、全員の位置が分かる。
「一斉に抜ける! 三、二、一!」
畑の下から飛び出す。
チュウタが根床を下ろす。
上から来た白い粉を、根より下の菌床が吸い込んだ。
じゅじゅじゅっ。
白い筋が茶色へ変わる。
作物の葉へ、魔光苔の光が戻った。
「畑、防衛成功!」
「七番区画、生きてる!」
クルが葉へ頬を寄せる。
喜ぶ暇は一呼吸。
食堂側で警報糸が鳴った。
ぼん、きん、ぼん!
「壁の破損!」
「面倒な物かもしれん!」
二号が言う。
「俺はここにいる!」
「ほな本当に破損や!」
食堂へ走る。
床下から噴いた粉が、保存庫の扉を押し上げていた。
ぴしっ。
扉の蝶番代わりの糸が一本切れる。
中には、遠征用の保存食と発酵壺。
「全部、運び出せ!」
「間に合わん!」
二号が壺へしがみつく。
「茸味噌だけでも!」
「お前、本当に味噌が好きだな!」
「これ作るまで何回爆発したと思っとるんや! 俺の触角、三日匂い取れへんかったんやぞ! あの苦労が今ここで白い粉に食われるとか、納得できるか!」
「俺だって納得できない!」
保存食は地上遠征のために作った。
一壺ずつ洗い、量を測り、失敗した壺へ印をつけ、やっと貯めた。
ここで全部失えば、地上へ行けない。
でも壺を守って、町の誰かが倒れたら意味がない。
「蓋を開けろ!」
「粉が入る!」
「中の発酵菌を使う!」
二号の触角が止まる。
「全部?」
悔しそうな声だった。
「全部だ」
俺の脚も、壺の同じ場所を何度も掻いた。
嫌だ。
もったいない。
地上でみんなと食べたかった。
茸味噌を知らない相手へ、得意げに見せたかった。
でも、今ここで使うために作ってきたとも言える。
「町を食わせた発酵菌だ。今度は町を守ってもらう!」
「……終わったら、また作るで」
「今度は爆発なしでな!」
「それは約束できん!」
「そこはしろ!」
発酵壺の蓋を一斉に開ける。
ぽんっ!
ぽぽぽぽぽんっ!
熟成した茸味噌の匂いが、食堂から大通りへ爆発した。
「いい匂い!」
「腹減った!」
「今食べるな!」
中身を油布へ薄く広げる。
人間の道具袋から作った雨水膜。
普段は天井の水を集める布を、今日は巨大な発酵の盾へ変える。
「持ち上げろ!」
ネズミ族が四方の糸を引く。
ゴキブリ族が布の端へ並び、隙間を身体で確認する。
先生が弱い風魔法を送る。
茸味噌を塗った油布が、大通りの天井へ広がった。
床から噴き上がった白い粉が布へ触れる。
ざざざざざっ!
粉の雨が、頭上で止まった。
白い粒が茶色く固まり、味噌の上へ貼りついていく。
「食堂、防衛成功!」
「茸味噌、防御力高い!」
二号が涙声で叫ぶ。
「食べても塗っても使える!」
「次から食堂の壁へ塗ろう!」
「やめろ! 全部舐められる!」
学校側。
最後の枝管が、滑り台の出口近くで開いていた。
白い粉が避難路を逆流しようとしている。
「入口を塞げ!」
「駄目!」
ピコの声。
「まだ大人が二匹来てない!」
「誰だ!」
『私の左脚と骨盤だ』
「先生、また分かれてる!」
『運搬中に食堂へ呼ばれた!』
先生の左脚が、二匹の幼体に担がれて大通りを走ってくる。
後ろから骨盤を載せた手押し台。
「間に合わない!」
「塞ぐな!」
俺は滑り台へ飛び込んだ。
下から粉が上がってくる。
上から先生の脚が落ちてくる。
「骨が先! 俺が後!」
『扱いが荷物だ!』
「今は荷物になれ!」
左脚を抱える。
薄い身体を滑り台の壁へ張りつけ、中央を空ける。
骨盤の手押し台が来る。
「台は無理だ、骨だけ落とせ!」
『もう少し丁寧な言い方を!』
「先生、ばらばらになって!」
『丁寧だが内容がひどい!』
骨盤が滑る。
俺の背中を越える。
下の幼体たちが茸山で受け止めた。
「全員通過!」
「閉じる!」
ピコが形札つきの小弁を引く。
滑り台の途中へ、ころころ写し機の粘土板が何枚も落ちた。
古代文字を複製するための板。
今日は隙間を埋める蓋になる。
ぺたん、ぺたん、ぺたんっ!
最後の板がはまり、白い粉の逆流を止めた。
「学校、防衛成功!」
農園の根床。
食堂の発酵壺。
雨水膜。
学校の写し板。
滑り台。
保存食。
警報歌。
昨日まで暮らしを少し楽しくするために作ってきた物が、今日は全部、町を守っている。
俺は何か特別な武器が欲しかった。
転生したなら聖剣とか、最強魔法とか、一振りで危機を消し飛ばす派手な力が一個くらいあってもいいだろ、と何度も愚痴った。
でも、今、白い粉を止めているのは一振りの剣じゃない。
食べた飯。
学んだ文字。
失敗した壺。
みんなで直した水路。
一匹ずつ覚えた合図。
町で暮らした全部だ。
「大将、ぼーっとするな!」
二号が味噌布の上から叫ぶ。
「格好いいこと考えてた!」
「口に出してへんから誰にも伝わらん!」
「後で言う!」
「今は右の糸、引け!」
「分かった!」
俺も味噌布の端へ飛びつく。
六本脚で糸を抱える。
人間だった頃の腕二本より、今の脚六本の方がずっと多くの仲間と同じ糸を持てる。
「全区画、粉の勢い低下!」
ジロの声が町を走る。
「北壁、圧力半分!」
「農園、菌床交換!」
「食堂、味噌盾まだいける!」
「学校、全員確認!」
「一匹ずつ数えろ!」
「幼体二十三! 先生の骨、全部!」
『頭はここだ!』
「先生一体!」
『最初からそう数えてくれ!』
白い管の震えが弱くなる。
床の枝管から出る粉も、細くなる。
最後の一筋が、茸味噌の布へ吸い込まれた。
しゅうう……。
止まった。
町に静けさが戻る。
「……勝った?」
ピコの声。
「全員いる?」
俺は聞く。
各区画から返事が来る。
「農園、全員!」
「食堂、全員!」
「学校、全員!」
「北壁、全員!」
「診療所、全員!」
最後にガーロ。
「ゴキブリ隊、欠けなし」
腹の奥へ入っていた力が、一気に抜けた。
糸へぶら下がったまま笑う。
「勝った!」
「茸味噌が勝った!」
二号が叫ぶ。
「俺たちが勝ったんだ!」
「茸味噌も仲間や!」
「食べ物を一匹に数えるな!」
「せやかて、あの味噌がおったから防げたんやで」
「気持ちは分かる。分かるけど数えるな」
大通りへ歓声が広がる。
白い粉だらけの防壁前に、硬焼きの欠片が配られた。
味噌は盾へ使い切った。
だから今日は、塩味の薄い硬焼きだけ。
「硬い!」
俺の顎では削るのに時間がかかる。
「勝利の味や」
「味がしない!」
「気分で食え!」
全員で笑いながら、同じ硬焼きを削る。
その時。
警報糸の一本が、勝手に震えた。
きん。
高い音。
きん。
二度目。
きいいいいん――!
三音目が、町の天井を鋭く走った。
「高い三音は……」
二号の声から笑いが消える。
「熱だ」
白い管の表面が赤くなり始める。
人間たちは粉を止めた。
今度は地上から、町を焼く熱を送り込んできた。




