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人間は敵か

白い濁流が迫ってくる。


 逃げ道は、前に人間。


 後ろに毒。


「どっちがまし!?」


「選択肢が両方ひどい!」


 白い管が震える。


 ごおおおおっ!


 魔力を吸う白い水が、曲がり角の向こうまで来た。


「前や!」


 二号が格子へ体当たりする。


 がんっ。


「硬い!」


「さっきの網みたいに外せ!」


「留め具が向こう側や!」


 格子の隙間は、俺たちの頭より少し細い。


 普通なら通れない。


 普通の身体なら。


「二号、息を吐け!」


「肺ないやろ!」


「気分だ!」


 俺は前脚を格子へ入れた。


 頭を横へ。


 触角を後ろへ倒す。


 六本脚を身体へぴたりと畳み、腹の節を一つずつ押し込む。


 ゴキブリの身体は薄い。


 隙間の幅さえ頭が越えれば、硬い殻の板を少しずつずらして抜けられる。


「人間の骨、羨ましくないやろ、こういう時」


「羨ましくない! 俺たちの方が絶対便利!」


 ただし、背中の防粉袋が通らない。


「袋を外せ!」


「外したら毒が!」


「向こうへ出てからつけ直す!」


 二号が結び目を噛み切る。


 乾燥殻粉の袋と交換菌床が、管の中へ落ちた。


「もったいない!」


「命より拾い物か!」


「違う! でももったいない!」


「今度取りに来たらええやん」


「人間の部屋に堂々と買い物か!」


「言われてみれば無理があるな……」


 腹が格子へ挟まる。


 白い濁流の冷たい匂いが、後脚へ届いた。


「押すで!」


「優しく!」


「今さら注文するな!」


 二号が頭で俺の尻を押した。


「そこは尻じゃない、腹の先!」


「知らんがな!」


 ずるっ。


 身体が格子を抜けた。


 白い部屋の床へ落ちる。


 俺の目の前へ、人間の靴があった。


 大きい。


 黒い革底が、俺の身体より何倍も長い。


 片方が持ち上がる。


 影が俺を覆う。


「うわっ!」


 横へ走る。


 どんっ!


 さっきまで俺がいた場所へ靴底が落ちた。


 見つかったのか。


 いや、人間は気づいていない。机の下へ落とした細い金属棒を拾おうと、姿勢を変えただけだ。


 俺は人間だった頃、何度こんなふうに足を置いただろう。


 床の隅にいる小さな生き物を、そこに暮らしている一匹だと思いもしないで。


「大将、後ろ!」


 格子の向こうで、二号の声。


 白い水が来る。


 俺は格子へ戻り、前脚二本を差し込んだ。


「触角を倒せ! 脚を畳め!」


「団子装備が!」


「捨てろ!」


「大将、さっきもったいないって!」


「今は命がもったいない!」


 袋の結び目が切れる。


 二号が頭から格子へ入る。


 引く。


 抜けない。


「太った?」


「今それ言う!?」


「朝の仕返しだ!」


「後で覚えとけ!」


 白い水が二号の後脚へ触れる寸前。


 俺は四本脚を床へ張り、残り二本で二号の触角をつかんだ。


「触角はやめろおおお!」


「ほかに持つ場所がない!」


 引く。


 ずぼっ!


 二号が格子から飛び出した。


 直後、白い水が格子へぶつかる。


 しぶきが飛ぶ。


「棚の下!」


 二匹で白い金属棚の陰へ滑り込んだ。


 人間が振り返る。


「今、何か音がしなかったか?」


「再処理水だろ」


「圧が高いな」


 大きな顔が床へ近づく。


 見られる。


 俺と二号は、薄い身体を棚脚の裏へ重ねた。


「大将、重い」


「喋るな」


「大将が上や」


「今だけ我慢しろ」


「戻ったら茸焼き一枚」


「分かった」


「二枚」


「値上げするな!」


「三枚」


「二号!」


「命の値段や、まけへんで」


「交渉する場面じゃない!」


 人間の指が床を探る。


 俺たちの前へ落ちていた金属棒を拾う。


 指一本で、俺の全身より太い。


 人間はそれを机へ戻し、立ち上がった。


「北側の圧、安定」


「五分流せば生体反応は消える」


 五分。


 町まで流れれば、ガーロ一匹どころではない。


 戻らないと。


 だが、管は白い水で満ちている。


「弁を止める」


「どうやって?」


 机の横から、細い金属軸が床近くまで伸びている。


 人間が回した操作輪と、白い管の弁をつなぐ軸だ。


 俺たちが町側で見つけた傷と同じ匂いがする。


「あれを逆へ回す」


「二匹で抱えても無理や」


「回すんじゃない。止める」


 蜘蛛糸を出す。


 帰還用の青糸は、格子を抜ける時に切れた。それでも腰へ短く残っている。


 二号の赤糸もある。


「軸へ巻く。回転の隙間へ噛ませる」


「切れたら?」


「雷で軸を磁化する」


「何で最後に急に分からん言葉出すん!」


「俺も合ってるか分からない!」


「怖いわ!」


「でも金属同士が引っつけば止まる!」


 二号が低く歌う。


 人間たちの会話と、机上の機械音へ重ねるための隠し拍だ。


「一、二、走る。三、止まる。四で棚」


 二匹で飛び出す。


 床を走る。


 靴の影が動く。


「三!」


 金属棒の陰で止まる。


 人間は気づかない。


「四!」


 次の棚へ。


 軸まで、あと身体十個分。


「一、二――」


 人間が突然振り返った。


 目が合った。


 たぶん。


 いや、俺の目は人間の顔を細かく見られない。向こうも俺を見たのか分からない。


「何だ、あれ」


 見られた!


「走れえええ!」


「拍は!?」


「中止!」


 二匹で軸へ飛びつく。


 蜘蛛糸を一周。


 二周。


 三周。


 軸が回り、糸が締まる。


「雷、弱く!」


「弱くって言うな! 難しいんだぞ!」


「強くしたら人間にばれる!」


「もう見つかってる!」


「怒られる覚悟はできてる?」


「してない! 全然してない!」


「今から慌てても遅いで!」


 六本脚を床へつける。


 青い火花を、細く、短く。


 ぱちっ。


 軸と支柱が引き合う。


 がきんっ!


 回転が止まった。


「再処理弁、異常!」


 人間が操作輪へ手を伸ばす。


「戻るで!」


 白い管から水が引き始めた。


 二号が格子へ飛び込む。


 俺も続く。


 背後で金属棒が床を叩く。


「害虫だ!」


 その声が、管の中まで追ってきた。


 帰り道は白い水で濡れている。


 装備は格子の向こうへ置いてきた。


 俺たちは管の天井へ張りつき、濡れた底へ触れないよう進んだ。


 前脚、中脚、後脚。


 一本ずつ確かめる。


 滑れば白い水。


「二号、歌えるか」


「口、乾いた」


「喋ってるだろ!」


「茸焼き二枚」


「帰ったら三枚やる!」


「急に増えた!」


「だから落ちるな!」


「値段が上がるたび、勇気も出るもんやな」


「食欲と勇気が同じ場所にあるだけだ!」


 二号が笑う。


 小さな拍が戻る。


「右、左、止まる。右、左、進む」


 俺も合わせる。


 白い水滴を避け、縦穴を下り、外した網を越える。


 途中で俺の前脚が滑った。


 二号の後脚が、俺の触角を挟んだ。


「触角はやめろ!」


「ほかに持つ場所ないんやろ!」


「さっきの仕返し!」


 引き上げられる。


 白い管の入口へ着くころには、六本脚が全部震えていた。


「三回!」


 二号が管を叩く。


 こん、こん、こん。


 帰還ではない。


 緊急回収の合図になってしまった。


「違う、一回だ!」


「手ぇ滑った!」


 外から二本の帰還糸が一気に引かれる。


「待っ――」


 すぽおおんっ!


 俺と二号は管から飛び出し、待っていた全員を巻き込んだ。


 チュウタ。


 ジロ。


 ガルダン王。


 先生の右腕。


 全員が床を転がる。


『帰還を確認』


 先生の頭蓋骨だけが、離れた安全な台から冷静に言った。


「もっと感動的に迎えてくれ!」


『予定より激しかった』


「糸を引く力が強すぎる!」


「三回は緊急だ!」


 ガルダン王の下から声がする。


「王、どこ!?」


「お前の腹の下だ」


「すみません!」


「大将、生きてるか確認だけさせて」


「生きてる! 押しつぶされてるだけだ!」


「安心した。もう少しこのままで」


「早くどけ!」


 全員、生きている。


 白い水の流入も止まった。


 ガーロは、交換菌床が吸着材を取り込んだことで目を覚ました。


「遅い」


 最初の一言がそれだった。


「助けに行った相手へ言う言葉か!」


「一刻で戻ると言った」


「管の中に時計はない!」


「茸焼き、三枚」


 二号が要求する。


「お前まで元気になるな!」


「元気になったついでに、団子二匹の武勇伝でも聞くか?」


「今は聞きたくない、後で聞く」


「後でちゃんと聞けよ!」


 その日の夜。


 町の中央広間で、緊急会議が開かれた。


 議題は一つ。


 人間は、敵か。


「敵だ!」


 最初に叫んだのは、ゴキブリ族の若い戦士だった。


「人間は俺たちを害虫と呼んだ。水へ毒を流し、消えるまで五分と言った。先に管を壊せ!」


「管を壊せば浄水設備も使えない」


 深根の者が反論する。


「なら人間の部屋へ攻め込む!」


「相手の数も武器も知らん!」


「地上で同族が狩られてる!」


「だから町の幼体まで戦わせるのか!」


 声が重なる。


 人間へ怒る者。


 管を埋めて隠れたい者。


 地上への道そのものを閉じたい者。


 人間を見たこともないのに、怖さだけは広間中へ広がっていく。


 俺には分かる。


 人間は、ゴキブリを殺す。


 俺だってそうだった。


 娘の前に出た一匹を守ろうなんて、考えたこともなかった。


 でも、俺は人間を全部嫌いにはなれない。


 娘がいる。


 一緒に笑った家族がいる。


 今見た二人が町を知らず、ただ設備の表示を信じただけかもしれない。


「クロは元人間だから、かばうのか」


 誰かが言った。


 触角が止まる。


 痛い。


 怒鳴り返したい。


 だけど、その声も怖がっている仲間の声だ。


「そう見えるのは分かる」


 俺は一度、言葉を飲み込んだ。


「俺は人間だった。人間がゴキブリを見て、何をするかも知ってる。だから安全だなんて言えない」


「なら敵だ!」


「今、俺たちへ毒を流した人間は敵だ!」


 広間が静まる。


「でも、見たこともない人間まで全部同じ敵だと決めたら、俺たちを全部同じ害虫だと決めた奴と同じになる」


「じゃあ話し合うのか?」


「今すぐは無理だ。小さすぎて声も届かない。先に知る。人数、目的、浄化設備との関係。逃げ道と水の止め方も作る。そのうえで、話せる相手か確かめる」


「甘い」


 ガーロが、診療用の敷布に座ったまま言った。


「悪かったな」


「だが、嫌いではない」


「どっちだよ!」


「敵なら倒す。敵でないなら、先に殴れば敵を増やす」


 ガーロは震える前脚で床を叩いた。


「毒を流した個体は探す。町へ来た人間は、一匹ずつ見る」


「人間を一匹って数えるんだな」


「大将がいつも言うだろ。群れでなく、一匹ずつ名を見ろと」


 俺が教えたつもりのことを、仲間から返される。


 胸の奥が熱くなる。


「最初の規則!」


 ピコが声を上げた。


「小さい声から先に聞く」


「そうだった」


 大人ばかりが怒鳴っていた。


 幼体たちへ聞く。


「地上、見たい」


「でも毒は嫌」


「人間が話せるなら、聞きたい」


「逃げ道も欲しい」


 単純で、正しい。


 会議の結論は四つ。


 白い管へ二重の遮断弁をつける。


 管内の音を常に見張る。


 人間の人数と目的が分かるまで攻撃しない。


 ただし、町へ毒が来れば全員で止める。


「これでいいか?」


 反対していた者も、すぐには頷かない。


 それでも槍を取らなかった。


 同じ場に残った。


 今夜は、それで十分だ。


 会議の後、二重弁を作る場所を探して白い管の外壁を調べた。


 チュウタが土を掘り、俺と二号が隙間へ入り、先生が壁の古代文字を読む。


「ここ、空洞や」


 チュウタが前脚で土を払う。


 薄い金属扉が出た。


 人間用の保守口だ。


 扉は少し開いている。


 中へ光を入れる。


 大きな布袋が一つ、床へ落ちていた。


 俺たちが見た人間の部屋と同じ、油と金属の匂い。


「工具袋だ」


 中には弁を回す金属具。


 浄化設備の地図。


 半分食べかけの乾燥パン。


 そして、人間の文字で書かれた新しい作業札。


『北区画、生体反応確認。処理後、地上門を二十四日後に開放』


「二十四日後……星図と同じだ」


 袋の底へ触角を入れる。


 まだ、温かい。


 持ち主は遠くない。


 人間は、古い設備の向こうだけにいるのではなかった。


 もう俺たちの町へ入っている。


 しかも、ほんの少し前までここにいた。

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