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ガーロを死なせるな

「ガーロ、寝るな!」


「……寝ていない」


「目を開けろ!」


「ゴキブリの目は……閉じない」


「そうだった!」


 治療所の石台で、ガーロの身体が震えている。


 右翅を貫いた傷は、黒紫色に腫れていた。


 そこから緑の筋が、腹の節へ伸びている。


 ゴキブリ族は毒に強い。


 俺も、腐った物や白い粉に他の生き物より耐えられた。


 どんな毒でも平気だと、どこかで思っていた。


 違う。


 強いことと、無敵は違う。


 俺の触角へ、ガーロの匂いが届く。


 土。


 殻油。


 茸苔焼き。


 その全部を押し流す、鋭い毒の匂い。


 同族だからこそ分かる。


 身体の中にあるはずの匂いが、少しずつ薄くなっている。


 六本の脚先が、石床を引っかいた。


 じっとしていろと頭では分かっているのに、右前脚が一歩出る。戻す。今度は左前脚が出る。


 何だ、この身体。


 こんな時まで勝手にカサカサするな。


 走って何かをすれば助かるなら、巣の端まで百往復だってする。だが、毒は俺が速く走っても抜けてくれない。


 できることが見つからない焦りは、敵に囲まれるより怖かった。


「先生!」


『女王の毒は神経だけではない。傷口から殻を腐らせ、魔力を奪っている』


「解毒できる?」


『手持ちの薬草では遅らせるだけだ』


「必要な物は?」


『青月草。冷たい水が流れる場所に生え、腐食毒を吸う』


 薬師が地図を広げる。


「一番近い群生地は、迷路区画の北です」


「取ってくる!」


 俺は石台から飛び降りた。


 チュウタの前脚が、行く手を塞ぐ。


「待って」


「待てない! 毒が回ってる!」


「北通路は、女王の後続部隊が通ってる」


「だったら速く抜ける!」


「一匹で?」


「俺なら隙間を――」


「クロ!」


 チュウタの声が、俺の触角を止めた。


「助けたいなら、僕たちを信じろ」


「信じてる!」


「嘘だ」


 食い気味に言われた。


「クロは、自分が一番危ない場所へ行けば仲間を守れると思ってる。作戦を全部考えて、自分で先頭を走って、失敗したら自分の責任にする」


「隊長なら――」


「一匹で全部やるのが隊長なの?」


 言葉が詰まる。


「僕は土の振動で後続の場所が分かる。カサカサ二号は音で別方向へ誘導できる。ジロは安全な時間を計算できる。先生と薬師は、ここでガーロを生かし続けられる」


「俺は?」


「青月草は狭い水割れの中にある。最後に取れるのはクロだけ」


「じゃあ俺も必要じゃないか!」


「必要だよ。でも、全部じゃない」


 チュウタが地図へ前脚を置いた。


「僕が道を選ぶ。二号が敵を動かす。ジロが時間を決める。クロは最後の隙間だけ。帰りはガーロ隊が運ぶ。誰か一匹の作戦じゃない」


 俺は、石台のガーロを見た。


 助けたい。


 今すぐ走りたい。


 自分が走れば、一秒でも早い気がする。


 でも、触角を焦がした俺より、チュウタの方が土の中を読める。


 敵を引きつけるなら二号。


 時間はジロ。


 治療は先生と薬師。


 俺が全部へ口を出せば、かえって遅れる。


「……分かった」


「何が?」


「北通路までの指揮は、チュウタに任せる」


「本当に?」


「聞き返すな! 決心が揺らぐ!」


 口にした直後、俺の身体はもう出口へ半歩進んでいた。


 六本脚は優秀だ。命令していないのに走り出せる。


 今だけは、その優秀さがものすごく迷惑だった。


 俺は右前脚で左前脚を踏んだ。さらに後ろ脚を腹の下へ折り、無理やり石床へ伏せる。


「何してるの?」


「俺の脚を説得してる!」


「話、通じそう?」


「反抗的だ!」


「脚と交渉が成立したら教えて。記録する」


「記録するほどの事態じゃない! いや事態か! 俺の脚が俺の話を聞かない事態だ!」


 チュウタが笑った。


 その笑い声を聞いて、焦げついていた胸の奥に、ほんの少しだけ空気が入った。


「じゃあ、僕の命令を聞いて」


「いきなり偉そう!」


「クロ、水を飲め。右後ろ脚の固定を締め直す。触角の濡れ布も交換」


「全部休めって命令じゃないか!」


「出発まで三分ある」


 ジロが言う。


「後続ムカデの隊列に、三分十二秒の隙間ができます」


「なぜ?」


「先頭集団が茸苔焼きの残りを見つけた」


「また食われてる!」


「時間を買えた」


「高い買い物だ!」


 ガーロが、かすかに触角を動かした。


「……食い物を惜しむな、大将」


「起きてた!」


「目は閉じないと言った」


「喋るな。茸苔焼きは帰ったら食わせる」


「薄いのは……嫌だ」


「濃くする! だから待ってろ!」


 出発。


 前はチュウタ。


 壁と天井をカサカサ二号。


 中央に俺。


 後ろへガーロ隊三匹。


 ジロは通話管のある分岐に残り、金属音で時間を送る。


「クロ、先に出ない!」


「分かってる!」


「僕の尻尾より前へ行ってる!」


「身体が勝手に!」


「戻れ!」


 俺は一歩下がる。


 落ち着かない。


 先頭ではないだけで、触角が前へ前へ伸びる。


 自分の命を預ける感覚。


 怖い。


 自分で決められないからではない。


 仲間の判断が間違えば、全員が危ない。


 そして俺の判断だって、何度も間違ってきた。


 信じるというのは、気持ちのいい言葉だけではない。


 自分の脚を止め、相手の一歩を待つことなのだ。


「止まって」


 チュウタが床へ伏せる。


 全員止まる。


 俺は理由を聞きそうになり、口を閉じた。


 土の奥から、細かな脚音。


 右の壁の向こうを、ムカデの後続が通っている。


 もし俺が先頭なら、角まで出ていた。


「七匹。向こうへ行った」


 チュウタが立つ。


「進むよ」


「了解」


 短く答えた。


 カサカサ二号が天井から降りる。


「この先、道が二つや。左は広いけど匂いが濃い。右は狭いけど水音がする」


「右」


 チュウタが即決する。


「クロ、通れる?」


「俺と二号は。ネズミは無理だ」


「じゃあ僕たちは左へ行って敵を引く。クロと二号は右から青月草へ」


「危険だ!」


「指揮は僕」


「ぐっ」


 使われた。


 自分で渡した言葉を使われた。


「無茶なら戻れよ」


「クロも」


「合図は?」


「歌が止まったら危険」


 カサカサ二号が胸を張る。


「歌い続けるんか?」


「お前が聞くな!」


 俺と二号は、右の水割れへ身体を滑り込ませた。


 石と石の間、幅は俺の身体ぎりぎり。


 背の翅を畳む。


 腹を平らにする。


 六本脚を横へ開き、一歩ずつ進む。


 冷たい水が腹の下を流れている。


 奥へ進むほど水かさが増した。


 腹の左右にある呼吸孔へ、冷水が触れる。


「ぶはっ!」


「口に入ってへんやろ!」


「気分の問題だ! 全身の横っ腹から水を飲まされてる感じがする!」


 身体を低くすれば石へ挟まり、持ち上げれば流れに押される。薄い身体は狭い場所で便利だが、薄いぶんだけ水流をまともに受ける。


 俺の後ろ脚が滑った。


 二号が翅の端を前脚で押さえる。


「右を上げ。呼吸する穴、水から逃がせ」


「詳しいな!」


「うちもゴキブリや!」


「たまに忘れるんだよ、その喋り方で!」


 二号に右半身を支えられ、斜めになって進む。


 先頭は俺でも、一匹ではなかった。


 人間だった俺なら、暗い岩の割れ目に身体を挟むだけで息が詰まっただろう。


 今の身体には、ここが広く感じる。


 触角は曲がり角の先へ届く。


 水の匂い。


 苔の匂い。


 青月草らしい、冷たい甘さ。


「右奥」


「見えへんけど分かるん?」


「匂いが青い」


「匂いに色あるんか」


「人間だった時はなかった。今は、そう感じる」


 自分でも説明できない。


 冷たさと甘さが混ざった匂いを、頭の中では青い線として感じる。


 ゴキブリの触角は、目より先に世界の形を教えてくれる。


「こっちだ!」


 狭い割れ目の奥へ、小さな水だまりがあった。


 縁に、青白い葉が三枚。


「青月草!」


『必要なのは根を含めて二株』


 先生の説明を思い出す。


 前脚で根元を掘る。


 水を含んだ土は柔らかい。


 一株。


 二株。


 三株目へ脚を伸ばす。


「二つでええんやろ?」


「失敗した時の予備!」


「欲張って戻れん方が失敗や!」


「ぐうっ。二号のくせに正しい!」


「二号関係ない!」


 三株目の葉先が、触角をくすぐった。


 持てる。たぶん。


 けれど、帰りの割れ目で引っかかるかもしれない。二号の足を遅くするかもしれない。


 予備を欲張って、本命の二株まで失ったら笑えない。


 俺は伸ばした脚を戻した。


「置いていく」


「えらいやん」


「子供を褒める言い方をするな。未練で触角が曲がりそうだ!」


 二株を濡れ布へ包む。


 その時、左の通路から歌が聞こえた。


「こっちやこっち、ムカデさん、尻尾はそっちや頭はこっち――」


 途中で止まる。


 歌が消えた。


「危険!」


 俺たちは来た道を戻る。


 狭い。


 前を二号が塞ぐ。


「もっと速く!」


「後ろから押すな! 薄くなる!」


「ゴキブリは押しても薄くならない!」


「気分の話や!」


 割れ目を飛び出す。


 左通路では、チュウタたちが壁際へ追い詰められていた。


 ムカデ七匹。


 ガーロ隊三匹が前へ立つ。


 チュウタが土壁を作るが、毒で崩されている。


「クロ、草は?」


「取った!」


「なら逃げるよ!」


「俺が引きつけ――」


「役割を変えない!」


 チュウタが怒鳴る。


「二号、音! クロ、草を守る! 僕が道を開ける!」


「了解!」


 俺は青月草を腹へ抱える。


 前へ出たい脚を止める。


 カサカサ二号が金属片を壁へ投げた。


 かきぃんっ!


 甲高い音が、右の空洞へ跳ねる。


 ムカデの触角がそちらを向く。


「こっちやで、脚多いの!」


 二号は天井を走り、別方向へ誘う。


 チュウタが床を押し上げた。


 ぼこんっ!


 土の坂ができる。


「全員、滑る!」


「滑るの!?」


「走るより速い!」


 ガーロ隊、俺、チュウタの順で坂へ飛び乗る。


 土の斜面を滑り、下の水路へ落ちた。


 ざぶんっ!


 冷たい流れが身体を運ぶ。


 カサカサ二号も天井から飛び込む。


「歌うゴキブリ流しや!」


「黙って泳げ!」


 ムカデは水路入口で止まった。


 流れの速い水を嫌がっている。


 俺たちはそのまま迷路区画へ戻った。


 青月草は二株ともある。


 全員いる。


「チュウタ」


「何?」


「いい指揮だった」


「知ってる」


「少しは謙遜しろ!」


「クロが言う?」


「それもそうだ!」


 治療所へ飛び込む。


 ガーロの緑の筋は、胸まで達していた。


 先生が青月草の葉を潰す。


 薬師が根を刻み、冷水と混ぜる。


 半分を傷口へ。


 半分を口へ。


「ガーロ、苦いぞ」


「茸よりは……ましだ」


「比べる余裕があるなら飲め!」


 薬液を流し込む。


 先生が治療術を重ねる。


 青い光が傷口を包む。


 緑の筋が止まった。


 少しずつ、色が薄くなる。


「効いてる!」


『毒は抜ける。だが右翅の腐食が深い』


「治せない?」


『翅を残せば、腐食が再び身体へ戻る』


 ガーロが答えた。


「切れ」


「でも――」


「飛べなくなるだけだ」


「ガーロは飛べるのか?」


「短い距離ならな」


 俺は知らなかった。


 ゴキブリの背にある翅。


 俺はまだ、まともに使えない。


 ガーロは飛べた。


 それを失う。


 俺の背で、使い方もろくに知らない翅が、かすかに震えた。


 飛べるというだけではないのだろう。


 誰より先に壁を越えた夜。高い棚から仲間の道を探した日。ガーロにしか見えなかった景色が、きっとあった。


 命が助かるのだから安い、とは言えなかった。


 失うのは俺ではない。


 励ます側が勝手に値段を決めるのは、違う。


「命より高い翅はない」


 ガーロが言う。


「お前が言ったのだろう。生き残る策を、全部で考えろと」


 俺は前脚で、ガーロの左前脚を掴んだ。


「切っても、仲間だ」


「当たり前だ」


「飛べなくても役目はある」


「当たり前だ」


「茸苔焼きも食える」


「それは重要だ」


「そこが一番返事が強い!」


 先生の光刃が、腐食した右翅の根元へ触れる。


 青い光が細く走った。


 ぱきんっ。


 右翅が石皿へ落ちた。


 ガーロの身体が一度、大きく震える。


 俺たちは前脚を離さない。


 薬師が傷口を塞ぐ。


『毒性反応、低下』


「助かった?」


『ああ。命はつながった』


 治療所の全員が息を吐いた。


 入口の外からも、どっと声が上がった。


 いつの間にか、ガーロ隊が通路を埋めている。


「隊長は!?」


「生きてる?」


「入るな! 治療所が狭い!」


 薬師が怒鳴る。


「一匹ずつ顔を見せろ! 触るな! 大声を出すな! 食べ物は置いていけ!」


「最後だけ歓迎してる!」


 最初の一匹が入口から触角を伸ばした。


「ガーロ」


「聞こえている」


「俺の分の茸苔焼き、置いていく」


「食え。お前も戦った」


「半分にする」


 次の一匹。


「俺は水を持ってきた」


「そこへ置け」


 次は、幼体のピノ。


「これ、先生の授業で分けた食べられる苔」


「いらん」


「食べられるよ?」


「ガーロ。病人は好き嫌い禁止だ」


 俺が言うと、ガーロの触角が力なくこちらを叩いた。


「大将、後で覚えていろ」


「生き残った後の予定が増えたな!」


 仲間が一匹ずつ来る。


 名前を呼ぶ。


 水を置く。


 食べ物を置く。


 役に立つか分からない光る石まで置いていく。


「これ、何に使うの?」


「元気が出るかと思って」


「気持ちは分かる!」


「俺も何か置いていく」


 バグまで来て、欠けた殻の欠片を置いた。


「それ、ただの殻だろ」


「元気が出る石と、大差ない」


「屁理屈だけど嬉しい奴!」


 石台の横が、贈り物でいっぱいになった。


 ガーロは右翅を失った。


 失ったものは戻らない。


 だから、簡単に「よかった」だけでは終われない。


 それでも、空いた右側を埋めるように、仲間の匂いが集まってくる。


 ゴキブリになったばかりの俺は、同族が集まる匂いを不快だと思った。


 台所の隅に潜む群れを想像したからだ。


 今は、一匹ずつ誰が来たか知りたくなる。


 この匂いは、帰りを待っていた者の匂いだ。


 ガーロの残った左翅が、ほんの少し持ち上がった。


「全員、来たか」


「まだ外に並んでる。百匹近いからな」


「うるさいはずだ」


「嬉しいくせに」


「毒で耳がおかしくなったらしい。大将の声だけ聞こえん」


「元気になってる!」


 ガーロの匂いが、少しずつ戻ってくる。


 毒の鋭さの奥から、土と殻油と、いつもの同族の匂い。


「ガーロ」


「何だ」


「茸苔焼き、持ってきたぞ」


「冷めている」


「生き返って最初の文句がそれ!?」


「温め直せ、大将」


 声は弱い。


 でも、確かに笑っていた。

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