蜘蛛の庭へ
蜘蛛の庭には、入口がなかった。
正確には、入口らしい穴が七つあった。
そして全部に糸が張ってあった。
「帰ろう!」
「早いよ!」
チュウタが俺の尻を押す。
「勇気ある撤退という言葉を知らないのか!」
「まだ一歩も入ってない!」
「だから被害ゼロで帰れる!」
ガーロの大きな前脚が、俺の進路を塞いだ。
「三日で食料を倍にするのだろう」
「はい」
「残り二日と半日だ」
「急に現実を見せるな!」
蜘蛛の庭。
名前だけ聞けば、花でも咲いていそうだ。
実際に咲いているのは白い糸である。
床から天井まで、細い糸が何百本も渡されている。
水滴がついて、発光苔の青い光を反射している。
見た目だけなら綺麗だ。
触れた獲物が八本脚に包まれる点を除けば。
この糸を、俺は知っている。
転生した初日。
何も分からず走り、一本を揺らした。
天井から蜘蛛が降ってきた。
右からも左からも現れた。
逃げた先にまで糸があり、俺は壁の割れ目へ飛び込んだ。
あの時は、自分の六本脚がどこへ着いているのかも分からなかった。前脚が走れば後脚がもつれ、触角へ糸が触れるたび「死ぬ」「今度こそ死ぬ」「いやさっきも思ったけど今度こそ本当に死ぬ」と頭の中で叫び続けた。
今も怖い。
糸の一本一本が、俺の身体を包む白い袋に見える。薄い翅の下がぞわぞわし、使える五本の脚が勝手に後ろへ下がろうとする。
でも、今回は背後から声が来る。
「クロ、触角が後ろ向いてるよ」
「逃げたい気持ちが形になってるんだよ! ゴキブリの感情表現、正直すぎる!」
「戻す?」
「戻す! 前へ! 怖いものは前から見た方が、たぶん少しだけましだ!」
焦げて短くなった片方と、無事な一本を無理やり前へ向けた。
「あの時の奴らと同じ種類だ」
庭の奥に、小さな蜘蛛が見える。
灰色の腹。
黒い八本脚。
目は退化しているのか小さい。
代わりに、前脚の毛が糸へ触れている。
『糸の振動で獲物を探すのだろう』
先生が声を落とす。
「一匹、二匹……見えるだけで六匹」
チュウタが数える。
「見えない場所に倍はいると思え」
ガーロが言う。
「経験あるのか?」
「仲間が何匹も食われた」
短い返事。
ガーロの背にある三本の爪痕。
蜘蛛の脚につけられた傷かもしれない。
「その話、もっと詳しく聞いていいか」
「今はいい」
「絶対あとで聞くからな。逃げても触角の匂いで追う」
「厄介な大将だ」
「褒め言葉として受け取っておく!」
「赤土は?」
『庭の中央より奥。湿った壁の下だ』
先生が古い地図を示す。
七つの入口のうち、最短は中央。
糸も一番多い。
左右から回れば距離は倍。
どちらも途中で狭くなり、ガーロが通れない。
「中央から行く」
「正気か」
「糸を避けるんじゃない。使う」
俺は入口前に落ちている小石を拾った。
糸へ投げる。
ガーロが前脚で止めた。
「何をする」
「揺らして、蜘蛛がどこから来るか見る」
「こちらへ来るぞ」
「だから、俺たちは別の入口に隠れる」
小石へ細い糸を結ぶ。
俺たちは右の入口脇へ身を伏せた。
「引くぞ」
縄を引く。
小石が中央入口の糸へ触れた。
ぴんっ。
一本。
弱い振動。
庭の蜘蛛が、同時に動きを止めた。
もう一度引く。
ぴぴんっ。
蜘蛛が中央入口へ走る。
一匹。
二匹。
三匹。
天井の穴からも二匹。
「五匹」
「まだ来る」
床の枯れ葉が持ち上がり、大きな蜘蛛が現れた。
「隠れてた!」
『声を抑えろ!』
六匹の蜘蛛は、糸へかかった小石を囲む。
前脚で触る。
噛む。
食べられないと分かると、周囲を探し始めた。
俺たちは息を潜める。
俺は呼吸を止められない。
先生は呼吸をしない。
「先生、ずるい」
『今言うことか』
蜘蛛が元の場所へ戻るまで、長い時間がかかった。
「振動した場所には全員で集まる」
チュウタが言う。
「なら、庭の反対側を揺らし続ければ、道を空けられる」
問題は、どうやって反対側の糸を揺らすかだ。
縄は届かない。
石を投げても一度しか鳴らない。
俺は周囲を見た。
入口の上から、水滴が一定の間隔で落ちている。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
「あれだ」
「水?」
「水滴を葉で受けて、別の糸へ落とす」
大きな葉を斜めに立てる。
水滴が葉の表面を流れ、先端へ集まる。
落ちる先を、庭の左奥へ伸びる糸に合わせる。
ぽたんっ。
糸が揺れた。
蜘蛛一匹が振り向く。
成功――と思ったのは一瞬だった。
水滴が重すぎた。
びぃんっ!
振動が一本の糸だけでなく、交差した横糸を通って入口側まで走る。六匹の蜘蛛が左奥ではなく、俺たちの真ん中へ一斉に顔を向けた。
「全部こっち見たあああっ!」
『声を抑えろ!』
「無理! 八本脚が六匹まとめて俺を見たんだぞ! 前世なら家の名義ごと捨てる数だ!」
ガーロが葉の根元を押さえ、水滴の落下を止めた。チュウタが土を少し盛り、葉の傾きを緩くする。
「一滴を小さくする!」
「でも小さすぎたら蜘蛛が気づかない」
「なら、二滴を時間差で落とす」
カサカサ二号が小さな葉を二枚引き裂き、大きな葉の先へ左右に重ねた。
「右、左、少し休んで右。獲物が脚を引きずる音にするんや」
「分かるのか?」
「俺ら、ずっと蜘蛛から逃げてきたんやで。追われる足音だけは詳しい」
ふざけた名前へ怒っていた声が、その時だけ低かった。
俺は葉の角度を合わせる。チュウタが根元を土で固定する。二号が葉先を少しずつ噛み、滴の大きさを揃えた。
ぽつ。ぴん。
ぽつ。ぴぴん。
一匹の蜘蛛が左へ向く。
次の蜘蛛も、今度は俺たちではなく左奥へ走った。
「二号、すごい!」
「まだその名前で呼ぶんか!」
「褒める時も名前は名前だ!」
「たまたま蜘蛛が気まぐれだっただけかもしれん」
「謙遜してる場合か。今の三匹、完璧に左へ向いたぞ」
「……せやったら、少しは俺の腕もあるんかもな」
「素直になった!」
「調子に乗るなよ、大将呼ばわりの方が先や」
次の水滴。
ぽたんっ。
もう一匹が向かう。
「いける」
葉を二枚、三枚と増やす。
異なる高さの水滴が、左奥の糸を順番に叩く。
ぽた。ぴん。
ぽた。ぴぴん。
まるで、小さな獲物が逃げ回っているような振動になる。
蜘蛛たちは次々と左へ集まった。
「今だ。中央を通る」
俺が先頭。
次にチュウタ。
先生。
ガーロ。
最後はカサカサ二号。
「その名で呼ぶな」
「じゃあ、二号」
「もっと嫌だ」
「注文が多い!」
糸と糸の隙間を進む。
俺なら余裕がある。
チュウタは腹を床へつける。
先生は骨盤を横にする。
ガーロは大きい。
「腹を引っ込めろ」
「これ以上は無理だ」
「茸を食べる前でよかったな」
「黙れ」
「食べた後だったら、今頃ここに詰まって蜘蛛の格好の的だぞ」
「本当に黙れ! 想像させるな!」
一本の糸が、ガーロの翅すれすれにある。
俺とカサカサ二号で、葉の枝を差し込み、糸を少し持ち上げる。
「今」
ガーロが下をくぐる。
糸は揺れない。
「俺の力が必要だったな」
カサカサ二号が得意そうに言う。
「大活躍だ」
「この程度で?」
「糸一本を鳴らさなかった。全員を救ったのと同じだ」
「大げさだ」
「危険な場所では、小さな成功を大きく褒めるんだよ」
カサカサ二号は何も言わなかった。
ただ、帰り道用の白石を、見つけやすい場所へ丁寧に置いた。
さっきまで白石は、言われた間隔で置いているだけだった。今は違う。帰りに一番見えやすい壁の角。床の窪み。蜘蛛に蹴られない石の陰。自分で場所を選んでいる。
「褒められると丁寧になる種類か」
「聞こえてるで」
「独り言!」
「声が大きい独り言やな!」
さらに進んだところで、チュウタの尾が止まった。
「クロ」
「どうした?」
「尾が動かない」
振り返る。
細い蜘蛛糸が一本、チュウタの尾へ貼りついていた。
糸は天井へ伸びている。
まだ大きく揺れてはいない。
「動くな!」
「動けないよ!」
「声も小さく!」
「クロの方が大きい!」
左奥に集まった蜘蛛の一匹が、脚を止めた。
前脚を糸へ当てる。
小さな揺れを探している。
先生が杖を上げた。
『糸を切れば振動が伝わる。根元から剥がすしかない』
「どうやって?」
『蜘蛛へ聞け』
「聞ける状況なら苦労しない!」
ガーロが葉袋から空の小袋を出した。
中には、抜け殻から取った油が少し残っている。
「これをつければ滑るかもしれん」
「食料用の大事な油だぞ」
「チュウタの尾とどちらが大事だ」
「チュウタ!」
「即答するんだ」
「そこで驚くな!」
問題は、糸まで誰が行くかだ。
俺の場所からは、別の糸を二本またぐ。
ガーロでは狭すぎる。
先生の腕は負傷中。
「俺が行く」
カサカサ二号が油袋を取った。
「帰り道の印は?」
「今はお前が持て」
小袋を俺へ投げ、いや、白石袋を俺へ投げ、油を口にくわえる。
細い身体を糸の間へ滑り込ませた。
右前脚。
左後ろ脚。
腹をひねる。
一度も糸へ触れない。
「うまい」
「二号は狭い場所を抜けるのが群れで一番だ」
ガーロが小声で言う。
「それなら最初から教えてくれ!」
「聞かれなかった」
「仲間の得意技は先に教えて!」
カサカサ二号がチュウタの尾へ着く。
油を一滴、糸の接着面へ垂らした。
前脚でゆっくり揉む。
糸が伸びる。
蜘蛛が振り向く。
「止まれ」
全員が固まる。
水滴が左奥の糸を鳴らした。
ぽたんっ。
蜘蛛はそちらへ戻る。
カサカサ二号が、もう一度糸を揉んだ。
するり。
チュウタの尾が外れる。
「取れた!」
チュウタが跳ねかけ、全員で押さえた。
「動くな!」
「嬉しくても静かに!」
「尾を振るな!」
「みんな声が大きい!」
俺たちは口を閉じた。
蜘蛛は気づいていない。
カサカサ二号が戻ってくる。
「大活躍だ」
「さっきも聞いた」
「二回活躍したから二回言う」
「……悪くないな」
カサカサ二号の触角が、少しだけ高く上がった。
「名前も悪くない?」
「それは悪い」
「そこは駄目か!」
庭の中央には、白い袋がいくつも吊られている。
蜘蛛が捕らえた獲物だ。
中身が残っている物も、空の物もある。
見ないようにして進む。
今は赤土が先だ。
でも、触角へ知っている匂いが触れた。
「待って」
「どうした」
「あの袋」
少し離れた糸に、細長い白い塊がある。
中で何かが動いた。
かさっ。
「生きてる」
ガーロがそちらを見る。
「寄るな。罠かもしれん」
「でも――」
「赤土を先に取る。帰りに確かめる」
正しい。
時間はない。
今ここで糸を切れば、蜘蛛が全部戻ってくる。
俺は白い袋へ、小さな黒石を投げた。
袋の下へ落ちる。
帰りに忘れないための印だ。
「絶対、戻る」
小さく言い、先へ進んだ。
赤土は、庭の最奥にあった。
壁から染み出す水の下。
灰色の地面に、そこだけ赤い粘土が露出している。
先生が指で触れる。
『鉄を多く含む。記録にある土と同じだ』
「苦味を抜ける?」
『試す価値はある』
「よし。掘るぞ」
チュウタが前脚を置く。
青い光が赤土へ流れる。
土が、小さな丸い塊に分かれて持ち上がった。
「制御、上手くなったな!」
「毎回鼻血を出してられないからね」
カサカサ二号とガーロが葉袋を広げる。
俺は土の中に白い粉がないか確認する。
先生は量を測る。
『茸四十本なら、この袋一つで足りる』
「二つ持って帰る」
「欲張るな」
ガーロが止める。
「次も来るのは危険だ。安全に取れる時に取る」
「重くなる」
「半分ずつ持つ。無理なら途中へ隠す」
「三日しかないぞ」
「命は一つしかない」
ガーロが俺を見る。
やがて、葉袋を二つ開いた。
「急げ」
「最初からそう言え!」
赤土を詰める。
葉袋はずっしり重くなった。
ガーロが一つ。
カサカサ二号がもう一つ。
「二号、無理なら言えよ」
「俺は二号じゃない」
「じゃあ何て呼べばいい?」
「……勝手にしろ」
「カサカサ二号!」
「選び直せ!」
その時、庭の左奥から音がした。
ぱさっ。
水滴を受けていた葉が、重さに負けて倒れた。
誘導の振動が止まる。
蜘蛛たちが、一斉に脚を止めた。
「まずい」
一本の蜘蛛糸が、わずかに揺れている。
俺たちがくぐった時に残った振動だ。
蜘蛛の群れが、こちらへ向きを変えた。
「帰るぞ!」
赤土を背負って走る。
来た道の白石を追う。
糸をくぐる。
先生の骨が一本触れそうになり、チュウタが尻尾で引く。
ガーロの葉袋が壁に当たり、赤土が少しこぼれる。
「置いていくか!」
「まだ持てる!」
背後で、蜘蛛の脚音が増える。
かさかさかさかさっ。
俺たちより速い。
「右の糸へ小石!」
カサカサ二号が白石を投げた。
ぴんっ!
蜘蛛の二匹が右へ逸れる。
「今のは帰り道の印だぞ!」
「命と石、どっちが大事だ!」
「命!」
「なら走れ!」
こいつ、使える。
入口まで、あと少し。
だが例の白い袋が、道の上にある。
下には俺が置いた黒石。
袋の中で、また何かが動いた。
「助けて」
小さな声だった。
今度は、はっきり聞こえた。
俺は立ち止まる。
「クロ!」
「ゴキブリだ」
袋の端から、小さな触角が一本出ている。
幼体。
俺たちと同じゴキブリの幼体が、蜘蛛の糸に包まれていた。
背後から蜘蛛が迫る。
赤土は重い。
誘導用の葉は倒れた。
入口まで走れば、俺たちは逃げられる。
立ち止まれば、全員が糸の餌になるかもしれない。
ガーロが低く言った。
「土を持って戻る。それが約束だ」
白い袋の中から、もう一度声がした。
「お腹、空いた……」
三日分の食料を救うか。
一匹の命を救うか。
「こういう二択、本当に嫌いだ!」
だから俺は、二択そのものを壊す方法を探した。
土も持ち帰る。
幼体も助ける。
蜘蛛にも食われない。
「全部やるぞ!」




